午前中の授業が終わった昼休み。昼食の時間として設けられているこの時間帯を、遊馬達と連れ立って屋上で食事を広げることがミハエルの専らの日課だった。
 今日も外の天気は気持ちが良いくらいの快晴。そんな中でいつものように弁当箱に詰められたおかずを噛みしめていると、小鳥が思い出したように月末のイベントのことについての話題を持ち出したのである。

「花火?」
「そう。今月末の土曜日にね、ハートランドで毎年恒例の花火大会があるのよ」
「それでみんにゃ浴衣を着ていこうって話ににゃって」
「ふぅん……?」
「あ!オレもねーちゃんに浴衣出してもらわねーと」

 大きなデュエル飯を頬張りながら遊馬が思い出したように慌てた。後々になると「なんでもっと早く言わないのってどやされちまう」と彼は苦笑する。

「そうだ。小鳥さん、浴衣のことだけれど来週の月曜日で良いかしら?」
 彩美しくランチボックスに詰められたサンドウィッチを手に、璃緒が尋ねる。

「はいっ。でも本当に良いんですか?璃緒さんの浴衣なのに貰ってしまって」
「知人に新しいのを仕立ててもらってしまったから、どうせなら着てくれる方の所へお嫁に行った方が良いでしょう?それに、私もその方が嬉しいの」

 優しい桃色の生地だから、きっと似合うはずですわ。にっこりと璃緒が微笑めば小鳥はきゃっきゃと花を飛ばした。
 ミハエルは飛び交う『ユカタ』という単語に眉を顰める。

「ねぇ遊馬」
「あ、勿論ミハエルも来るだろ?花火大会。露店がいっぱい出て遊ぶのも食べるのも楽しいぜ!」
「勿論行きたいけど。でも、その、ユカタ?って何かなと思って」

 ミハエルの問いに遊馬が目を丸くした。

「え、お前知らねぇの?浴衣」
「着物なら分かるけど……」

 むう、とミハエルは考え込んでしまう。此処へ来て文化の壁にぶち当たるとは。

「浴衣ってのは……ええと、その、和服の一種?で、ええと……」
 必死に説明しようとする遊馬の声はしどろもどろで、そんな彼を見兼ねてか、璃緒がくすくすと笑って助け船を出した。
「ミハエルくん。浴衣というのは所謂和服の一種で、着物を簡略化したようなものですわ」
「着物を?」
「ええ。こちらに来て、テレビの旅番組などご覧になったことはないかしら?温泉に入った後などに着ているバスローブのようなものなのだけれど」

 ある、とミハエルは頷く。ハートランドから少し遠くに離れた観光名所を巡る番組で、父のバイロンが「いいなぁ温泉。ミハエルが夏休みになったら行きたいねぇ」と呟いていたことを思い出す。そういえばあの番組で、リポーターの女性が温泉に入った後に布地の薄い和服のようなものを着ていた。

「あれが浴衣?」
「ええ。元々は湯上がりに素肌に着る本当にバスローブのような役割の略装だけれど、肌着を着けてお洒落着として色も柄ももっと明るく鮮やかなものを着てお祭りなどに出掛ける人が沢山いるの」
「そうなんだ……良いな、僕も父様と兄様達に頼んでみようかなぁ」
「――あら、そんなことしなくても大丈夫よ」

 サンドウィッチを食べ終わった璃緒が、デザートの苺を小鳥のうさぎ型の林檎やキャッシーのマスカットと交換しながら人差し指を立てる。

「え、でも僕浴衣なんて」
「ふふっ……私に任せてちょうだい」

 彼女の微笑みが一層深みを増した。ミハエルは弁当箱の蓋を閉めながらデザート代わりのチョコレートを口の中で溶かしほろ苦さを感じながら璃緒の微笑みに首を傾げるばかりだった。


