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1ページめくって、まず、懐かしの校舎が目に入る。当時はこの場所を退屈だと思ったことも多々あったが、4年ぶりに目にした途端、言葉にできないような感情が腹の底からこみ上げてきて、今、口を開いたら、弱音だとか未練だとか、もう二度と口にしないと心に決めていたものが、一気に溢れ出そうになった。

アルバムをペラペラとめくる彼は、始終無言であった。なにを考えているのか気になったはものの、その横顔があまりに真剣そのものだったから、なまえは声をかけるのを躊躇する。ページをめくる音だけが部屋の中で響き渡り、なまえはその音を聞きながら、ただただジェノスの反応を待ち続ける。



「あの、なまえ先輩」

「なにか思い出した?」

「この写真」

「文化祭の、クラスの集合写真ね。これがどうかしたの?」

「先輩の肩に手を回した、この馴れ馴れしい男は誰ですか?」

「......ただのクラスメイトだって。少なくとも、私はそう認識していたけど」

「しかし、彼の表情からは先輩への恋愛感情のようなものが見て取れます。この写真だけではありません。ほら、こちらの写真でも、彼は......」

「あーもう!そんなこと、どうだっていいから!」

「どうでもよくなんてありません。少なくとも、俺にとっては重要なことです」



それからジェノスは、じっと真剣な眼差しをなまえへと向ける。このままでは埒が明かないと思ったなまえは、まるで観念したかのように、渋々と口を開いた。



「まぁ、確かに。彼が私のこと......す、好き......なんじゃないかって噂は、あったような、なかったような......」

「やはりそうでしたか」

「まぁ、告白される前に彼はいなくなっちゃったけど」

「っ、 ......すみません」

「どうしてジェノスが謝るの」

「事情を知っていたにも関わらず、俺はなんて無神経なことを」

「いいよ。ジェノスだって、私と同じような経験しているんでしょう?......うん、許す」

「......あの、もし差し支えなければ教えて頂きたいのですが......仮に、彼に想いを告げられていたとして、なまえ先輩はそれに応えたのですか......?」



言ってすぐに、ジェノスは己の発言を深く後悔することとなる。なぜなら、なまえがほんの一瞬だけ、表情から感情の色を一切なくしたからである。今度こそは、無神経なヤツだ、と罵られることを覚悟したジェノスであったが、なまえは思っていたよりもずっとあっけらかんとした態度で、こう答えた。



「うーん、それはないかな」

「え?」

「いや、ジェノスだって知ってるでしょ?私、彼氏つくる気なかったの」



同時に、ジェノスは安堵する。当時、自分がふられてしまったのは、自身に問題があったわけではなく、なまえ自身の気持ちの問題だったのだと。仮に、自分以外の者の気持ちに応えていたのだとすれば、それこそショックで立ち直れなくなっていただろう。



「俺は最低です」

「今度はどうしたの。急に」

「俺は、死んでしまった者に対して嫉妬し、対抗心を燃やし、更には、貴女が彼を選ばなかったことに、心底安堵してしまっている」

「......ジェノスって、本当に、本ッッ当に正直よね。そのくらい正直者だと、かえって心配になるわ」

「......」

「でも、そこがジェノスのいいところよね。私は好きだよ」

「!!」

「あっ、いや、その、そういう意味じゃあなくて......!普通に、人として!」



なまえの口から発せられた「好き」のひとことに、ジェノスは過敏に反応し、勢いよく顔を上げたものの、なまえははっと我に帰り、慌てて訂正する。するとジェノスはくすりと笑い、今までに見たことのないような笑顔で、こう言った。



「俺も好きですよ。なまえ先輩の、そうやって俺を人間扱いするところ」

「だ、だからそれは......ジェノスは人だって、前にも......」

「はい。俺は人です。人間です。ですから、俺が貴女を欲しいと思うのも、どうしようもないことなのでしょう。人は、人肌恋しい生き物ですから」



先日、なまえと話をして以来、彼の中では明確な変化が訪れていた。それは誰の目にも見えないもので、確かめにくいものではあったが、彼の心のうちに秘められた悲しみ、怒り、苦悩ーーそういった負の感情は、まるでシミのようにどす黒く染み着いていたのだけれど、なまえとの思い出に触れることによって、多彩な色で塗りつぶされてゆく。

