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この日、彼女はテレビの前から動けずにいた。つい昨日まで当たり前のように存在していた場所が、何もない平地へと成り果て、その酷い有り様が画面いっぱいに広がっている。何度、テロップに映し出される地名を確認しただろう。あまりに私の知る光景とはかけ離れており、まるで悪夢を見せられているようだった。

博士がなまえの家を訪れたのは、その日の夜だった。



「君が、苗字なまえ君かね?」

「......」



この時のなまえもまた、酷い有り様だった。涙を流しすぎた目は赤く充血し、瞼は腫れ、もう何時間も言葉を発していない。



「......貴方は、」

「ワシはクセーノ博士じゃ。とある人物から、オヌシへのメッセージを預かっておる」

「私に......?」

「そうじゃ。きっと、今のオヌシはズタズタに心を引き裂かれていることじゃろう。そんな時に、こんな話をするのは酷かもしれんが、ワシは彼の意思を尊重してやりたいと思う」

「彼?」

「ジェノスじゃよ。オヌシもよく知っておろう」

「......!」



その名を耳にした途端、なにも映していない虚ろな目に微かな光が灯った。うつむいていた彼女の頭が持ち上がり、今、ようやく前を向く。その時になまえは初めて博士と顔を合わせ、とても優しそうな老人だなという印象を抱いた。しかし、その目は落ち窪んで疲労の色を浮かべており、昨夜あまり寝ていないようにも見える。このご老体に無理を強いるような、よほど大きな作業でもあったのだろうか。なまえは気を利かせて椅子に座るよう勧めるが、博士はすぐに済むからと首を横に振り、彼女の心配を取り払うように、にこりと笑ってみせた。その笑顔はしかし、ひどく痛々しくもあった。



「ワシはあの地を訪れ、被害がいかに甚大であるかをこの目で見ておる。オヌシもテレビで見ているとは思うが......」



そう言いながら博士は、映像が映し出されたテレビをちらりと見る。



「テレビは全てを映さない。画面越しでは伝わらない......いや、伝えられないことがたくさんあるものじゃ。実際はもっと酷いぞ。まさか、死んだ者が綺麗さっぱり消え去っておるわけがあるまい」

「......そんなに酷いんですか。私、この光景に見覚えがあって。この看板......学校の帰り道にあったパン屋さんのものに似ているんです。それに、この赤い屋根の家だって......」

「やめなさい。オヌシは少し寝た方がいい」

「信じられません。だって、昨日までなにもなかったんですよ?いつも通り登校して、授業を受けて、ジェノスと一緒に帰り道を歩いて......また明日って、」

「......」

「別れ際に約束した明日が今日だというのなら、今日なんて来なければよかったのに。こんなことになるのなら、私、ジェノスに」

「なまえ君」

「......わかっています。後悔したって、時間はもう巻き戻せない。わかってはいるんですけど......すみません。頭の中がぐちゃぐちゃで、自分でもよくわからないんです」

「確かに、オヌシは一度に多くのものを失い過ぎた。頭の理解が追いつくまでに、多少なりとも時間を費やさなければならん。それはとてもつらい道のりになるじゃろうが、ジェノスもそれを望んでおった。自分がいなくても、なまえ君がこの先幸せになれるように、と」

「......どういう意味、ですか」



呆然として問うと、博士の顔全体にひときわ深い皺が刻まれた。



「ーージェノスという名の少年は死んだ。最善はつくしたが......あの街の生存者はゼロじゃった」



しん、と、吐き気を催すほど濃密な静寂が充満する。なまえは暫しその場に立ち尽くすことしかできず、ふいに、ふらりと足元がふらついた瞬間、ポケットから何かが転げ落ちたが、それに気付くことすらできない。



「そんな......ウソ。きっと、今もまだ生きてて......そうよ、もしかしたら瓦礫の隙間で、今も助けを待っているかもしれません。こんなところで無駄話に時間を費やすくらいなら、今すぐあの街に」

「落ち着きなさい。今のオヌシにあの光景を見せるわけにはいかん」

「いや......いやだ。信じられない......信じたくない......」

「気をしっかり持ちなさい。ジェノスはオヌシに生きて欲しいと願っておる。何度も何度も、最期まで名前を呼んでおった......!だからこそ、オヌシは生きなければならないのじゃよ、なまえ君」

「......っ!」



辛くて、苦しくて、自分だけが生き残ったこの世界が異常に見えた。まるで自分が場違いなのではないかと思えてしまえるほどに、彼女は精神的に追い詰められていた。まさか皆の後を追おうなどと馬鹿げたことを考えたわけではない。しかし、この先ずっと前向きに生きてゆけるかと訊かれれば、すぐに首を縦に振ることなどとてもじゃないが出来なかった。



