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その日、なまえはそれ以上口を開こうとはしなかった。頑なに口を閉ざし続けていたわけではない。ジェノスが土下座する勢いで懇願したならば、きっと彼女は折れただろう。しかし、月明かりに照らされた、彼女の切なげな表情を見てしまうと、ジェノスは罪悪感のようなもので胸を押しつぶされ、なにも言えなくなってしまうのだった。まるで自分がそうさせてしまっているようで、胸のあたりがチクチクと痛い。本当はそんな顔よりも、とびきりの笑顔を見せて欲しい。5年前、学生の頃に見せてくれた、曇りひとつないあの満面の笑みをーー

互いに無言のまま、数分が経過した。ジェノスは腕の力を徐々にゆるめ、むくりと上半身だけを起こすと、彼女の背中を見下ろす。なまえは、ジェノスと反対方向を向いて横になっていたが、まだ意識ははっきりとしており、ジェノスの動向に気づいておきながらも、身体を丸めたまま、ぴくりとも動かなかった。仮にたぬき寝入りをしていたところで、ジェノスのサーチアイで呼吸や心拍数を分析し、見破ることは可能であったが。



「......」



ジェノスは、物事が曖昧なままであることに多少もやもやを感じつつも、それ以上言及することはなかった。彼は、何事も白黒はっきりさせたい性分であり、それゆえ、自分の気持ちに正直だった。だから、思ったことは躊躇なく口にしてしまうし、言わないで後悔などしたくはない。それは、一度『死』を経験した彼だからこその極論でもあったが、それと同様になまえにも、経験による確固とした思いがあった。だが、同じ災害に遭遇しておきながら、その後ふたりが教訓としたことは、まったく真逆とも取れるものであった。それをジェノスが知ることとなるのは、もう少し先のことになる。



「話したくないのなら、無理に聞き出そうとはしません。誰だって、辛い過去からは逃げたくなるものです。俺も......クセーノ博士に救済され、それから数ヶ月の間、まるで抜け殻のように、ただ、生かされるだけの生活を送っていました」

「......なんだか、今のジェノスからは想像できないね」

「俺だって、人間です。辛い時期もありました。悲しみは時間によって多少和らぎましたが、厄介なのはその後です。相談できる家族も友人も失い、当たりどころのない感情の矛先は、どうしたって事の元凶へと向いてしまう。......怒り、です。どうしようもないことはわかっていながら、それでも、暴走サイボーグを憎まずにはいられなかった。そうでもしないと、俺の心はズタボロに引き裂かれていたでしょう。しかし、皮肉にも、その負の感情があったからこそ、俺はここまで生きてこられたのだと思います」



そこまで言い切ると、ジェノスは一旦間を置き、しかし、と続ける。



「なまえ先輩は違う。俺のように復讐に囚われることもなく、新しい人生を歩まれていた。貴女がとっくに行き着いていた場所を見つけ出すのに、俺は4年もかけてしまったのです。......そして、ようやく同じ場所に立てた」



そんなこと、と言いかけて、なまえは口を噤んだ。実のところ、彼女のこれまでの人生は、ジェノスが思うほど健全で美しいものではない。ジェノスが憎しみを糧に心を保ってきたというのなら、彼女はその逆で、憎しみや悲しみを押し殺し、いつだって笑顔の仮面を顔に貼り付けて、反面、負の感情を閉じ込めた心の中は擦り切れ、血を流し続けていた。わかりやすいように言い方を変えると、言いたいことを我慢し、多少無理をしてでも「いい人」を演じ続けてきた。これがいいことなのか悪いことなのかなんて、彼女にとってなんら意味はない。ただ、これがなまえなりの、なまえにしかできない、最善の過去の克服法であった。

違う。私は、そんなんじゃない。声を大にして叫びたかったけれど、一方で、そんな自分を肯定してくれるジェノスの言葉が胸にしみて、嬉しかった。



「......でもね、ジェノス。私、さっきも言ったけど、ジェノスにそんなに想ってもらえるほど、よくできた人間じゃあ......」

「別に、よくなくていいんです」

「......え?」

「よくなくたっていい。俺は、貴女だから......なまえ先輩だから、好きなんです。なまえ先輩でないと、俺......」



ジェノスはそう言うと、なまえの上に覆いかぶさり、熱のこもった視線をまっすぐに向ける。なまえはズシリと身体への負担を感じると共に、暗闇で見えなくても、彼の顔がすぐ近くまで迫ってきたのがわかった。このままキスされてしまうのではないかと思い、目を閉じ、思わず身構えたものの、ジェノスは彼女の身体へとのしかかるように倒れ込み、まるでじゃれるように首元へと顔を埋め、そのままなにもしてこなかった。拍子抜けしたなまえは、勘違いしてしまったことへの羞恥で顔を赤くしつつ、暗闇でよかった、と心底思う。