ジェノスがあまりに柔らかい笑顔をこちらに向けてくるものだから、なまえは少しドギマギしつつ、手の止まったジェノスの代わりに、アルバムの次のページをめくった。そこには、様々な教室で撮影されたと思われる写真が、いくつも載っていた。理科の実験室、家庭科室、さらには階段の踊り場まで。



「俺のクラスは、ちょうどこのあたり。席は、窓際の一番後ろでした」



ふいに、ジェノスは思い出す。自分の席から見える、窓の外の風景。教師から隠れ、片耳に着けたイヤホンから流れるその音楽は、当時流行りのものだった。ジェノスは音楽を聞きながら、なにも考えずに、ただ外を眺めているのが好きだった。そうしながら、彼女のクラスが外で体育の授業を行っている時は、それを眺めているのが好きだった。彼女は決して運動神経が良い方ではなかったが、いつだって笑顔の彼女を見ていると、それだけでジェノスは癒される。同時に、誰に対しても向けられるその笑みを、独占してしまいたいと何度も願った。

なぜ、そうやっていつも笑っていられるのだろう?少し話しただけなのに、1度気になってからその姿を追うごとに、いつの間にかなまえの存在が少しずつ大きくなっていった。いつだって自分の心に正直でいたいジェノスは、笑いたくない時は笑わないし、人にへつらうようなことも一切しない。それが、一部で「氷の王子」と呼ばれていた所以である。しかし、そんな彼であったからこそ、自分に持っていないものを持っていたなまえに、惹かれていったのかもしれない。



「先輩のクラス、確か土曜日の1、2限、体育でしたよね」

「えっ、どうして知ってるの」

「俺の席からだと、ちょうど校庭が見渡せましたので」

「えええ、やだそれっ、私、運動音痴だったのに......!」

「ええ、知っています。先輩は特に、ボールを用いたスポーツを苦手としていましたよね。体力測定のハンドボール投げなんて、まさか8メートル......」

「そういうのは忘れていいから!どうしてそんなどうでもいいことは覚えてるのよ......もう」



まさか、学生時代の思い出話に花を咲かせられる日が来ようとは。なまえは口ではそう言ったものの、内心とても嬉しかった。それは、同じくジェノスも。



◇◆



恋に落ちた女性は、同じ学校の先輩であった。おぼろげな記憶だけを頼りに、誰にも相談することなく、たったひとりの力で見つけ出した。彼の周りには常に人でありふれていたのだけれど、彼に向けられる眼差しは羨望であったり、嫉妬であったり、恋慕であったりーー皆が羨むすべてを持っているかと思われたジェノスであったが、なにか足りないものを挙げるとすれば、それは親しい友人であった。それでも、彼はひとりでなんだってこなしてみせたし、孤独を感じたことは一度もなかった。彼にとって、それが当たり前だったのだ。

再び彼女の姿を目にし、恋に落ちた。彼には一度その気になると、盲目的になってしまう部分があり、自分の気持ちに忠実である。だから、「まずは友達から」なんて回りくどい方法は頭の中にかすりもせず、彼女を見つけ出した次の日、彼は生まれて初めて告白というものをした。



「なまえ先輩!」

「......ねぇ、またなまえのこと待ってるよ。あの子」

「......」



それから毎日、ジェノスは決まってなまえの帰りを待った。いつしか彼の行動はなまえの学年にも知れ渡り、その姿はまるで、飼い主の帰りを待つ忠犬のようだったという。なまえは彼の好意を無下にはできず、かといって迷惑だとは思っていなかったので、ふたり並んで帰ることが、いつしか、ごく自然な流れとなっていった。