 アストラルとバリアン、二つの世界が互いの存亡を懸けた争いはバリアンの神であるドン・サウザンドを遊馬とアストラルが滅ぼしたことにより一先ずの終焉を迎えた。邪神が消滅したことにより本来の姿であるアストラル世界のカオスの形を取り戻したバリアン世界はそこに留まっていた魂の殆どをアストラル世界が受け入れることにより少しずつ、だが確実に調和を取り戻している。
 そうして二つの世界が一つの世界に戻ったことにより、人間世界も平穏とそれぞれの日常を取り戻した。再びDr・フェイカーとの研究を始めた父・バイロンの提案もあり暫く日本に留まることになったアークライト一家は、「そうと決まればミハエルは学校に行かせるべきだな」という長男のクリストファーの一声で、三男ミハエルが中学校に通うことが決まった。
本来十五歳という年齢は中学三年生ではあったが、五年のブランクを考え学校側と相談し今年の春から中学二年生として籍を置くことになり、同じく二年生に進級した遊馬達と共に騒がしくも穏やかな毎日を過ごしてこの夏に至っている。


 授業を終えて途中いつもの面々と別れ一人日本で新しく借りた一軒家の門の傍まで来ると、中から黒い車が出て来てミハエルの目の前を通り過ぎていく。後部座席に乗っていたのは、一瞬しか見えなかったけれど青紫の綺麗な菖蒲色の髪。あれは。

「ただいまー」
「ああ、お帰り。変わりなかったか?」
「はい」

 玄関でミハエルを出迎えてくれたのはリビングに戻ろうと身を翻しかけた次兄のトーマスだ。先程の来客――神代凌牙を見送ったのだろう。

「兄様、あの」
「あん?」
「凌牙、来ていたんですか?家に来るなんて珍しい」
「ああ。さっき帰らせたけどな」

 そう返事をするとトーマスは先にリビングへと戻る。ミハエルも肩に掛けていた鞄を手に持ち替えて、その後を追った。

 神代凌牙。先の戦いで、仲間でありながらも苦悩の末にバリアン七皇のリーダー・ナッシュとしての運命を選び、遊馬達と対立した少年。凌牙に限ったことではく、バリアン七皇の者達は全員がバリアンとしての力を失い、まるで「生き直せ」とでも神が言ったかのように人間へと戻った。そして人間世界に生きる命として平穏な時間を過ごしている。凌牙もその一人であった。以前と同じように妹の璃緒と二人、静かに暮らしている。
 異なるのは滅多に人前に姿を現さなくなったということ。以前だって積極的に人前に出るのが好きな活発なタイプではなかったけれど、今はそれに拍車がかかり、学校にすら姿を現さなくなっている。「心が追いつかないのだろう。人よりナイーブな奴だからな」と言ったのは、先の戦いで深手を負い手術と治療、リハビリのための施設にいるカイトだったか。
 そんな凌牙と遊馬側に属した人間の中で今現在、殆ど唯一と言っていいほど交流があるのがトーマスだった。凌牙の事を唯一友と呼び必死に彼を取り戻すために戦ったトーマスの性格からいって、心身共に弱りきっていた彼をどうしても放ってはおけなかったのである。アジアチャンピオンとして日本を中心に色々な国へ飛び回りながら忙しい日々を送る合間に、色々な時間を削って凌牙に会いに行く兄は目の下に隈こそ浮ばないものの、最近少し痩せた様に見える。それでも彼は凌牙に会うことを止めない。まるで恋人のように。

「そういや……月末に花火大会があるらしいぜ。凌牙と見に行くかって言ってたんだけど」
「そうなんですよ!僕達もみんなで行こうって話になって」
「なんだ。もう知ってたか」

 流石に学校は情報源が早い。そう言ってトーマスが笑う。その表情が何処か寂しそうで、そんな兄を見るたびにミハエルは胸にちくりという痛みが刺すのを感じていた。その痛みに付けるべき名前が何なのかも、分かっていて知らない振りをするよう努めている。そうでなければいけないと自分に言い聞かせて。

そう、あれは一度きりの夢だったんだ。

「ただいま帰りました」

 リビングに戻るとロッキングチェアに腰掛けて揺られている父、バイロンがこちらを振り向いた。クリスはまだ仕事から帰って来ていないようで、もしかしたらカイトの所へ様子を見に行くかもしれないと朝食の時に言っていたことを思い出す。

「おかえり。楽しかったかい?」
「はいっ」
「ミハエル。紅茶の準備しておくから着替えて来い」

 いそいそと自室に戻り普段着に着替えてまたリビングへ赴くと、丁度ティーセットと菓子が運ばれてきたところだった。
 バイロンがフェイカーから貰ってきたというクッキーはチョコチップが入っていたり、チェリーやレーズンが入っていて。ピンクや緑、黄色といった色とりどりのマカロンも実に可愛らしい。ティーカップに注がれた柑橘系の香りがする紅茶は、セイロンティーだろう。疲れている時にトーマスが好んでいれるものだった。

