>29
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



記憶とは不確かなものだ。一生懸命記憶して暗記したものでも、一晩経つと見事に忘れてしまう。試験前夜に一夜漬けしたにも関わらず、思ったように点数が取れないことがいい例だ。記憶は覚えた直後に急激に忘れ、記憶に残った思い出には楽しいものもあれば、辛いものもあるが、その中でも6割が楽しい思い出、中間的な思い出が3割、そして残りの1割が辛い思い出と言われている。つまり、人々は自分の経験を心の中で整理し、誰しもが楽しい思い出をつくっているということ。辛い記憶は忘れたいという、人間の潜在的意識が働いているのだろう。

彼女ーー苗字なまえも、そうであった。ただ、当時の辛い経験があまりに色濃く、ジェノスの存在や当時の記憶自体が消え去ることはなかったものの、断片的な記憶の欠片ーー例えばジェノスの名前だったり、そういった細かな部分が欠落していた。彼女は無意識のうちに、自己防衛として辛い記憶を手放したのだ。



「なまえ先輩が安心して側に置いてくださるよう、必ず強くなってみせます。例えどんな脅威が訪れようと、貴女を守れるように」



ジェノスが決意を口にし、なまえに誓ったあの日から、彼の記憶を取り戻すための下準備が水面下で人知れず行われていた。それを知る者はクセーノ博士とジェノスのみ。妙に勘のいいサイタマはジェノスの些細な変化に気付いてはいたものの、下手に干渉せず、強いて聞き出そうとはしなかった。彼は放任主義だった。

ジェノスがなまえに想いを告げ、おおよそ1週間が経過した頃ーー



「なまえ。なぁなぁ、これ見てこれ」



サイタマが新聞紙片手に、意気揚々となまえの部屋まで遊びに来た。この時のサイタマの服装もまた彼らしく、『ブルズ』の文字と、なんとも言えない牛のようなキャラクターが大きくプリントされている。彼の所有する数々の珍Tシャツは、一体どこから調達されているのだろう、と、サイタマの私服姿を目にする度になまえは思う。



「なにこれ。ヒーロー順位?」

「ま、俺は別に順位なんてどうだっていいんだけどな。見ろよこれ。俺の名前書いてあっから」

「ええ......この中から探すの?物凄い文字の羅列が......」

「そりゃあ、C級だけでもすげぇ数のヒーローたちが在籍してんだぜ。表紙にはS級ヒーローの名前が一覧になっているんだが、たった17人のためだけに1ページ丸々使ってやがる。金掛けてんな」

「ふぅん」



この時、17位の枠にジェノスの名前があるのを確認し、彼がまさしくS級ヒーローであることを知らされる。なまえのその視線に気付いたのか、サイタマはすかさずジェノスの話題を口にした。



「あぁ、そういえばジェノスのヤツ、一般人の人気ランキングでは6位だとよ」

「6位!?」

「ほら、あいつイケメンだろ?19って若さでS級なのも含め、ここ最近ファンの数が急激に伸びてるんだとよ。特に女からの人気が高ぇらしい」

「......」

「安心しろよ。ジェノスはそういうの興味ねぇし、なまえ一筋っつってたから」

「私、なにも言ってないんだけど」

「はは、そんじゃ俺の独り言ってことにしといてくれ」



今の話を聞いて、なにも思わなかったと言えば嘘になる。ごく当たり前のように接しているが、彼は人々の憧れのヒーローであり、本来手の届かないような存在であり、会話することそれすらも恐れ多いような人物である。なまえの知るジェノスという人間は、人懐っこく、誰よりも正義感に満ち溢れていて。対して、世間からの認識だと、彼は無口でクール、孤高のサイボーグなんて呼ばれているものだから、それを初めて耳にした時、なまえは一体誰のことを言っているのだろうと思わず首を傾げてしまった。



