3、キベルネテス・ジレンマ



眠っている凌牙の髪を耳にかけてやりながら、IVは笑った。
月明かりを頼りに、IVのカメラは夜間モードに切り替わる。
凌牙の寝顔、かわいい。そう、とてもかわいい。
心理モデルが通常(Neutral)から、喜び(Happiness)へ傾く。
三次元の感情表現を持ったIVは、それにより頬を紅潮させた。
ただしそれが傾きすぎると、IVの思考回路は感情をどう判断していいか、また分からなくなる。
「かわいい」、「切ない」、「苦しい」。
抱きしめたい、熱い。恥ずかしい。
喜び(Happiness)を示した感情値はどこに割り振ればいい?
「幸せ」、なのに「怖い」んだ。
どうして反対の気持ちが同時に生じてしまうのか。
フリーズしそう、もう一度フォーマットしてくれ。

「……」

フォーマット作業を済ませたばかりのこのデータが、またすぐ容量に迫っている。

(……回路、焼け付く)

凌牙のことを考えると、情報処理回路が誤作動を起こしそうになる。
処理に行き詰ると、バッテリーの回転率が落ちて余計な熱を持つ。
IVは自分の胸に手のひらを当てた。じんわりと熱い39度。
背中側にあるバッテリーの熱が表まで伝わっているのだ。
最新技術の集合体、芸術に迫るGenuine Adonisである自分が、こんなにまでさせられる。

(凌牙……)

愛している、愛している、愛している。



愛している。



「今日、一緒に出かけませんか?」

夜が明けてから、IVは目の覚めた凌牙に熱いコーヒーを出した。
砂糖は一杯。
テラスで過ごす朝は、風が心地よい。

「凌牙が昔開発したステラリウム、バージョンアップしたそうじゃないですか。
久しぶりに宇宙を散歩しましょう」
「IV、お前の体はまだ…」
「たまにはいいじゃないですか。
メンテナンスにつきっきりだと、凌牙の体がもちませんよ。
どちらの体もケアはたいせつです」

目の前の椅子を引かれて、凌牙はそこに座る。
テーブルには既にIVの作った朝食が彩りを添えていた。
ベーコンのスープに、小さなトースト、半熟タマゴを乗せたサラダ。
凌牙の目の前でペッパーミルをくるくると回してみせながら、IVは鼻歌を歌う。これをすると凌牙はくすりと笑うのだ。

「さぁ、どうぞ」
「……ああ」

料理は出来ないと言われ続けていたロボット技術。
用意されたレシピだけでは、人工知能は無限の選択を迫られるからだ。
野菜の皮を何ミリの厚さで剥けばいいのか?
一口大に切り分けるには、何度の角度で切ればいいのか?
途中で電話がかかってきたら、どうすればいいのか?
人工知能は、決められた範囲内(フレーム)での対応しか出来ない……それはもう、過去の話だ。
IVの人工知能は、生きた人間の生活を幼少器からつぶさに記録する事によって、それを元に動いている。
膨大な学習データの積み重ねを読み込むことによって、IVはレモンパイもドリップコーヒーも難なくこなすのだ。
さらに開発者の凌牙は感情表現を三次元のモデルに置き換え、心拍数や呼吸・瞳孔のデータ、膨大な報告をIVに加えた。
何かにとりつかれたような開発だったという。
出来上がった人工知能感情表現回路は、開発者の名前にちなみ、RYOGA(時には四号機)と呼ばれている。

「早速、出かける準備をしないと」
「そのぶん明日は働いてもらうぜ」

あ。凌牙、口角が上がった。
感情の覚醒値が上昇した。いいね、君の笑顔。








午前中、凌牙は念の為 研究室で軽くIVの人工知能を点検することにした。
IVには研究室に隣接した棟にある自宅スペース待機させ、バックアップ用の基盤を装着してある。
本体のシステム基盤だけを研究室へ持ち込んだのだ。
本当なら一緒に来た方が早いのだが、IVは「支度があるから、午後に落ち合いましょう」と提案してきた。
自宅周辺を活動するだけなら予備装備のIV一人だけでも大丈夫だと考え、凌牙だけで研究室へ来たのである。
そのIVももうすぐここへ来るはずだ。
凌牙は急ぎ点検だけ済ませる。
ちょうどいいタイミングで、研究室の窓を廊下側からノックする音が聞こえた。

「IV!」

凌牙が呼びかけると、白衣姿の彼は軽く手を上げた。
高い鼻と彫りの深い印象的な目、それが人懐こく笑いかける。
研究室のドアをくぐって、彼は凌牙の元へやって来た。

「凌牙」

凌牙を抱き締める腕はたくましいのに、体温は凌牙とよく馴染む。
苦しくなるくらいの抱擁とキス。

「……っ」

抱きすくめられた凌牙は、腕の中で唇の感触を反芻する。
この温度は。

「IV、……」
「何」
「いや……違う。
お前は……IVじゃない」

凌牙が違和感に気付いた時にはもう、遅かった。
目の前の唇が、にやりと三日月のように吊り上がる。
次の瞬間、凌牙は押し倒されていた。



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