「ねぇトーマス。藪から棒に聞くけど」
「ん、なに?」

 角砂糖を二つ入れたストレートのままでティーカップを口に運ぶバイロンが、「凌牙とはどうなの?」と無邪気に尋ねる。

「どうって……まあ、最初よりはだいぶ自分から話すようになったな。時々、笑うし」
「セイロンティーなんか選ぶから、草臥れてるんじゃないかなって思ったんだけど」
「骨は折れるさ。でも俺じゃないと駄目だし、俺にしかできないことだ……傍にいてやらないと」
「そう?そっか」

 ニコニコと笑みを浮かべるバイロンにトーマスも苦笑いを浮かべる。それからミハエルの学校での話になって、花火大会のことや浴衣の話なども話題になる。

「そっか。確かに向こうじゃ花火はあるけど浴衣はないからね」
「僕の浴衣は璃緒ちゃんが『任せておいて』って言ってたけど……」

 どういうことなんだろう。唇を尖らせてむうと河合らしく悩むミハエルに父も次兄もくすくすと笑った。こんな状況に限らずだが、何をしても大概のことは可愛いで大体済まされるのはまさに『ミハエルマジック』と言ったところである。


「それでですね、遊馬が――」
「あ、悪い」

 そろそろ片付けようかという時間になった頃、トーマスのD・ゲイザーが着信を主張する音を響かせた。
 相手の名前を確認したトーマスはすぐさま通話を繋ぐ。

「もしもし璃緒?どうした?……ああ、分かった。すぐ行くから待ってろ。――悪いが出掛ける。俺の分片付けておいてくれ」
「あ、はい。分かりました」

 通話を繋げたままでトーマスが立ち上がり、ミハエルにそう言い付ける。「恐らく帰らないから夕食はいい」と付け加えてコートをひっつかむと、彼はD・ゲイザーの向こうにいる彼女と何事か会話しながら足早にリビングを出ていった。

「兄様、どうしたんでしょう?」
「相手が璃緒だったみたいだし、凌牙に何かあったんじゃない?」
「え」
「僕らに助けを求めてこないところをみると、そこまで差し迫ったことでもないよ。随分落ち着いていたしね」

 それにしても、とバイロンは息を吐いた。

「“俺じゃないと駄目”“傍にいてやらないと”ね……」

 空になったティーカップに少し温くなった紅茶を注げば、どうやらそれが最後の一杯だったらしい。ティーポットの紅茶は空になって、開ききった茶葉だけが残される。

「愛と情はよく似てるけれど、受け取る側からしたらそれは全くの別物だ。そして注いだ分だけ無くなっていく……早いか遅いかの違いだけ。どれだけ、どんなに想っていても」
「父様?」
「人は傍に居すぎると忘れる。所詮自分とは別の人間で、ずっと傍にいる保証はないってこと。明日も相手に想われているかなんて分からないことを……それを忘れずに想い続けられた時、ようやく他人から家族になれるんじゃないかな」

 バイロンが角砂糖と四つカップに投げ入れる。じわじわと形を崩していくそれは紅茶の温度が温いためか全てが溶けきれずにザラザラとした粒を琥珀色の中に残した。

「大事なのは見極めることだよ。限りある自分の愛を与える上で、相手が自分に望んでいることは何なのか。自分が相手に与えているものは何なのか。人はそれを無意識に隠してしまうことがあるし、分からなくなってしまうことがあるからね。与えるモノを間違えれば、それは無駄になってしまうし」
「僕は……僕は誰かに想いを注ぐことが無駄になるとは思えません。例えそれが相手の望むものでなかったとしても、それが相手に伝わるのなら……傲慢でしょうか?」
「君がそう思うのなら、それで良いんだよ」

 でも、とバイロンは続ける。

「凌牙はそう思わないかもしれない」

 バイロンの出した名前を、ミハエルは呟き唱えるように復唱した。

「凌牙……」
「トーマスが凌牙に与えているのは愛なのか、情なのか。あの子自身は愛だと思っているようだけどね。本当にそうなのかなぁ?」

 サクッサクッとチェリーがのったクッキーが咀嚼される音だけがその空間に残った。





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