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顔の浮腫が取れないまま、その日私は出勤した。寝起きの顔がどうであれ、気分がどうも乗らないとはいえ、会社を休む理由にはならない。学生と社会人との大きな隔たりを痛感する社会人1年目。
都会の4年制大学に通った末、大手企業に入社し早数ヶ月。田舎でのんびり事務仕事という選択肢もあったが、私は敢えて都会でバリバリ働くことを選んだ。それは単なる都会への憧れではなく、高校生活までの自分を取り巻く環境を一変させたいという強い気持ちからくるものでもあった。確かにぬるま湯は居心地がいい。しかし、それ以上に「思い出したくない」という己の潜在意識が勝ったのだろう。元から負けん気で男勝りな性格もあり、まぁ適職ではあると思う。物騒なこの世の中、頼ってばかりじゃあいられない。男にも、ヒーローにも。
ーー可愛げがないと言われれば、それまでだけどね。
仕事を終え、帰宅する頃には夜空に星が瞬いていた。駅近くの駐輪場にて、何台か原付や自転車が停められている中でもパステルカラーが一際目立つ、丸いフォルムが可愛らしい小さな原付は私の愛車だ。駅からはこれに乗って帰路に着く。
この日、唐突に揚げ物が食べたくなった私は、値引きされたお惣菜目当てにむなげやへと立ち寄ることにした。こんな時間に揚げ物だなんて随分と思い切った行動だと我ながら思うが、食べたいという強い要求には逆らえない。社会人になって変わったことといえば、食生活もそのうちの1つ。独り暮らしとなると自炊することも減り、食事の栄養バランスが崩れていることにも薄々と気付いていた。
ーーそういえば最近心なしか、スーツが若干きつくなった気が......
ーー......自炊は明日からにしよう。
結局今日までは良しとして、私は閉店間際の店内へと買い物かご片手に足を踏み入れる。すると早々、見覚えのある姿。
「「あ」」
互いに目が合った瞬間、再び互いの声がハモる。そこにいたのは、私と同様買い物かご片手の、クーポン券の彼だった。
「......」
「......」
「あ......、あの!」
「! は、はい!!」
暫し互いに無言のまま時が流れ、その沈黙を破ったのは彼だった。突然大きな声で呼ばれ、反射的に直立不動で応える。
「......先日は助かった。感謝する」
「い、いやいや、そんなに大したことじゃあないし......気にすることないよ?」
「是非、御礼をさせて欲しい」
彼はつかつかと歩み寄ると私の両手を取り、その端正な顔をずいっと近付けた。至って大真面目なその表情はきらきらと輝いており、あまりにも純粋で真っ直ぐ過ぎるその対応に内心驚かされる。若いわりにしっかりしている、なんて考えはあまりに年寄りじみているだろうか。
「......ええと、」
両手を取られた拍子に投げ出された買い物かごを尻目に、私はどうしたらよいか本気で悩み始める。というか、こんなにも純粋な眼差しを間近でビシバシ浴びせられると、大したこともせず心から感謝されている自分こそ申し訳なく感じてしまった。たかだか100円くらいで。
「......君はよくこのスーパーに来るの?」
「はい!俺の師が前々から頻繁に利用していたようで、つい最近からは俺も」
「師匠かぁ......道場?剣術?」
「いえ、ヒーローの」
「ヒーロー?」
「ええ、俺と師......サイタマ先生はプロのヒーローとして活動を始め、まだ日は浅いものの悪を倒すための修行を重ねており、正義を執行すべく日々......」
「ふーん(......サイタマって誰?)」
「(略)......恐らく何者かの陰謀かと思われますが、サイタマ先生はC級......恐れ多くも俺はS級ヒーローに任命され、今日もパトロールを終えた帰りなのです」
「そ、そうなんだ......お疲れ様......?」
さらっと物凄いことをカミングアウトされた気もするが、あまりに言葉が長かったため内容が頭に入っていない。ひとまず私は分かった風に何度も頷くと、まず1番に疑問に思ったことを尋ねてみた。
「で、サイタマ先生って誰?」
「!? まさかご存知でない!!?」
「そ、その......私、ヒーローとかそういうのに疎いからさ......!」