「なまえ先輩は、すでに進路先を決められているのですか」

「うーん、特にやりたいことが見つからなくて。ほぼ全員が進学希望だって言うし、とりあえず大学には行こうと思ってるけど......ジェノスは、将来どうしたいの?」

「俺は、なまえ先輩と一緒にいたいです」

「......」

「照れないでください」

「照れてない」

「顔、赤いですよ」

「夕日だよ、夕日。夕日に照らされて赤くなってるの」



この時、外はまだ明るく、真昼間とまではいかなかったが、日が沈むにはまだまだ早すぎる時刻であった。ジェノスはそれ以上突っ込むのをやめ、本題に戻る。



「確かに、それが俺たちの学校では当たり前のことなのかもしれません。なんせ進学校ですし、きっと、俺の親もそれを望んでいるでしょう」

「そういえば、ジェノスって頭良いらしいね。聞いたよ?私のクラス、ジェノスのクラスと数学の先生同じなの」



確かにジェノスは頭が良い。当時成績が優秀だった彼は、日々の授業をいささか退屈に感じていた。他の者と比べ、極端に勉強時間が長かったわけではない。ただ、要領がよかっただけなのだ。



「いいじゃない。将来、有望だね」

「それはどうでしょうか。仮に、このまま特待生として有名大学へ進学し、大手企業に入社することが、果たして幸せな人生だといえるのか......」

「ジェノスって、時々難しいこと言い出すよね。本当に歳下?」



のどかな風景の中で、他愛のない会話を交わす、いつもの帰り道ーーそんな当たり前な日常を繰り返す、平和で、ほんのちょっぴり退屈な日々がいつまでも続くと思っていた。この時、彼らはぬるま湯に浸かった生活の中で、人知れず迫り来る脅威に脅かされていたのだった。



◇◆



「でも、あの時は、そんなどうでもいいようなことを、当たり前のように話していたよね」

「......」



その言葉に、ジェノスはうつむく。アルバムの写真を見て、視覚からの刺激によって、断片的な記憶を取り戻すことはできたのだけれど、このように、外部からの刺激等のきっかけでもない限り、そう簡単には思い出せそうにない。何も覚えていない己の脳を、彼は心底恨んだ。唯一、生身の部分であるというのに、本当に大事な時に限って、使いものにならない。ならばいっそ、脳もすべて機械化してしまった方が、何もかも覚えていたのかもしれない。無駄なものを省いてきたこの身体であったが、もしかしたら自分は、もっとも不要であるべきものを、最後まで持ち続けてしまったのだろうか。

その時、どくん、となにかの鼓動を感じる。それはまるで心臓の音のようだったが、そんなはずはない、とジェノスは首を振る。生身であるのは脳ただひとつであって、この胸に宿るのは、全身に血液を循環させるためのポンプではなく、エネルギーを蓄えておくためのコアだ。だから決して脈打つことなどありえないのだけれど、今の感覚は間違いなく、なにかが大きく揺らいだ時の衝動であった。



「......そうか。なにか、きっかけがあれば」

「きっかけ?」

「はい。すべて、とまではいきませんが、俺はこれらの写真を目にすることによって、それに付随したおぼろげな記憶を取り戻すことができました。なんでもいい、思い出すためのきっかけが欲しいのです」

「そんなことを言われても、私が知っている記憶療法といえば、ショック療法くらいしかないよ」

「ショック療法......なるほど。ある種の衝撃ないし身体的ストレスを与えることによって、症状の緩解をはかる方法ですね。やってみます」

「ちょっ、ストップ!冗談!それはあくまで、映像の映らない壊れたテレビを斜め45度で叩く、くらいのものだから!なんの医学的根拠はないから!」



なまえは思う。真面目な者(ジェノス)相手に、冗談など言うものではない。



「納得できません。貴女との大切な思い出を、俺が忘れるわけがない」

「......もう、いいんじゃないかな。別に昔のことなんて思い出せなくても、これからのことに支障はないよ」

「しかし、俺はどうしても思い出したい。とても大切なことなのです」

「どうしても?」

「えぇ、どうしても」



なにを言っても、きっとジェノスの決心は揺らがないのだろう。なまえは暫し彼の目を見つめたあと、やがてあきらめたように、ふう、とため息を吐く。



「ジェノスの気持ちは、よーくわかった。だから、私も本当のことを話すね」

「本当のこと?それは一体どういう意味ですか?......なにを、知っているのですか?」

「ジェノス。ひとつだけ約束して。今から話すことは、どうしようもなかったことなの。だから、どうか落ち着いて、最後まで聞いて」

「......わかりました」



どこか釈然としないものの、この時ばかりは素直に従うしかない。なにも知らない者が、今、何を言われているのかなんて、わかるはずもないのだから。


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