床にこれでもかと額を擦り付けた。ゆっくりと正座して、三つ指揃えて添えた床にそれはもう勢い良く。やり過ぎた摩擦の痛みで一瞬声を上げてしまったけど、体勢はそのままをキープする。いわゆる土下座、武道においての正式名称はひざまずくと書いて跪伏礼と呼ばれる礼法(本来は床に頭まではつけない)で、作中でファーリス王子が見事に決めたのを画面越しに見たことがある私は、この世界で土下座なるものが通用することを知っていた。
生まれて初めての土下座をしてまであたしが懇願するのは──どうか命だけは取らないでください。出来れば地下牢も勘弁してください。どうしてもというならその前に一晩添い寝してください。とにかくあたしの話を聞いてください──なんて、頭の中では色々な思いが溢れ出てくるのに、そのどれもひとつとして言葉になり吐き出されることは無かった。だって、ここまで退路を断たれてもあたしはまだ状況が信じられないし、むしろ信じたくないという気持ちで一杯なんだよ。
「…………。」
目の前に見える床の模様と見つめ合う。真っ先に心配になったのは、これから先のこと。ふざけて「トリップしてえ」なんて冗談でも言うもんじゃないと思った。だって、実際トリップってヤツは怖いぞ。持ってる貨幣はここじゃ通用しないただの紙切れだし、衛星なんて飛んでないから圏外は勿論だし、そもそも電気、ガス、水道というライフラインの実態すらわからない上に、モンスターが外をウロついてるような世界に落とされてしまったあたしは、きっとこのワールドにひとりでは生きていけない。だったら、殺さないでとお願いしたところでそのうち野垂れ死ぬのだから意味はないし、衛生面は最悪でも地下牢に入ってた方がとりあえずは生きていけるかもしれない。話を聞いてくださいと言っても、なんて説明すればいい?
何も言えないでいると、恐る恐る距離を詰めたグレイグがあたしの正面に膝をつく。
「……顔色が酷いぞ!」
土下座の体勢からあたしの上体を起こすために肩を掴んだ大きな手には人の温もりが確かにあって、手首には浮いた青い血管の筋も見えて、肌の質感とか、眉間に寄せた皺とかすごい細かくて、髪の一本一本も、モデリングの動きじゃないグレイグの動きも、今この空間に在るもの全てを否定して''あなたはゲームの世界の住人なんです''なんて言うの?それこそ気が狂ってるとしか思われない。んん、これって今シリアス展開じゃない?なんていつものようにふざけてる場合じゃない。ほんとに。これって今、死活問題。なのである。
「装いは異なるが、先程と同一であるな?まさか''たびのとびら''が繋がり誰かが迷い込んで来るとは思わなかったが……どこの国から来たのだ?名前は言えるか?ここがどこか、わかるか?」
……たびのとびら。といえば、あの画面がゆらゆらしてあっという間にワープするアレのことだ。クローゼットにはたびのとびらがある?それがあたしの世界とこの世界を繋いだ?あたしの現実世界では夢物語のファンタジーでも、グレイグにとっての現実世界では魔法のチカラが存在して当たり前なんだ。故意的な不法侵入じゃないってことを察してくれてるみたいで良かったけど、だからと言ってなんでも魔法のチカラで納得できるはずもなくて。むしろ今ここにおいてのあたしという存在の方が彼らにとって異端であり、トリップヒロインなんて呼べるほど良いものでもなくて、言うなれば戦闘力はたったの五以下、レベル1にも満たない不純物。
あ、眩暈がする。……やばい、吐きそう。
恐怖、悲観、絶望、混乱、ひとつだけじゃない感情があたしの中で入り混じり、突然うえーとえずき始めたあたしにグレイグはすごくびっくりした顔をする。けれどあたしの身体から外側に吐き出されたのは嘔吐物ではなく、涙。何故泣いてしまっているのか自分でもわかってないけど、子供みたいに声を上げて泣いた。時々咳も混ざって、いい大人がみっともないけど止まらない。うわあんと泣き叫びながら両手で濡れる目元を拭い、塗ったばかりのアイラインやマスカラが溶けて濁る涙の色。くそう、ウォータープルーフの嘘つき。
「混乱するのも無理はない、私とて驚いているのだ」
グレイグは両肩をぐっと掴み直してあたしを立たせると、大きなその手で背中をさすりながらカウチソファまで添って誘導してくれた。
「ああ、ちょっと待ってくれ! ……コレを、」
うろたえながらもどこからか持って来たハンカチを差し出し、隣に座るグレイグ。それを遠慮なく受け取って顔に押し付けると、再び背中を優しく宥めるように手の平を滑らせてくれる。肌触りがいいこのハンカチってたぶんシルク。だから全然吸収しない。残念。英雄こういうところすごく残念。スカーフ的なヤツだわ。なんで綿素材じゃなくて絹なの。なんか一気に落ち着いて来た。落ち着いて来たら、途端に自分が恥ずかしくなって来た。
「ヒドイ顔してんなコイツ、って思ってるでしょ」
シルクのお高そうなそれで鼻をかみ、垂れた鼻水を拭って丸める。いやいやそんなことは、と手を振るグレイグは若干引いたような顔で目線をあちこち動かしていた。英雄、嘘つけないタイプ。じっと細めた目で視線を投げていると、「まあ今までにない種類ではある」と付け加えられる。あたしは、はあ、と盛大に溜息を吐いた。男ばかりの中で過ごして来た人生、きっとグレイグもグレイグの中で女という生き物に対して解釈違いを起こしているに違いない。グレイグって、女にはムダ毛が生えないと思ってるタイプの男だな、きっと。恋愛ルートのフラグを見事にへし折られた気がする。
「……かんな、」
「?」
「あたしの名前、かんなです」
どこの国から、そしてここはどこかわかるか、という問いには答えなかった。顎に手を添え、かんな、かんなと不思議そうに繰り返したグレイグ。もしかしてこの世界にはあんまり馴染みのない響きの名前なのかな、と眉をしかめる。
「そうか、ではかんな殿。申し訳ないが私には職務があるのでそろそろ行かねばならん。貴嬢のことはひとまず、私が最も信頼を寄せている同輩に相談しておこう」
隣で立ち上がり、あたしの目の前を通り過ぎる。ことはさせるものかと過ぎる寸前で後ろから下衣をガシと掴み、部屋を出て行こうとするその行為を阻止した。
「──ちょい待ち!」
「!!?」
グレイグはズレ落ちそうになる下衣を持ち支えながら顔を振り返らせる。
「最も信頼を寄せてる同輩って、もしかして''ホ''で始まって''ス''で終わる名前の人!?」
「そ、そうだが、」
「それは困る!!そんなことされたら死ぬ!物理的に!」
いや、出来ることなら会ってみたいですよ、そりゃあ。どっちも好きだし。落ち着いてみるとグレイグに会えたことすら凄くてすでに心は死にそうなのに、ホメロスと並ばれたら確実に精神的に召される。理由はもちろんそれだけじゃない。物理的に、というのはそのままの意味だ。
「冷徹なあの男に紹介されたら殺される!!秒殺される!!運良く生きたとしても三回は殺されかけるルートだから!!あっちは!」
「冷徹?ホメロスを知っているのか?」
「村人が言ってました!!冷徹だって!」
「聡明な男だ。きっとかんな殿が帰れるような良策を出してくれるぞ」
「無理無理!!それはまた機を見てってことにしとこう!心の準備もいるし!! ……っていうか、出来れば誰にも言わないで欲しいんだけど!!」
ここでは自分が自分である身分証明書もない。疑わしきは斬り捨てられ兼ねないホメロスなんかに会えるわけがない。恐ろし過ぎる。でも、そうか。グレイグがデルカダール城にいて、ホメロスもいる。それでいてピリピリした感じも無いって事はまだ原作が動いていない可能性が高いってことだ。
「誰にも言わないで」
下衣を掴んでいた手を掬い取られる。硬いグレイグの手は、本当に暖かい。