幸福なバッドエンド


薄暗いのを目指したつもり


――ぴしゃん…ぴしゃん…

 落ちていく滴は、洗い桶に溜まった水に波紋を浮かべた。洗い終えていない二枚の皿と透明なグラス。今手にしている果物包丁は、銀色を鋭利に光らせている。するりと手から落ちると、音を立てて沈んでいったのをぼんやり眺め終えて、凌牙は閉め切っていたことを思い出した自室のカーテンを開けに、ふらふらとキッチンから離れた。
アイボリーのカーテンの向こうで、どんよりとした空はいつの間に泣きだしたのか。アスファルトの灰色は色濃く滲んでいき、鮮やかなのは濡れて光る車や時折過ぎていく人の傘だけだ。自分は雨の日が嫌いではないはずなのに、正直、気が滅入る。
 原因は分かっていた。Wだ。――いや、この場合は自分だろうか?取りあえず、分かりやすく言えば彼と喧嘩をしたのだ。喧嘩の原因は、Wと付き合いだしてからそういった関係を誰とも一切持とうとしなかった凌牙の浮気。それがWにばれた。
「…………」
 知っている奴なのかと聞かれて、知らないと答えた。実際、相手の名前も何をしている人間なのかも知らなかったし、知る必要もなかった。お前が留守の間に街で出会って、一緒にホテルへ行ったと白状し、二度としないと言って頭を下げた。
 何考えてんだ。俺じゃ物足りないってか。不満だってか。満足させてやれなくて悪かったな。
 唇を噛んで浴びせられる罵声に耐え、そのうち怒りが沸点に達した彼に強姦も同然に抱かれてしまえば朝にはその猛獣のような怒りは収まった。そうして先に目を覚まし朝食の用意なんかしている彼に今一度謝れば、「もう怒っていない。でも二度とするな」と釘を刺されて、キスなんかされて。二度としないと心に誓った。――そんな夢を見た。DVのどうしようもない男に捕まり、散々の暴力の後に少し優しくされて突き放せないでいる可哀想な女のような夢。
 現実であれば良かったのだ。そうであれば、今此処でこんな憂鬱な気分を抱えていることはない。いつも通り、雨の日が好きでいられただろうに。
 凌牙は溜息を吐いて、水槽の中を泳ぐ赤い金魚に餌を落とした。
――そうか。
 言われたのはこの一言だけ。少し寂しそうな目をしたものの、Wは別段怒りもせずにこの話を切り上げた。
 だがその態度に凌牙は眉を顰めた。実際に激昂したのは浮気をされたWではなく、凌牙の方だったのだ。
 なんだよ。何で何も言わないんだ。自分の恋人が浮気して、お前は何とも思わないのか。どうでも良いのか。知らぬ間に溢れてきた涙を拭いもせず、捲し立てるように言って、最後に叫んだ。

 お前は本当に俺が好きなのか!?

 何か言ってほしかった。何か言ってくれるのを待った。だがWは悲しそうな顔をして、凌牙の頬へ手を伸ばすと流れた涙を拭い、髪を撫でただけ。
『なんだよ』
『…………』
『なんだよ、それは』
『……悪い』
 それからのことは、実を言うとよく覚えておらず、気が付いたらベッドで眠っていた。眠る前に「少し出掛けてくる」とWが出て行った気がしたが、何故か包帯の巻かれた左腕に気が付いた時には、凌牙はもう眠る彼の腕に抱かれていた。
 ヒビが入り、部品も飛び散ったたDゲイザ―と粉々になったグラスや食器が「取りあえず」と言う風にリビングの片隅に集められており、そういえばそんなことをした気がすると凌牙がおぼろげに思い出した頃、Wが寝室から出てきた。
「危ねぇから触るなよ」
「……ん」
「腕は大丈夫そうだな。痛いか?」
「いや、特に」
 腕に巻かれた包帯を撫でて、ふっと安堵したようにWの目元が和らぐ。
「なら良い。朝食なんにする?」
「……W」
「まあ朝食っていうか今の時間じゃ昼も兼用になりそうだしなぁ……あ、ラーメンは起き抜けで食いたくないから却下だぜ」
「なぁ、W」
「んー?」
 言いたいことも聞きたいこともあった。あの後、俺どうしたんだっけ。お前何時戻ってきたんだ。つーか何処行ってたんだよ。昨夜、何で何も言ってくれなかったんだ。なあ、お前――
 凌牙は涙が出る。Wが拭ってくれた。好きだと言う。いきなりどうした、と笑われた。
「一緒にいてくれ」
「いるよ」
「好きだ」
「ああ」
「好きなんだ」
「分かってるよ。ありがとな」
 笑ってくれる。髪を撫でて、傍にいてくれる。言えば抱きしめてくれるだろう。抱いてくれるだろう。Wは自分が望めば何だって与えてくれることに、凌牙は気付いていた。
「他に好きな奴いるなら、行けよ」
「……バカか。此処以外、行く場所ねぇよ」
 見え透いた嘘に、漸く凌牙が笑った。



20120720

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凌牙が報われたか報われてないか、判断は皆様にお任せ。



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