「敢えて厳しいことを言おう。生かされた者は、死んだ者のためにも、この先強く生き続けなくてはならん。ワシも、今はもう老いぼれた身じゃが、目的を果たすまではまだまだ死ねんよ」

「......」

「わかっておるじゃろうが、決して、変なことを考えるでないぞ。あの少年......ジェノスは、心の底からオヌシのことを愛しておった。ずっと、最期まで気にかけておったよ」



博士の言葉を咀嚼し、ひとつひとつの意味を改めて思い知らされると同時に、彼女は深く後悔することとなる。ジェノスがいかに自分のことを本気で愛していたかということを、今、ようやく、本当の意味で理解出来たのだ。もう、すでに遅すぎたけれど。

これまでのなまえは、ジェノスが自分へと寄せる愛情は、先輩への憧れや尊敬の延長でしかないと思っていた。そもそも、たかだか数十年生きた学生が愛だの恋だの口にしたところで、そんなものは若さ故の勢いだとか、一時的な感情の昂りだとか、そういったものなのだろうと思っていた。ましてや3年という、生きた年数分の違いがある歳下の彼が、まさかその若さで本気の恋愛感情を抱いているとは到底思えなかったのだ。なぜなら3年多く生きている自分でさえ、そのような激情を経験したことがなかったのだから。生きた年数が、経験の多さや精神的成長に比例しているなどと、なぜそのように思ったのだろう。そんなもの、ただの勝手な思い込みだったというのに。



「彼は......なんと言ってましたか」

「オヌシに会いたい、と。ただ、それが叶うとは思えないから、せめてこの気持ちを伝えてくれ、と」



ジェノスの気持ちは痛いほど、今までだって伝わっていた。彼の心からの想いを真正面から受け止めず、ずっと有耶無耶にし続けてきた私がいけなかった。きちんと真剣に向かい合っていれば、気付いていたこともたくさんあっただろうに。



「どうか、幸せになっておくれ。それがジェノスの最後の願いじゃ」



涙はもう出なかった。散々流れ出たものだから、もう出尽くしてしまったのだろうか。それとも、認めたくないと意地になって目を逸らし続けている一方で、目の前に突きつけられた悲しい現実を、心のどこかで受理しようとする気持ちが働き始めているのかもしれない。どんなに泣いても、この身を差し出したって、彼らはもう二度と帰ってこない。きっと昨日までの日常は、いつか私の中で「過去」として処理されていくのだろう。

過去に起きた出来事は、如何なる手段であろうと変えることはできない。それを清算するのであれば、何か代わりになるもので、ぽっかりと空いた穴を埋めなければならない。つまり、それが「代償」である。未来に対して行動を起こし、過去を清算するためには、まず、過去の結果を事実として謙虚に受け入れる必要があり、その上で正しい行動選択を行い、過去の清算に見合うだけの成果を獲得する努力をしなければならない。それが自分にとって清算しなければならない過去であるならば、その全てを事実として受け入れるのは、それだけで心折れそうなことではあるが、ここで手心を加え、過去の事実を歪めてしまうのであれば、それ以降の行動に「過去の清算」という意義は失われてしまうだろう。これは自分にしか出来ないことだ。なぜなら、精神的な清算というのは、他人にとって全く預かり知れぬことなのだから。




◇◆



話し合いの末、博士は早急に準備に取り掛かることになった。ひとまずジェノスは一旦帰ることとなり、帰り道を歩く道すがら、自分のしてきたことについて考え続けた。思索に耽りながら歩いているうちに、足は自然となまえが待っているであろう場所へと向かっていた。



ーー俺が、先輩にあんな顔をさせてしまったのか。



当時ジェノスは、敢えて己の死を事実として伝えることで、彼女が間違っても生きることから逃げてしまわぬよう、生に縛り付けた。しかし、それは言い方を変えると、「なにがなんでも生き続けなくてはならない」というある種の脅迫概念のようなものであって、例え彼女を想った行動だったとしても、単なる願望の押し付けになってしまったのではないか。

そうすることが良かったのか悪かったのかなんて、そんなものただの結果論。たったひとり重い過去を背負いながら生きてきた日々を、彼女がつらいと感じたなら、そのすべての責任が自分にはある。



ーー俺なんかにできるだろうか。

ーー4年間分の、罪滅ぼしを。



「おかえりなさい」

「......!」

「どうしたの、そんなところにずっと立って。ほら、はやく入りなよ」



気付くと、ジェノスはなまえの部屋の扉の前で立ち尽くしており、そのすぐ後ろになまえが立っていた。どのくらいこうしていたのか、彼女がいつからいたのかもわからない。その声にゆっくりと振り返ると、ジェノスが妨げとなって部屋に入れないためか、なまえはほんの少し困ったように微笑んでいた。ジェノスが部屋を飛び出したあと、彼女もまたどこかへ行っていたらしい。心なしか濡れたその目がまるで泣き腫らしたあとのような気がして、その原因が自分にあるような気がして、ジェノスは心が痛む。



