バックアップは役立たず
「…トリップ特典ないパターン」

絢爛な装飾が施された巨鏡に映る私は一ミリも美人になっていない。髪の色が奇抜になったり、オッドアイになったりもしていない。若返ってもいない。前髪は真横から真横へピンで無造作に止められていて、ホメロスが貸してくれた羽織は汚してしまうから、と無理矢理あの硬いソファーに置いてきた。身につけているものはラプンツェルみたいとうきうき購入してから早半年の下着におよそ一年間愛用している緩みかけた某ニーソ型の体型補正ストッキングだけの最悪の出で立ち。つまり、寝起きの私だ。

「不覚。グレイグカラーでホメロスの元へ飛んでしまったのか」

下着の色に私を保護するとおっしゃっていた軍師様の真似をしてツッコミを入れてみても訪れるのは沈黙。

「…ふぉーりんらぶ。トリップの神様どうもありがとう〜」

歌ってみても目の前にイケメンの若い神様は出てこない。…やめようやめよう。トイレだトイレ。

お城らしい取手に手をかけて重い扉を開けば想像していたよりは近現代的な便器が出迎えてくれた。これまたお洒落なトイレだと感嘆しながら錠をして、いざ。腰を落とせばその冷たさに背筋が震えた。

「………そりゃあ、こんな状況下じゃでるもんもでないよね」

朝食と女物の服をすぐに用意させよう。

頭の中に反響し続ける彼の声は実に生々しい。35歳。昨晩の記憶が正しければ今は原作の一年、いや、

…──下手をしたら一日前かもしれない。

ゾクリ、と。込み上げてきたのは悪寒だけではなく、酸っぱくて苦くて刺激臭のする、胃の中身。カタカタと奥歯が鳴るのが気温の仕業ではないことは言わずもがな。自分でも呼吸が荒くなっていくのが自覚できる。身体の末端から徐々に感覚が失われていくのがわかる。自分で自分を繋ぎとめようと抱きしめてみても何の効果も得られない。

画面越しに見る彼は魅力的なキャラクターだった。身近なアラフォー男性のように毛穴の開いた肌がテカテカとしていることも、生え際が後退しかけていることも、鼻毛が飛び出ていることも、中年腹を弛ませることも、年齢特有の嫌な臭いを放つことも、そんな人間らしさ等ない無機質で整った容姿を持つ敵側の主要登場人物だった。でも、彼には無精髭が生えていた。触れた手は皮が厚くて顔に似合わず傷だらけで温かかった。髪の毛だってあんなに太く張りのあるものじゃなくて、さらさらと滑らかに動いていた。

コンコンコン。

軽いノック音は目の前の扉から。部屋に居たのは私ともう一人だけ。上手く働かない頭のまま立ち上がって元の位置へと下着を戻した。そうだよね。誰だって生きていればトイレくらい行くよね。早く場所を開け渡そうと思いながらも鍵にかけた指に力は込められない。

「つばき」

名前を呼ばれた後にまた三回。今度はさっきより大きくて重い音が響いた。はい。掠れた返事を出した喉はヒューヒューと音を立てている。何故か、不意に、30分間わざと生かさず殺さずに彼の戦闘モーションを眺めていたことを思い出し、それを皮切りに身体の異常は止まった。私は最初から何をされても文句を言える立場じゃなかったと、気付いてしまえばそれは至極簡単なことで、指は面白いほど軽やかに施錠を解いた。

ごめん、お待たせ。そう言おうとしていた、のに。「…どうせ塞ぎ込んでいるのだろうとは思っていたが」その顔を見てしまえば、視界には水の膜ができて、ぼやけて揺れている男の人らしい掌が近付けられる。わなわなと震える口も、ひっくひっくと鳴る喉も止まってはくれそうにない。

「女の最大の武器は涙と言った奴は相当の阿呆だな」

面倒臭くて敵わない。吐き捨てるようにしたその言葉と共に、零れ落ちる、なんて具合ではなく、それはもう蛇口の馬鹿になった水道のようにダバダバと流れる涙を掬う推しの指はやっぱり温かい。「張り詰めていたものが解ければそうなることもあるだろう」違う。そうじゃなくてこんなになったのはホメロスの顔を見た所為で、ああ、なんだ。

軍師トリップ夢なんて死ぬか病むかしかないから、と昨日は笑っていられた。それならば依存関係になり得ないように行動すれば良いのではないかと現実味の帯びていない脳で決意をした。ところが、どうだ。もう私は彼の顔を見ただけで気を緩めて子供のように泣き喚いてしまっている。

「おお、つばき、よ。っく、死んでしま、とは情け、ない」
「まだお前は生きている」
「いつ、死んじゃ、か、わかっない、もん」
「その点は私が責任を持とう」

自分の内に入れた者を理由もなく見捨てる、などという愚行はしない。…俺は、な。

トイレとバスルームの間の洗面台の前、ホテルで言うところの脱衣所に響いた低い声に呼び起こされたのは歴戦の夢女で馬鹿な私。いやだってもう、そうしないとやってらんない。許してください。シリアスなんてバイオレンス発生率があがるだけ。いい?トリップしちゃった全私。聞いて!

これはもう 絶対死ぬやつ 私わかる。

(うーん、字余り!)