自分を慕ってくれる、彼がとても大切だった。それは、今も昔も変わらない。もしかしたら自分はジェノスのことが好きなのかもしれない。それを素直に認めることができない理由が、彼女にはある。



◇◆



人間には、自己犠牲という、他者のために自分の生命すらも捧げる精神が存在する。これは数多くの生物の中でも、人間のみに与えられた尊いものだ。かといって、自己犠牲の精神が絶対的善であるかといわれればそんなことはないし、聞こえはいいものの、根本で「他人のため」というより「自分のため」というものが先行している場合もある。なまえはこれまでの人生で、そういった輩をそれなりに見てきたが、ジェノスほど純粋な自己犠牲精神を見せた者は他にいない。

彼は、自分、ましてや他人のためとも思わず、損得抜きに真っ当な行いをする。例えば、路地裏で不良に絡まれた下級生なんて設定は、漫画やアニメで使い古されたイメージがあるが、今も確かに存在するわけで、すれ違う人々も、これまた使い古されたような表現ではあるが、その悪行を見て見ぬふりをするわけで。誰だって頭では「悪いこと」と理解していて、そのうえでの行為なのだ。少なからず、助けに入ろうとする者がいることも事実だが、いざ実行に移すまでに、様々な葛藤を乗り越えなくてはならない。助けようと思い立ってから、実行に移すまでの時間ーージェノスにはそれがないのだ。考える必要などない。ただ、本能のままに動く。人助けはとても素晴らしいことなのだろうけれど、見ている側の心境は複雑で、つらくもあり、彼のその危うさを、なまえは昔から案じていた。



彼女は、恐れていた。
彼が、自分のせいで傷つくことを。



彼の行き過ぎた自己犠牲精神が、いつしか自分へと向いた時ーージェノス自身はそれを心から望むが、なまえはそれを望まない。例え想いが通じ合っても、感覚の違いが生じていては、付き合ったところでいつの日か必ず崩壊してしまうだろう。ジェノスは恐らく「恋人は死んでも守る」タイプだ。だから駄目なのだ。



「どうしてそんなに自己犠牲を嫌うかって、そりゃあ嫌に決まってるでしょう?だって、あまりに周りの人たちがいなくなりすぎてしまったんだもの。だから、もうこれ以上、私の前からいなくならないで欲しい......もう、遺される側になるのはいやなの」

「でもよ、男と女だと平均的に寿命長いのは女だろ?普通にいけば、結婚しても先立たれちまうぞ。なら、ジェノスなんてちょうどいいじゃねーか。19っつーことは、なまえと3つ違い......あ、ちょっと待て。あいつ、メカだから、寿命とか関係ないんじゃね?」

「......ねぇ。私、結構真剣な話してるんだけど!?」



昨夜、ジェノスと飲むはずだったミルクティーを啜りつつ、なまえは目の前の男ーーサイタマを細い目で見る。



「つか、話が長い。えーと、なんだっけ......自己犠牲?まぁ、なんつーか、確かにジェノスは猪突猛進するタイプだよな。今なんて身体が機械だからって、いつも自分を顧みねぇんだ、あいつ」

「昔から、見ていて危うい感じだったからなぁ。今はすぐに修理できる身体になって、よけいに拍車がかかったのかも」



次の日、ジェノスはまったく普段通りだった。朝起きると布団にジェノスはおらず、一連の家事を終えると、見回りだと告げて外へ出ていく。その口ぶりや素振りはびっくりするくらい呆気なくて、安心すると同時に、どこか置き去りにされているような気がした。そこでなまえは、同じように見回りだと告げて外へ出ようとするサイタマのマントをむんずと掴み、無理矢理引き止めた挙げ句、相談相手になってもらっていた。しかし、シリアスな雰囲気から始まったはずが、どういうわけか、この男と話し出すと、根本的になにかがズレてしまう。



「ったく、そろいに揃って......なんなんだよもー。どうしてお前らは俺に頼るんだよ」

「だって、サイタマ歳上だし、人生の先輩かなぁって」

「生きた年数と経験量が比例してると思うなよ」

「もう、いつもは自分のことおっさん扱いしてるくせに」

「なぁ。俺、もう行っていい?」

「行っちゃうの!?」

「なんだよ。なまえは俺をどうしたいの。んな勿体ぶってたって、なんも解決しねーぞ」

「私?私の話を聞いてくれる?」

「......たまに思うけど、なまえとジェノスって、妙に似てるとこあるよな......」


そして、サイタマはとうとう本格的に諦め始めると、胡座をかき、豪快に頬杖をついた。はあぁ、なんて長いため息を吐きつつ、どんな時でも話に付き合ってくれる彼はなんやかんやで優しい。