「あ、サイタマみっけ。えーと......342位。うん、伸び代があるね」

「いや、気ィ使わなくていいから」

「まぁまぁ、初めはこれくらいの位置の方がやり甲斐があるじゃない。きっとサイタマのことだから、1週間後にはひとケタくらいにはなってるって!」

「それ、マジで言ってんのか?目が泳いでるぞ」



その後、なまえの言葉は現実となるのだが、それはもう少し先の話である。



◇◆



この日、なまえはいつものように仕事に勤しんでいた。職業柄、彼女は時に遠方まで出向いたりと行動範囲が広いのだが、今日はZ市に本社を構える企業先へと赴いており、つい先ほど取引を終えたあと、少し遅めの昼食を摂るべく、近くの喫茶店へと足を運んでいた。店の中はこじんまりとしていたが、ほぼ全ての席が埋まっており、恐らく常連客やリピーターが多いのだろう。なまえはまず最初にミルクティーを頼み、何を食べようかとメニュー表の隅から隅へと目を通したあと、ドリアのセットを注文した。



「こちら300円でデザートをお付けすることもできますが、如何なさいますか」

「どうしようかなぁ......ちなみに、本日のデザートってなんですか?」

「本日はティラミスをご用意しております」

「あ、じゃあそれで」

「かしこまりまし......っと、ちょっと失礼」



ウェイターが会話の最中、ふいになにかに気付いたように顔を上げ、店の奥へと引っ込んでしまう。何事かと思い覗き込んでいると、落ち着いた雰囲気を纏っていたはずの彼が、余裕のない表情を浮かべてなまえの席へと戻ってきた。



「お、お客様......!大変申し訳ありませんが、本日は閉店とさせて頂きます!」

「えっ、なにかあったんですか!?」

「それが......い、隕石が......」

「いんせき?」

「とっ、とにかく!早くここから逃げた方がいい!あと30分後には、Z市に巨大隕石が落下します......!」

「!?」



これがただの戯言だったなら、なんてタチの悪い悪戯だろう。初めこそ彼の言うことを信じられなかったが、さすがにこの状況で嘘を吐いているようには見えなかったし、突如鳴り響き出したけたたましい警報音が、紛れもなく事実であることを証明づけた。店の中にいては状況が掴めないと判断したなまえが慌てて外に出ると、いつの間にか目の前の道路は渋滞を起こしており、車のクラクションや悲鳴が行き交う中、逃げ惑う人々の姿を目の当たりにし、なまえの脳裏には自ずとあの時の光景が浮かび上がった。

視界には、燃え盛る炎の幻影がーー



「......ッ!」



気が付くとなまえは走っていた。人々が逃げ惑う方向とは真逆の、ゴーストタウンのアパートを目指して。

ゴーストタウンには警報器がない。無人街だったということもあり、不要と判断されたのだろう。だが、人が寄り付かないその街にはサイタマとジェノスが住んでいる。テレビでも点いていれば隕石の報道を耳にすることができるかもしれないが、万が一眠っていたら?漫画を読んでいたら?きっと何が起ころうとしているのかもわからないまま、彼らは被害を受けることとなるだろう。現時点でもはや逃げる時間など残されていないと頭では理解していたが、自分だけ逃げることなど考えられなかったし、ふたりを置いていくことなど彼女にはできなかった。



『緊急避難警報!災害レベル竜!』

『巨大隕石落下まであと29分。やばいので早く逃げて下さい』



なんとも無責任な放送後、周りが特段ざわついたのを肌で感じる。それもそのはず、なぜなら、ヒーロー協会がこの事態を災害レベル「竜」と認定したから。その時々の災害がどれほどのものかわかりやすいよう、協会はいくつかのレベルを設けていたが、それが災害レベル竜ともなると、いくつもの町が壊滅する危機に晒されているということに他ならない。



