誠実と呼ぶには脆弱な
「──聞いているのか、グレイグ」

苛立ち混じりのホメロスの声にハッとして引き戻される意識。すまない、と短く詫びればその薄い唇から溜息が洩れた。ここのところホメロスはいつからかその口元に笑みを浮かべることが無くなり、溜息や舌打ちばかりを鳴らしていることが増えた。

「お前をそこまで腑抜けさせる女とは些か、是非その手練手管には興味があるな」

「……は?」

「少し前に女物の服を一式買い揃えさせたらしいじゃないか。誰かに贈るつもりの物でなければ、よもやお前にそういった趣味があるのか?」

「な、何故それを! ちが、違うぞホメロス!俺は別に歪んだ趣味も無ければ恋情を抱く相手がいるのでも……!とにかくお前に会わせられるような者は誰一人として──」

「──厭味だ、馬鹿者。今はその間抜け面と、話の途中で呆けるのを慎めと言っている」

「そ、そうか、すまん」

動揺を隠せないままホメロスから差し出された数枚の紙を受け取り、その一番上にある書面に視線を向けた。ホメロスは明日から五日間城を空けて遠征に出る。その間デルカダール王をお護りし、何かあれば留守を預かる責任者は俺だ。ホメロスの代わりに担わなければならない公務の説明を受けている途中、俺の悩める頭の中には確かにひとりの女が在った。

一度見られているから今更と身なりを気にせず、用意した物にも袖を通さず、裸同然の格好で俺の目の前を通るかんなは女として既に身体が出来上がっている年頃であり、良からぬ気を起こさぬ理性は持ち合わせているものの俺も男であると彼女は理解しているのだろうか。毎晩人が眠っている間に気付けば隣に潜り込んでいるし、肌寒い季節に変わった今では俺で暖を取っている節も見受けられる。化粧っ気のない顔に何も感じないと思っているのか、男女の関係でなければ見る機会のない無防備なあどけない顔が性的に男を煽るということを彼女はわかっていないのだ。唯一気掛かりなのは、日に日に俺の服や下着などが部屋から消えていくことくらい。趣味を疑うべきは俺ではなく彼女の方で、時々枕を交換しようと持ちかけられることもある。そうして助けて欲しいと言った彼女の言葉を受けた手前は騎士らしく紳士的に対応しているつもりだが、部屋に戻ればかんながいる生活にひとり自慰行為に宛てる時間も空間も無く、俺は今、男としての境地に追い込まれている。

「あ、おかえりなさい」

「ああ、でもまだ少しやることが残っていてな。休むなら俺に構わず先に休んでくれ」

「じゃああたしも起きてる。まだ灯りはつけてていいよね?」

かんなは自分の部屋から俺の部屋に大量の本を持ち込んでいて、それを人のベッドの上で寝転びながら読んでいた。本の中身は沢山の絵と俺の知り得ない文字が綴られ作られた''マンガ''と呼ぶらしい形式の本。俺は執務机の燭台に火を付けて座ると、髪をひとつに束ねて持ち帰った書類に向き合う。一足先に暖められた暖炉のお陰で寒さはなく、淡い橙色の灯りを頼りに筆を走らせる。時折、可笑しそうにくくっと喉を鳴らすかんなの声が届いた。

そもそも助けて欲しいと言いながら、怠惰な生活を送り続ける彼女に状況を打開しようという意欲があるとは思えない。世界地図を広げて見せてもここに自分の国は載っていないと言うし、詳しく聞いても俺には理解出来ない言葉が混ざる支離滅裂な会話。俺ではしてやれることに限界を感じていると告げればまた、何かに怯えたように誰にも言わないでくれと懇願される。

ホメロスに相談するのが最善策だと思うのだが、確かにここのところピリピリしている今のホメロスなら有無を言わさず彼女を斬り捨てかねない。疑わしくも煩わしいと。かんなのあの肌の柔らかさは魔物の類ではなく女人特有のものであるし、どこぞの国の密偵だと考えてみても動きが鈍過ぎて有り得ないのは一目瞭然なのだが。

(……しかし、けしからんな。あの服装は。)

走らせていた筆を止め、ふと前のめりになっていた姿勢を正すと正面に見えるかんなの姿。ベッドの上でうつ伏せになり、両ひじを着いて夢中で本を読んでいる彼女の脚。脚から曲線を描いて上を向く尻。尻からまた谷を作る腰。そのラインがはっきりとわかる短い室内衣からは太腿が露わに。ふわふわと羊のような毛糸で作られているくせに、冷えから脚を守る気はあるのかと問いたくなる面積の狭さ。同じ布質で作られた上衣はまだいい。袖が長い。だがベッドのそばにある小さな机に置かれた手燭からの頼りない灯りで明瞭になっている脚の陰影がまた麗らかで──

──ガスッ!