「要するに、なまえはすげー強いやつとなら付き合えるんだろ?自己犠牲精神つっても、負けなけりゃいい話じゃねーか」

「......サイタマ、私の話ちゃんと聞いてた?」

「ま、今のジェノスがだいぶ危ういのは否めねーし、そこんとこは俺が指導してやるからよ。一応、師匠だからな」

「とても今更なのだけれど、サイタマってC級よね......弟子のジェノスがS級って、一体どんな手違いが......」

「そ、それはだな......あーあれだ、あれ。筆記テスト。それに、ヒーローに格付けも地位も必要ねーだろ?登録はしたけど、俺は俺のやりたいようにやるよ。そこんところは今まで通りな」



なぜか自信満々に、誇らしげに、どんと胸を張るサイタマ。例え根拠なんかなくとも、彼の言葉には、相手を納得させてしまうような不思議な力があった。サイタマは教養深いわけでも、難しい勉学ができるわけでもない。それでも、彼はいつだって最も大切なことに、誰よりも早くたどり着く。それを知っているのはほんの少人数なのだけれど、そのうちのひとりがジェノスであり、なまえもまた同様にそうであった。



「だからさ、今はあいつの成長を、近くで見守ってやっててくれ」



◇◆



その日、ジェノスが帰ってきたのはずいぶんと遅かった。なまえが机にうつ伏せて、半分眠ってしまいそうになっていたその時に、ガチャリと鍵が開く音がしたのだった。あわてて起き上がって振り返ると、薄暗い玄関に立つジェノスの姿が目に入った。一瞬、用意していた色々な言葉がぱっと浮かんで、結局、遅かったね、というひとことだけがこぼれた。



「博士のところへ行って来ました。聞きたいことがあったので」

「ふうん。それで、聞きたいことは聞けたの?」

「はい。......少し、話をしませんか」



静かな声だった。その目には覚悟みたいなはっきりとした色が見え隠れしており、ふと、どこかで見たことのある色だということになまえは気づく。はっきりとした発音で告げられたそれに、なまえは頷くだけで返すのが精一杯だった。

なまえがすでに敷いてあった布団の上へと座ると、それを合図に、正面に座ったジェノスがはっきりとした声で語り始めた。言いたいこと聞きたいことは山ほどあったが、今は黙って耳を傾ける。どこか空気が重苦しい中、なまえは膝に置いた握りこぶしへと力を込め、無意識のうちに背中はぴんと伸びていた。



「俺は、今から5年前のなまえ先輩との思い出を、断片的にしか覚えていません。しかし、これはあまりに不自然過ぎる。そう思った俺は、クセーノ博士に相談し、脳に異常がないか調べてもらいました。......結論から述べると、なにも異常はありませんでした」

「そう。それはよかった」

「博士によると、このバグのような現象は、どうやら俺自身に原因があるのだそうです。ショックで自分の記憶に蓋をして、思い出せないようにする......これは人間の本能的な働きと同様で、俺に関してはまったく自覚がないものですから、極めて異例だそうです」

「......」

「なまえ先輩。貴女の嫌がることはしたくありませんので、今からすべて話せとは言いません。だから、せめて......貴女の持つ卒業アルバムを、見せて頂けませんか」

「......卒業アルバム」



ただ確認するみたいに、言われたことを短く繰り返すと、ジェノスは突然すみません、とだけ答える。すると、今までずっと無表情だったジェノスが、そこでようやく苦しげな表現をつくった。眉が寄って、まぶたの影が深くなる。だけど呟いたのはそんな短い謝罪だけで、それ以上話そうとはしない。息を全部吐ききって、天井を少し見上げたあと、なまえはやけにあっさりとした言葉を返した。



「......うん。いいよ」

「っ、いいのですか......?」

「あ。でも、あまり私の写真は見ないでよね。昔の自分見られるのって、なんだか恥ずかしいし」



そう言ってなまえは立ち上がると、引き出しの奥底から分厚いアルバムを引っ張り出して、はい、とジェノスに向かって差し出した。どうやら、思っていたよりも容易に頼みを聞き入れてもらえたことに驚いているらしい。ジェノスはそのアルバムを、まるで表彰式で賞状を受け取るみたいに、しっかりと両手で受け取ると、大切なものを扱うように腕へと抱いた。そして、まじまじと表紙を見つめたあと、恐る恐るページをめくった。

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