「俺の話、聞いてました?」
「......ごめん。長過ぎて、あまり理解できていなかったかも」
険しい顔つきになったかと思えば、更にずもももと顔を迫らせてくる。......ここは素直に謝っておこう。しかし、このままでは彼の崇拝するサイタマ先生とやらについて延々と語られる予感がしたので、店内の時計に目を向けながらわざとらしく「あら、もうこんな時間!」なんて普段言わないような台詞を口にした。
「ごめんね!ほんとごめん!私、そろそろ買い物終えて帰らなきゃ!明日もお仕事があるし......!」
「買い物とは......今夜の晩飯のことですか?」
「う、うん。まぁ、そうだけど」
「そうでしたか!それなら、是非俺にお任せください!あ、なんならウチに来て食べて行きます?サイタマ先生ならきっと何も言わないと思うんで」
こんなにも敬っているにも関わらず、扱いが良いのか悪いのか。「なんせ、あのサイタマ先生ですし」そう言ってまだ名も知らぬ彼は、やや強引に事を進めるのだった。人が話を聞いていないと咎めるくせして、彼もある意味話を聞かない。
◇◆
促されるがままに着いて来てしまった私はあまりに軽率だったかもしれない。まさか出会って二度目の、しかも大して会話を交わすこともなく、限りなく他人に近い人物のご自宅訪問に至ろうとは。買い物袋をぶんぶんと振り回し、やけに機嫌の良い彼の後ろを歩きながら、私はふと冷静になって我に帰った。彼曰く、つい最近から師である『サイタマ先生』の家に住み込んでいるらしい。ということは、私は今から初対面の人物の自宅に許可なく上がりこもうとしている訳で、これはあまりに非常識過ぎる。せめて手土産でもと思ったが、こんな時間に開いている店といえばコンビニくらいである。
「ねぇ、本当に大丈夫?突然行ったら迷惑じゃないかなぁ」
「大丈夫です!俺の唐突な弟子入りも受け入れてくださった、海のような広い心を持ったお方ですから!」
「そ......そう?」
「しかし、事前に連絡は入れておいた方がいいですよね......奥にしまい込んだ来客用の食器を出しておいて頂かなくては」
「あ、そっち?そういう意味?」
足取りは更に町の外れへと向かい、徐々に人も疎らになってゆく。漂う雰囲気もおどろおどろしくなってきた。もしかしたら単なる思い違いかもしれないと自分に言い聞かせてここまで来たが、次第に胸のうちで大きく膨らみつつある不安要素が、今ここで確かなものとなった。何故なら私たちが向かっている先は、Z市の中でも特に危険区域とされている住宅街ーーゴーストタウンなのだから。
Z市とは、他の地域と比べ怪人発生件数が圧倒的に多い市である。中でも郊外に位置する住宅街はゴーストタウンと称され、怪人の住処と噂される危険指定区域に近寄る物好きは存在しないーーかと思われた。が、今まさに私はその物好きと行動を共にしている。彼の足取りは変わらず軽いし、見たところ何の危機感も感じていない。まさかゴーストタウンの噂を知らない?いや、まさか。由々しき自治問題として、以前ニュース番組でも大きく取り上げられていたはずだ。
「そうだ。サイタマ先生にご紹介したく、是非名前を教えて欲しい」
「私?なまえ。苗字なまえ」
「なまえ......歳は?」
「22」
「失礼、歳上でしたか。つい呼び捨てで呼んでしまいましたが、何とお呼びしたら良いものか......」
「あー......うん、別に何だっていいよ。好きに呼んで」
「では......いや、しかし......女性の名は呼び慣れていないもので......」
「ねぇ、それより君の名前は?」
「ジェノスです」
「ジェノス君かぁ、ふぅん......ジェノス......ジェノス......」
「?」
どこかで聞き覚えのある名前に首を捻る。何度かぶつぶつと彼の名を呟いているうちに、一歩先を歩いていたジェノスが前触れなくその歩みを止めた。考え事をしていた私は、そのまま勢いよく彼の背中へとぶつかる。いくら身体を鍛えていたとして、生身の人間の筋肉にしては随分と硬かったように思える。モロに当たった鼻を抑えながら、私は何事かとジェノスの背後から顔を覗かせた。
「怪人......」
「げっ」
不安的中、怪人のお出ましである。
16.09.17