「......なまえ、先輩」

「とりあえず入ろう?ジェノス」



ぐいぐいと背中を押され、促されるがまま部屋に入るジェノス。玄関に上がったところで、彼はようやく口を開いた。



「貴女は、俺を恨まないのですか」

「どうして?」

「なまえ先輩に、孤独な人生を強いたのはこの俺です。確かに、俺は貴女になにがなんでも生きて欲しかったのかもしれない。しかし、己の死を利用し、側にいられない身でありながら、幸せになれる確証のないその後の人生を強要してしまった。自分の力で幸せにして差し上げることも、当時できなかったというのに」

「いや、ジェノス生きてたでしょ」

「いいえ、当時のジェノスは確かに死にました。今の俺は、亡霊か......いや、そう例えることすらおこがましい。死んだジェノスと同じ姿をしている、何か。ただの偽物......ガラクタです」

「どうしてそんなこと言うの。まぁ確かに、私もジェノスはいなくなってしまったものだと思っていたけれど」

「俺は4年もの間、貴女を欺き続けていたのです。例えどうしようもないことだったのだとしても、俺はそんな自分が許せない。理解出来ない」

「きっと、その時のジェノスなりに事情があったんでしょう?今のジェノスも昔のジェノスも、私にとっては同じジェノスなんだから。そういう悲しいこと、言わないでよ」

「しかし......」

「それにね、ジェノスは私を孤独だって言うけれど......そんなこともなかったよ?確かに、過去を思うとどうしようもなく悲しい時期はあったけれど、ジェノスが私をこんなにも好きでいてくれたんだって博士から聞いて、それが自分への自信に繋がったというか......ジェノスのおかげで前向きになれたのは本当。それがなかったら、私自身どうなっていたことか、見当もつかないや」

「......」

「人ってね、何食わぬ顔して毎日を生きているけれど、誰しもが何かしらの事情を抱えて生きているの。きっと悩みのない人なんていないし、つらい経験を乗り越えて、人は強くなるんだよ。私だってお陰様で、他人よりも精神的に強いと自負しているし」

「......」

「私はジェノスを恨んだこと、一度だってなかったよ。むしろ、感謝してる。私なんかを好きになってくれてありがとう。ジェノスが私を好きになってくれたから、生かそうとしてくれたから......私は今、ここにいる。こうして再び巡り会えたのも、ジェノスのおかげなんだよ」

「......!」

「なーんて、あはは......ちょっと恥ずかしいかな。ちょっと、外に出て頭冷やし......、ひゃっ!?」



ジェノスはそのままなまえの身体を引き寄せ、力いっぱい抱きしめた。彼女の慈悲深さ、言動すべてが愛おしくて、今はまだ当時の心情を思い出せずにいるけれど、なんとなく、その時の自分の行動の意味を理解出来たような気がする。好きだから、愛していたからこそ、例えその隣に自分はいなかったとしても、自分ではない別の誰かがいたとしても、なまえには幸せになって欲しかった。笑っていて欲しかった。他を差し置いてその思いだけが先行し、結果として、当時の自分はそうすることを選んだのだろう。



「俺は、誰かが貴女を幸せにしてくれるというのならそれでもよかった。しかし、それは自分が死んだことを仮定しており、現に俺は生きてます。だから、貴女がこれまでの4年間、ひとりで苦しんだ分の落とし前を......どうか、俺につけさせてください」

「ど、どうやって?」

「俺が、なまえ先輩を幸せにします」

「......それ、プロポーズ?」

「そう捉えて頂いても構いませんが」

「え、いや、ちょっと待って。ひとまず落ち着こう?話の展開が速すぎて、私の頭がついていけてない」

「問題ありません。先輩はただ、俺にすべて任せて頂ければいいかと」

「いやいや、いやいやいや。正直、それがいちばん怖い。気付いたらすべて流されているような気がする」



例えどんなにかかったとしても、この先の人生を彼女に費やそう。決して復讐を忘れたわけではないし、暴走サイボーグが現れ次第、すぐにこの身を捧げる覚悟はとうにできているが、今まで復讐しか頭になかった彼の心に、人生を楽しめる程度の余裕ができた。それはサイタマと出会ったことを機に、その後なまえとの再会を経て、ジェノスが急速に人間らしさを取り戻しつつある証拠である。

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