人類は定義に忙しく
小学生の時、学校を休んでひとり家で留守番しているのが好きだった。布団の中から見える室内は就寝時に見るものと同じなのに、同じように暗くない。普段は教室にいるはずの時間、午前中の明るさは夜に明かりを付けた時とはまた違って柔らかくて、静かなのに全くの無音というのでもなく聞こえてくる近所の声も煩わしくない。
熱があって身体は怠いのに、普段は知り得ない発見が嬉しくなったり、学校へ行ったみんなが見れないテレビ番組を見たり、用意してくれたスポーツドリンクや食事を食べたりする。布団の中にもぐっていてもどこかワクワクして、そんな小さな事がすごく特別だった頃。

グレイグが仕事で部屋を出て行った後、大きなベッドに勝手に入ったあたしは見慣れない天井を眺めながらそんな事を思い出す。あれからもう一度自分の部屋に引き返して顔を洗い、とりあえずどろどろに溶けた化粧を落とした。Tシャツと半ジャージに着替えてから惰眠を貪ろうと自分のベッドに潜ったものの、静か過ぎて眠れずやっぱりこっちに戻って来た。廊下を誰かが歩く音が聞こえる方が落ち着くなんて変だけど、現実と遮断された今の自分の部屋は少し怖い。

肌にさらさらと触りの良い真っ白いシーツ、ふわふわの枕、寝返りを打っても壁に脚が当たらないほど広いベッドは、勿論あたしの持ってるものより格段に質がいい。昼間から仕事も行かず人のベッドでだらだら眠れるなんて贅沢な時間だなあ。そう思う心とは裏腹に、子供の頃に好きだった微睡みはいつまで経ってもやって来ない。それどころか、ますます神経は冴え渡る。

「うう……眠れるわけがない……こんな、こんな、」

目を閉じれば視覚以外の感覚が過敏になり、息を吸い込む度にあたしの身体に取り込まれる男の匂い。これがグレイグの体臭なのか。誰も見てないのをいいことに今度は遠慮なく顔を埋めて匂いをかぐ。加齢臭と呼ぶほど不快なものじゃなく、かといって公式が謳っていたような香水の類いでもない。それは本能に直接訴えかけるような説明し難い異性特有のもので、色っぽいというよりは雄々しい、小型犬よりは大型犬、つまり推しのベッドは思った以上にすけべなベッド、略してすけベッドだったのだ。

安らかな眠りを約束されたようなスペックなのに、こんなベッドじゃ全く眠れる気がしない。匂いを嗅いでは悶え、悶えては匂いを嗅ぐ。繰り返しても飽きは来ないが、これでは気が休まるどころかますます興奮するだけだと誘惑を払うようにベッドから飛び出した。

自分の部屋へ何度目かの逆戻り。立ち上げたゲーム機。既にレベルはカンスト済みのデータを起こして向かうは裏ボス討伐。周りのメンバーを全て故意的に戦闘不能にし、腹いせとばかりにグレイグひとりでニズゼルファと対峙させた。時折画面に反射する自分の表情は真顔。数分後には英雄ひとりで世界を救い終わり、今度はグレイグが活躍するイベントの手前でセーブしてあるデータを起こす。カッコいいところではなく敢えての恥ずかしいムフフ本のくだりやグロッタカジノでのシーン。間接的に推しを痛めつけ、辱めては己の乱された精神を統一させた。

(ふう……お腹すいたな)

こんな状況でも身体は生きるために空腹を訴える。生憎、自宅の冷蔵庫にはろくな材料が無い。グレイグも気が利かないというか、女子を部屋に一人残してさっさと仕事に行っちゃって、ホメロスだったら食事のひとつでも手配してくれたよねきっと。そういえばデルカダールの食事ってどんなだろう?お城だからやっぱり高級な感じのものが出てくんのかな?専用のシェフとかいたりして、んん、食べたい。想像したらお腹が鳴る。迷わずグレイグの部屋に戻ったあたしは廊下へ続く扉をそっと開け、外の様子を伺ってみた。流石にジャージでウロつくのはマズイし、グレイグを呼び出そうにも方法が無い。

「失礼します。かんな様でよろしいですか?」

扉の隙間から不審者みたいに覗いていたあたしの前に現れたのは、緑の給仕服を着たひとりの侍女さん。きょとんとしているあたしを見て、くすっと優しそうに笑う。

「客人であるかんな様が不便無く過ごせるように、御要り用な物を揃えてやってほしいとグレイグ様から仰せ遣っております」

「グレイグが?」

「はい。御召し物を何着かお持ち致しましたので、部屋に入らせていただいても?」

「あ、はい、ど、どうぞ」

驚いた。誰にも言わないで欲しいとは言ったけど、なるほど。客人ね。言われるままにグレイグの私室へ招き入れたが、侍女はあたしの風貌を見て反応に困っていた。彼女なりに顔には出さないように振舞ってはいたけど、この物珍しさじゃ仕方ない。

カウチソファに順々に広げて掛けられたドレスがいかにも貴族って感じでどれも素敵だったけど、あたしからすると全部コスプレにしか見えなくて口元を歪める。わざわざ着せてくれようとする侍女の好意を丁重にお断りし、テーブルの上に置いてくれた軽食をジャージ姿のまま、ドレスを眺めながら食べる。客人に出すには質素な気もしなくもないが、テーブルマナーも自信ないあたしはフルコースみたいなのよりこういうパンとスープ煮みたいなので今は有り難かった。侍女さん、お皿を引き下げるまでは部屋から出て行く気無いみたいだったし。