「(やばいって思うより先に、とにかく今はふたりに知らせなきゃ!)」

「(もう誰も失いたくないのに......!)」



嫌だった。何もできず、ただ見ていることしかできない無力な自分が、失った後に酷く後悔することが。大切な人を失う喪失感など、もう2度と味わいたくはないのだ。なまえは走りながら何度も携帯を鳴らそうと試みたが、この混乱の中で考えることは皆同じのようで、幾千もの通話が行き交った電話回線は不通となり、いくら繋げようと受話口からは無機質な音ばかり鳴り響いている。その状態にやきもきしつつも、なまえはひたすらに走り続けた。思っていたよりも不思議と疲れは感じられない。ただ、まるで足が空を蹴っているような感覚だった。

この時、なまえの中では様々な変化が訪れていた。当時と限りなく近い状況に追い込まれ、その時の感情が酷くリアルに思い出される。同時に、なまえが無意識のうちに蓋をしてしまった記憶の欠片が溢れ出てきて、あまりにたくさんの感情が込み上げてきたものだから、なまえは耐え切れなくなって涙を流した。



◇◆



『巨大隕石落下まであと21分!専門家の話では、Z市は丸ごと消滅するとの事!』

『可能な限り、急いで遠くまで逃げて下さい!』



人々が逃げることを諦め、絶望の淵に立たされた中、それでも街を駆け抜ける姿がふたつ。ひとつはゴーストタウンへと向かうなまえの姿。そしてもうひとつはーーヒーロー協会から「巨大隕石の落下を食い止めろ」と難題を押し付けられたジェノスの姿。彼もまた、諦めずに行動へと移そうとしている人物であった。

今回、災害レベル竜の由々しき事態に呼び出され、支部に集まったヒーローはジェノスの他にもうひとり、S級ヒーロー3位のバング。彼はすでに年老いてしまっているが、己の力でここまでのし上がってきた真の実力者である。今回の事態を「無理難題の厄介事」と呼び、隕石など手に負えないと口では言いつつも、彼もまた逃げようとはしなかった。ジェノスはバングから「大切な人と遠くへ避難するといい」と勧められるが、そんな行為はサイタマからの教えに反するし、仮にそうしたとして、ジェノス自身が後に自分の行いを許せなくなるだろう。とはいえ、何の考えもなしにただ闇雲に突っ込もうとしているわけではない。ジェノスの持っているスーツケースの中には、博士が新しく開発した戦闘用アームが納められており、それを装着することによって、焼却砲の威力を最大限まで引き上げることができるらしい。まだ試したことのない試作品ということもあり、実のところ確証はないが、これが現段階の彼ができる精一杯の抵抗であった。



「(......なまえ先輩は無事だろうか)」

「(あぁ、やはり俺は何も変わってなどいない。なによりも先に、先輩の身を案じてしまうなんて)」



互いに道中ですれ違ったことにも気付けないまま、隕石落下まであと20分のタイミングで、なまえはアパートまで辿り着いた。乱れた呼吸を整える暇すら与えられず、なまえが部屋の扉を勢いよく開くと、その際に生じた大きな音に驚いたサイタマが、きょとんとした表情でこちらを振り向いた。私服姿で床に寝転んだまま、その手には漫画を持って。



「サイタマ......」

「おぉ、なんだなまえか。どうしたんだよ。んな血相変えて」

「ジェノスは?」

「協会からの呼び出し受けて、30分くらい前に出て行っちまったぞ」

「そんな......携帯にも出てくれないし、ジェノスにどうやって知らせたら......」

「おいおい、どうしたんだよ。なんか顔色悪ぃぞ?とりあえず座れって」

「座ってる時間なんてないの!ねぇ、どうしようサイタマ。このままだと、Z市がなくなっちゃう......!」

「は?何言ってんの、お前。何があった?」

「......」



まとまらない頭では、きっと上手く説明などできないだろう。なまえはテレビを点け、騒ぎになっているであろう報道番組へとチャンネルを回す。案の定、テレビの中は大騒ぎだった。安全ヘルメットを被ったニュースキャスターが上空を指差し、何かを必死に叫んでいるのが分かる。だが、それらは全て周りの騒音にかき消され、何を言っているのかは分からない。指の先へと向けられたカメラに映し出されたのは、一面に広がった青い空と白い雲、そしてーー巨大な隕石。真っ赤な炎を纏い、ごおごおと音を立ててゆっくりと落ちてくるその様は、まるで映画でも観ているかのようだった。

