朝のホームルームを終えて遊馬や小鳥達と会話を交わしていたミハエルは、クラスメイトから「二年の神代璃緒先輩が」と言われて廊下に出た。待っていた璃緒はミハエルに気が付くと「ごきげんよう」と笑って紙袋を差し出し手くる。

「これね、凌牙が去年仕立ててもらった物らしいの。浴衣と帯と、その他諸々。必要な物は一式揃ってますわ」
「え……え!?良いの!?」
「結局その浴衣は使わなかったらしいの。でも私それを知らないで一緒に新しい物を知人に仕立ててもらってしまって。『それなら使わないで腐らすより、使ってくれる奴の元へ行った方が良いだろう』って、凌牙が言うものだから」

 だから殆ど新品よ。にっこり微笑む璃緒に、ミハエルは目を輝かせて紙袋を覗く。淡い水色の浴衣と黄色の帯、赤い鼻緒の下駄。綺麗に畳まれているので詳しくは分からないが、浴衣には桜が描かれているようだ。

「持っていても凌牙は使わないから、是非貰ってくださいな」
「ありがとう、すごく嬉しい!――あ、でも僕着付けの仕方も何も知らないや……」
「心配御無用。私が着付けられるわ。それに、お望みなら私が特訓して差し上げることもできるし」
「浴衣って自分で着付けられるの?」
「やり方を覚えて練習さえすれば出来るようになるわ。私も凌牙も母に教えて貰って小さい頃に覚えたの。知っていて損はないはずよ」
「覚えたいっ!」

 丁度、来週から夏休みということもあり、ミハエルは花火大会が開催される月末までに着付け方を教わるために午後から璃緒にアークライト宅へ通って貰うことにする。本来はミハエルが神代邸へ行くべきなのだろうが、璃緒に断られてしまった。凌牙のことを考えたのだろう。
 璃緒に改めて礼を言い、軽く手を挙げて挨拶をして別れると丁度予鈴が鳴った。

「ミハエル。妹シャなんだって?」
「えへへ……内緒っ」

 なんだよぉ、と遊馬がつまらなそうに頬を膨らませるので「そのうち教えてあげる」と言って席へ戻る。一時限目は国語だったか。未だに縦書きに慣れないんだよなと思いいつつ教科書とノートを机上に用意する。
 鞄と反対の方へ掛けた紙袋がカサリと音を立てた。柔らかい水色が間だからちらついて、笑みがこぼれる。兄達に見せたら驚くだろうか。

――そうだ。トーマス兄様には内緒にしよう。

 内緒にして当日お披露目すれば兄は驚くだろう。自分で着付けたのだと教えたら、きっと、もっと。「似合っている」と頭を撫でて笑ってくれるだろうか?それを考えるだけでミハエルは幸せでいられた。



 紅茶の入ったティーカップが二つ並んでいる。テーブルのそれを見つめていたトーマスは、この家に初めて訪れた時のことを唐突に思い出していた。あれからもう二年になるのか。
 璃緒が入院してから、紅茶を飲む習慣のない凌牙はストックを切らしていたらしい。あの日、この家には珈琲しかなかった。豆を自分で挽いて、喫茶店で見かけるようなサイフォンを使う。インスタントではなく意外と本格的な。
 そんな珈琲をコーヒーカップと一緒に運ばれてきたミルクと角砂糖をこれでもかというほど目一杯入れて飲めば凌牙は呆気にとられたように目を丸くしていた。「いつも家では紅茶だし、しかも苦いのは嫌いだ」とぼそりと告げたら、彼は初めて自分の前で腹を抱えて爆笑して。涙を浮かべるほど笑う彼を黙らせるためにキスをしたら、砂糖も入れずにブラックで飲んでいた凌牙の咥内の苦みが自分の口の中にも広がって、思わず顔をしかめてしまった。

『……よくこんなの飲めるな』
『本当に嫌いなんだな、苦いの』

 そうして次に訪れた時には珈琲の代わりにアンティーク調のティーセットとアプリコットティーが用意されており、今度はこちらが笑ってしまったのだ。
 あの日と同じ紅茶が同じように並んでいる。

「――気持ち悪い」

 思い出して笑いをこぼしたトーマスに対し、そう言い放つ凌牙の声音にはいつもより棘がある。困ったように眉を寄せてテーブルのティーカップに手を伸ばした。

「初めてこの家に来た時のことを思い出した」
「……ああ、そう」
「お前の家、珈琲しかなくてさ。俺がこれでもかってぐらいミルクと角砂糖入れたらお前が驚いて目ぇまん丸くしてよぉ。苦いの嫌いだって教えたらお前、超笑ったろ」
「もう忘れた」
「そうか……でも俺が紅茶派なのは覚えてるみたいで良かったぜ」

 じゃねぇとまた、あのくそ苦い珈琲飲ませられるからな。
 トーマスがケタケタと笑えば凌牙はそれを視線だけで一瞥し、すぐに逸らした。

「それで?お前、結局昨日は何処行ってたわけ?」

 璃緒からの電話で神代宅に直行したトーマスは、彼女から凌牙が帰宅しないのだという話を聞いて付近を手当たり次第に捜索した。結局夜の九時を回った頃にふらりと戻って来て事無きを得たのだが、何処へ行っていたのかは結局言わなかったのである。

「言ったろ?璃緒が心配して俺に連絡よこして、探したんだぞ。お前が外に出たっきり帰って来ないってな」
「……出掛けるとは断ったんだ。別に何処行ったって良いじゃねぇか」
「凌牙」
「お前も璃緒も過保護なんだよ」
「凌牙ッ」

 少しだけ咎めるように口調を強くする。今日の凌牙はいつもより随分と饒舌だったが、かなり投げやりな態度だ。

「……家で待ってる璃緒のことも考えろ。出掛けるなとは言わねぇから、せめて何処に行くのか――」
「ベクターのところ」

 自分の声に重ねられた凌牙の声に、トーマスが目を見開く。

「ベクターに会いに行った」
「お前っ……なんで」

 後頭部を鈍器で思い切り殴られた気分だ。自分の知らないところで、凌牙がベクターに会いに行ったなんて。

 気の遠くなるような太古の時代。連合国の国王であったナッシュの、その妹であるメラグを死に追いやってバリアン世界を作るきっかけを作った男。バリアンとなったナッシュとメラグを殺した男。そして先の戦いではドン・サウザンドを復活させ人間世界とアストラル世界を滅ぼしかけただけでなく、バリアンとして復活したナッシュを仲間でありながら再び追いつめた男だ。

 今なおベクターがナッシュに敵意を向けているかは分からないけれど、そんな男のところへ行くなんて。しかも一人で。いくらなんでも警戒心が無さすぎる。

「言ったら行くなって言われるから、言わなかった」
「当たり前だろうが!あいつに何をされたか、忘れたわけじゃねぇだろ!?」
「……忘れてない。許してもいない」
「だったら!」
「でも、七皇だった」

 きっぱりと言い放たれた言葉。

「あれは七皇だった。『あの世界』で長い時間を共にした俺の仲間だ」
「凌牙、」
「なんとなく会いたくなって、会いに行った」

 面倒臭いと言わんばかりにしていたけれど、拒むことなく招き入れてくれた。

「お前達には敵でしかなくても、俺にとってあいつは仲間だった」
「りょう、」
「仲間に会いに行くのは、悪いことか」

 トーマスは黙り込む。浮かぶ言葉は声にならず、紡ぐこともできずに消えていった。




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