「御用があればいつでもお申し付けください」

丁寧に頭を下げて出て行く。次元が違えば疎外感もあって当たり前だけど、同じ性別でもここまで違うともうあたしが女扱いされる見込みはゼロだね。ああいう人達がいる圏内で生活してたら、女性に対する理想もあがるだろうよ。まあ、最初が底辺だった時点で恋愛ルートは期待はしてないけど。せいぜいペットがいいところ。

日が暮れて数時間、グレイグはようやく部屋に戻って来た。遅くなってすまないと言いながら、部屋の隅で膝を抱えて座るあたしを見つけるなり肩をビクつかせる。

「しょ、燭台くらい点けたらどうだ」

「点け方を知ってれば点けてるよ」

影の中でどんよりとただ時間が過ぎて行くのを待っていたあたしは身体も動かしてないのに疲弊していた。結局、グレイグには地図にも載っていない遠い国から来たとだけ説明してあって、決して物語の外から来たとは伝えていない。たびのとびらは自分の部屋に繋がってはいるけど、出口が無いってことも言ってある。もしかしたらあたしに呪文は全く効かないかも知れないと思うと下手に外にも出られない。だって、ザオラルやザオリクなんかの蘇生呪文が効かなかったら終わりだし、勇者じゃないから都合よく教会に運ばれるなんてことも無いに決まってる。そばにいたのが困ってる人を放っておくような人じゃなくて良かったけど、根本的にこれから先の生活が安定して続く保証はまだ無いんだ。

「あたし、グレイグがいないと死んじゃうから!」

テーブルの上の燭台に点けられた小さな火が揺れる。暗闇の中でそっと灯されたその光は文明の進んだ電気照明より遥かに劣るのに、そこに誰かが居るのがわかるだけですごく安心してるあたしがいる。

「それは一大事だな」

「冗談で言ってるんじゃないんだけど」

グレイグは黒のスウェットみたいな室内衣を着てる。あの鎧は自分の部屋には置かないんだ。まあ、ひとりで着られるような物でもなさそうだし兵士達がいる区域に脱いで置いとく場所がありそう。

侍女に用意させたドレスが一着も袖を通した痕跡もなくソファに並んでいるのを一瞥して、ベッドに背中を沈めながら「疲れた」と呟くグレイグ。

「お風呂は?」

「兵舎で済ませた。使うなら部屋のものを使うといい」

あ、これなんか良い。同棲してるみたい。ひとりじゃなくなるとそんなことを考える余裕も生まれる。部屋の浴室は実はもうさっき見てきた。うちよりも全然広いしホテルみたいにオシャレだったけど、洗うものが石鹸しかなくて自分の浴室から愛用してるシャンプー類を持ち込んだことをグレイグはまだ知らない。

「寝るの早くない?」

仕事忙しいのはわかるけど全然会話がない。同棲カップルには程遠い、これじゃまるで熟年夫婦。もぞもぞと掛布の中に身を潜らせるグレイグにそう言うと、日はもうとっくと沈んでいると返される。老人かよ。まあコンビニも無けりゃテレビもないこんな生活スタイルじゃ、夜は寝るしか他にすることないよね。

そしてトリップの醍醐味と言えば、同じ布団に入って寝ることだって数多の作品を読んだあたしは知っていた。日中は消沈していた下心、復活。クローゼットの中へ足を突っ込むあたしの背中に降ってくる「おやすみ」。流石に自分の部屋で寝ると思っているだろうけど、甘いよグレイグ。あたしは自分の低反発まくらを取りに行くだけだ。

そして戻って来て愕然とする。

枕を取りに行って戻るのに掛かった時間はせいぜい二分くらいだというのに、グレイグはぐーぐーと寝息を立てて熟睡していた。いるいる、こういう人。布団に入ったらびっくりするぐらい寝るの早い人。あたしのお父さんと一緒。

隣に枕を並べて、ぐいぐいと身体を押し退けながら無理矢理隣に入り込む。体温高いな。この季節にはちょっとつらみしかない。っていうか、ここまでしといて起きないのって将軍としてどうなの。寝込み襲われたら死ぬよね、隙だらけだよね。

そして横になって鼻腔をくすぐる匂いに思い出す。このベッドが、すけベッドだったことを。

「うううう、おうう、」

声が言葉にならない。昼間よりグレイグの匂いがする。本人がいるんだからそりゃそうなんだけど、墓穴。なんかこの展開はやっぱり納得いかない。ムッツリキャラなんだから普通ここは隣で眠る女子の香りにドキドキムラムラして眠れなくなるのはグレイグの方じゃない?正気かこやつ。そういう天が定めし展開があるのがトリップじゃなかった?王道ってやつだよね?なんであたしが悶々としてるわけ?──解せぬ!

「うへええええ〜、」

鎖骨に噛み付きたい衝動と葛藤に何度も抗いながら、結局あたしはその晩、明け方近くまで眠れなかった。


***


朝、目が覚めて隣にあるかんなの気配に気付くと腕の一本も動かせずにしばらく身体は固まっていた。片脚は彼女の面積の少ない服から伸びた両脚に挟まれ捕まっている。つまり、太腿が直に俺に触れているのだ。神経は俺の理性を無視してそこに集中。

クローゼットから突然現れた裸同然の女と共生、この展開、ムフフ本で読んだ覚えがあるぞ。