己の左手の甲にペン先を刺した。暫く触れてない身体の中心、下半身に集まる血流の熱をこれ以上上げさせない為に。柔らかいとはいえ金属部で出来たそのペン先は使い物にならなくなるほど歪んでしまったが、左手の甲は驚くことに無傷であった。己の鍛え方に誇らしくなるのと同時、冷静になる痛みすら生み出せなかった結果を悔やむ。

「何、急に。どうしたの?」

「いや、なんでもない」

突然の物音に眉を寄せて訝しくこちらを向いたかんなに気にしないでくれと声を投げ、潰れたペンを机の上に置くと溜息をひとつ洩らした。仕事のことで何かあったのだろうと思ってくれればその方が好都合。俺はそっと椅子を引いて立ち上がり、部屋から続いている個人の浴室に移動した。

脱衣所で服を脱ぎ捨てて中に踏み入ればそこは既に湿度も高く床も壁もまだ冷め切っていない。先程仕事を終えて帰ってくるまでにかんなが使ったのだろう。彼女が来てから湯浴みはいつも兵舎で済ませていて、今宵初めて逃げるようにここへ来た訳だが……。自分が使っていた頃とはまるで違う石鹸の匂いに軽い目眩が起こる。隅に並んだ華やかなデザインの瓶、丸い形に紐で結んである身体を洗うための綿布らしき桃色が壁に吊り下げられている。紛うことなき女の匂い。ここは、本当に俺の部屋なのか?

湯を捻り出し、立ち込める湯気の中で俺はひそやかに利き手を汚した。随分と長く吐き出していなかったのもあるが、壁を隔てた向こうにかんながいると思うと妙な背徳感も相まってさほど時間は要さなかった。事が済めばみるみる冷える思考、陥る自己嫌悪、これ以上仕事に手を付ける気にもなれず、浴室から出た俺は暖炉も燭台の火も手際よく消灯し、半ば自棄になってかんなの身体を押し退けるとベッドに横たわり、掛布を奪って丸まりそれを独占した。

「あ、ちょ、大人気ない!何急に怒ってるの?昨日勝手に寝顔を撮ったりしたから? ……っていうか、あたしのシャンプー使ったな!?」

戻れなかったらもう手に入るかわからないのにと文句を言うかんなが掛布を奪い返そうと引くが、その夜は断固として譲ってはやらなかった。



──それから五日後。

ホメロスが不在の間は普段よりも一層慌ただしく過ごしていたため、今朝はかんなの様子がおかしい事に気付けなかった。昼近くまでベッドから這い出て来ないのはいつもの事だが、朝食も昼食もほとんど口を付けずに返したと侍女から密やかに報告を受けた午後。そんなことは今までに無い。

「かんな……?」

どうにも気に掛かり、手隙の間に私室へと立ち寄った。ベッドにも、ソファにもその姿がない。と思えば、部屋の隅で腹を押さえながら床の上でうずくまるかんなを見付け、心臓は一度大きく跳ねる。

「かんな!どうした?腹が痛いのか?何か良からぬものでも口にしたか!」

「う、さすがのあたしでも拾い食いはしない……それがたとえ推しの部屋であろうと……いや、どうかな。グレイグの飲みかけの水なら何度も飲んだわ……ごめん」

顔色が良くない。血の気が引いた蒼い顔。ひとまずベッドまで連れて行ってやろうと身体を横抱きに支えると、鎧が直に素足に触れて冷たいと、不満を溢すだけの元気はあるようだった。

「あー、ごめん。ベッドはやめて……汚れる」

脚を支えていた手にぬるりとした感触。確かめるために広げた手のひら。手袋にべったりと着いているのは──血か!

「出血している!いつの間にこんな怪我を……案ずるなかんな、今、回復を……!」

「いや、怪我じゃなくて……生理用品とか痛み止めとか切らしちゃって何かそういうの貰えるとありがたい……ってか、ここのひとたちは毎月一体どうやって過ごして──」

「まさか、呪文が効かないのか?」

「そりゃあ怪我じゃないから効かんでしょ。あたしも今ちょっと期待したけど。でも生で見れた。呪文ってそんな感じイテテテテ」

ソファに座らせて腹に手を添え唱えた回復呪文。顔色は変わらず、かんなはまだズキズキと痛む腹痛から解放されてはいない。

「──致し方ない、約束を違えることを許せかんな!」

再びその身を抱え、私室を後にして向かった先は。

「え、え、ええええ!?どこ行く気!?グレイグなんか勘違いしてない!?」

太ももの内側から筋を作って伝う血がぽたり落ち、廊下にある絨毯の赤と混ざって滲んだ。足速に進む中で途端に焦り始めるかんなが俺から逃れようと腕の中で身を捩る。

「待ってこの道順!!マップ通りならちょっとやばい!」

大食堂を横目に通り過ぎ、デルカダール城の西側にある一室の扉を開く。かんなの騒がしい叫び声は廊下から既に奴の耳に聞き及んでいただろう。

「ホメロス!少し助言を受けた……い、の……だが、」

遠征から帰ったばかりのホメロスの部屋に漂う甘い香り。「死んだ」という言葉を最後に諦めたように黙り込むかんな。自分ではもはや動転してしまってどうすることもできない問題でもこの男ならどうにか出来ると思い、知恵を貸してほしいと求める声は途中から発せられる事なく消える。全く予想だにしていなかった光景が目の前に飛び込んで来たからだ。

俺に向く視線の数はふたつ。テーブルの上に並んだフルーツタルトもふたつ。かんなに類似した薄い格好で、この寒い中で靴も履いていないつま先から太ももに伸びる黒い下着を纏った女。

「め、め、メディキュット!?」

かんなが紡いだ不可解な言葉。それは、何という呪文か。

「……つばき?どうかしたのか」

かんなの珍妙な姿を見ても未だ狼狽える素振りもない冷静沈着なホメロスが、悠長にカップに口を付けながら隣に座る女に問い掛けた。

「メディキュットだよ!」

つばきと呼ばれた彼女もまた同じ言葉で返し、その手にしていたフォークの上のタルトからラズベリーがひとつ、膝の上に落ちた。