あの時も、彼女はこうしてテレビ越しに終わる世界を見ていた。あぁ、これが世界が終わるカウントダウンなのだ。きっと部屋のベランダから身を乗り出せば、この嘘みたいな光景が紛れもない現実であることを悟るだろう。だが、今更なにが出来るというのか。私のような普通の人間が泣こうが喚こうが、意思のない隕石は重力に従って落ちてくるし、きっと怪人たちを相手にしているヒーローにだって、自然災害には勝てっこないのだ。



「......あーあ、」



なまえはその場に崩れ落ち、天井を仰ぐ。ため息。そして、後悔の言葉。



「どうせ、助からないんだろうなぁ......私たち。こんなことなら、早く認めちゃえばよかったんだ」



命の儚さを知っていたからこそ、後悔しないよう心のままに生きるべきだった。



「なにこれ。特撮?」

「......ぷっ、あはは。サイタマって、本当にブレないよね。違うよ。今、Z市に巨大隕石が落ちてきてるんだって。これはその生中継」

「え、まじで?やばくね?」

「......そうだね。やばい、よね」



今、心の底から後悔している。やり残したことはたくさんあるけれど、あれが食べたかっただとか、これをしたかっただとか。だが、いざ己の『死』を間近に感じてしまうと、どことなく実感がわかない。おまけに直面している危機の絶大さに自覚があるんだかないんだか、サイタマの声は相変わらず軽いトーンである。

それなりに楽しい人生だった。辛い経験もたくさんしたけれど、死んだと思っていたジェノスとは再会できたし、サイタマやジェノスとの日々は毎日笑いが耐えなかった。本当に本当に楽しかった。大切な人と当たり前の日常を共に過ごすことの楽しさ、かけがえのなさ、そして人から愛される喜びを知ってしまった。知ってしまったあとだからこそ、彼女は心の底から「死にたくない」と思った。そして、それ以上に「生きたい」と願う。



「なまえは何をそんなに後悔してんだ?」

「......そりゃあ、色々あるけれど......最期にジェノスに会えないことが1番悲しいな」

「会いたいのか?」

「えっ?」

「だから、会いたいの?会いたくねーの?」

「そりゃあ......ッ、会いたいよ!!会いたいけど、どうやって!?どのみち、隕石が相手じゃあ私たちは助からない!」



声を大にして叫ぶ。今まで、人前でこんなにも感情を顕にしたことがあっただろうか。ーーいや、ない。なまえは冷静でない自分を客観的に捉えながらも、ありのままの気持ちを口にすることがこんなにも体力を使うことなのだと知った。



「なんだよ、お前。ちゃんと言えるじゃねーか。自分の気持ち」



サイタマはそう言ってすっくと立ち上がると、漫画をテーブルの上に置き、なまえの頭をくしゃりと撫でた。その手つきが一見乱暴のようで、あまりに優しかったものだから、なまえは思わず涙腺を緩ませる。何故、会いたいのか。実のところ、なまえ自身理解しきれていなかったのだが、サイタマは深くまで追求せず、ただ彼女の気持ちを尊重した。



「行くか」

「......どこへ?」

「アイツんところ」

「あいつ?」



なまえが振り返った先には、いつの間にか着替えたのであろうヒーロースーツに身を包み、布団カバーをはためかせたサイタマの姿。彼の表情は見たこともないほどに凛々しく、瞳には一切の迷いなく、自信に満ち溢れ、ただ前だけを見据えていた。それは彼がなまえに初めて見せる、まさしくヒーローの顔だった。

「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -