ヒロイン失格
「あれー……。」

自分のベッドでいつものように目が覚めた時、いつもの癖で特に用もないのに携帯端末を操作する。壁紙は夢の出来事だった筈のグレイグの半裸写真に設定されてて、時間が数秒止まった気がした。CGでも凄くリアルで綺麗だけど、これはその類じゃなくて生身なカンジ。毛穴が存在してるカンジ。そして、表情はカメラ目線で若干引いてるカンジ。

あの時あたしは、それじゃあお仕事頑張ってくださいなんて言いながらクローゼットをくぐって自分の部屋に難なく戻って来た。休みの日だったけど特に出掛ける意欲もなく怠惰に一日を過ごして、夜にはいつも通りにベッドに潜り、今に至る。

脱ぎ散らかした服や、ローテーブルの上の小物が乱雑に転がっている部屋。一人暮らしなのだから静かで当たり前なんだけど、静か過ぎて普段は気にならない壁掛け時計の指針の動く音が、今朝はやけに耳に障った。人通りの少ない地域でもないし、窓の外から人の声も車の走る音さえも聞こえないのがなんだか怖い。

自然と目線は、自分の部屋のクローゼットへ向く。確か服を取ろうとしたんだっけ、家で着る用の少しよれたTシャツを。

素足をカーペットの上に降ろし、クローゼットの前に詰め寄る。じっと暫くそれを眺めて恐る恐る引き手を掴んだけど、もしあれが夢でなくて現実だったらと思うと手はそこで一度止まった。いやいやまさか、と、一人心の中で否定して普段通りにそれを開けば、強力な磁石に引かれるみたいに身体は光の中に飲み込まれた。

出て来たのはまた、見覚えのある中世的な洋室。

ぶふっと勢い良く口から水が噴射する。昨日も丁度水飲んでる時だっけ。でも今日は半裸ではなくて鎧を着る途中だったか、鎖帷子という出で立ち。あたしもまた、昨夜お風呂に入って出て来たままの下着姿。それも眠る時にブラジャーは着けないから、下一枚だけ。丁度降ろした髪の毛で胸の大事な部分は見えないものの、鎖帷子をしどどに濡らしてこちらを見ているグレイグ……あれはやっぱり、グレイグなのかな。

「だっ……!ど、どっ……!」

誰なんだ、どこから来たのだ、そう聞きたいのは何となく伝わる。部屋は蝋燭の燃えた後の匂いがするし、クーラーもない室温は暑いけど湿気はなんか違う国みたいに乾いてるし、タイル床はひんやりしてるし、背中から後頭部に掛けてぞわぞわと走る気持ち悪さ。この五感覚は夢にしては余りにリアル過ぎて、夢じゃない、現実なんだと気付いたあたしは落胆してがっくりと両膝と両手のひらを床に着いた。だって、こんなことって、余りに酷い。

「ど、どうした!」

「解釈違いがしんどいんです」

思ってたのと違う。あたしは異次元トリップというものに解釈違いを起こしていた。映画や漫画に小説と、創作の中で過去から未来、そのまた逆も然りのタイムスリップというものもある。どちらも共通して、ヒロインがめちゃくちゃ油断している生活帯、下着姿のまま運ばれることは定番とは言えないのだ。少なくとも今まであたしが触れてきた物語の中の常識では、男性向けのエロ漫画くらいしかない。

推しに会いたい。トリップしたい。そんなことをSNSで呟くのは茶飯事だし、願ったり叶ったりは間違いなくそうなんだけど、なんかもっとこう、他の方法があったんじゃないかっていう思いがすごくあって、例えばフィールドでモンスターに襲われてるところをカッコよく助けられて保護されるとか、熟知トリップ特有の、主人公の旅に意味深な助言とかをする謎の女枠とか、面白い女だなって言われたりとか、あるじゃない!!部屋に来るっていうのはまあ、良しとしよう。百歩譲って、良しとする。危険な思いをしないで済むし。でも、大抵はそれなりのお出掛けする装いで、初めても二度目もすっぴんで下着姿ってのはどうなの。そんなのどこかの物好きな二次創作書いてる管理人くらいの発想だよ。

「……仕事に行こう」

現実へ帰ろう。今までのように社畜として働き、貰ったお金を次なる公式からの供給に備えておこう。それがいい。あたしはヒロインとして最初の一歩を間違えている。家だろうがどこだろうが、女として相応しい生活習慣を怠った者にヒロインをやる資格は無い。

重い身体を起こし、肩を沈めたままクローゼットをくぐった。止まらないため息、時計を見ながらいつものように化粧をして、いつものように仕事着に着替える。今は夏だから半袖のシャツに、薄地の膝丈タイトスカート。髪をサッと纏めて、靴を履いて、あたしは玄関の扉を開いてすぐに肩に掛けていた重たい鞄を落とした。

目の前に飛び込んで来たのはマンションの廊下じゃなくてさっきいた洋室。クローゼットを開けて中を確かめていたグレイグが振り返り、目が合う。今度は彼の私室の入り口の扉から出て来たらしい。ということは、逃げ道のないあたしに現実へ戻ってやり過ごす事は許されないということ。

──無慈悲。

「あなたは神を信じますか?」

訳もわからず、訪問勧誘みたいなセリフをグレイグに向けて口走ってしまった。

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