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彼女は間違いなく、彼を意識していた。

しかし、彼女は恐れていた。一度失ったとばかりに思っていた存在だったからこそ、もしかしたらこれも淡い夢のような「幻」なのではないかと、未だに実感ができぬまま、心のどこかでその気持ちを拭いきれずにいる。それほどまでに、一瞬ですべてを失った者にしかわからないこの喪失感、恐怖というものは底知れぬものであった。どんなに他人がそれを理解しようとしたところで、同じ経験をした者にしか、その者の苦悩の日々を労うことはできないだろう。彼女はそれを知っていたので、今まで一度だって他の者に己の過去を打ち明けようともせず、弱みを見せないように隠し通し、4年という年月をたったひとりで生きてきた。



ーー本当に理解し合える人なんて、誰ひとりいないものだと思ってた。



その長い長い年月、外に吐き出せず、溜まりに溜まった負の感情が、今、こうして涙となって、ゆるやかに放出される。



ーーそうだ。彼だって、被害者だ。

ーージェノスもこの4年間、ひとりで、ずっと孤独だったんだ。



憎しみだけで生を繋ぎ止め、それだけを糧に生きてきた4年間のことを思うと、いかにつらかったかを想像するのさえなまえにはできなかった。きっと想像を絶する苦しい日々であっただろう。それに比べ、自分はどうだ。本心を隠し、悲しい過去から逃げてばかりいて、他人や自分を欺いてばかりの日々だった。客観的に見ると、自分はなんて見えっ張りでつまらない人間なのだろう、と、考えれば考えるほど、虚しくもなった。

なまえはふと顔を上げ、ジェノスと真正面から顔を合わせる。彼の黒く塗りつぶされた結膜の、蜂蜜色の瞳孔に、なんとも言えぬ表情を浮かべた自分の姿が映されていた。戸惑いのような、哀れみのような、そのどちらでもないような。なまえはふぅ、とひとつ息を漏らすと、ジェノスの首へと両腕をまわし、引き寄せ、そのまま優しく抱きしめた。肩に顔を埋めたジェノスの表情を見ることはできないが、行き場のない手をわたわたとさせる様子を見るからに、きっとものすごく動揺しているのだろう。頬に触れる金色の髪はふんわりと柔らかくて、まるで、毛並みのいい大きな犬を抱きしめているのだと錯覚してしまいそうになる。



「!? 先輩!!?」

「ジェノスはさ、本当に私のことが好きなの?」

「? なにを言っているんですか。俺がなまえ先輩に嘘を吐くはずなど......」

「うん、知ってる。......ごめんね。ジェノスを疑っているわけじゃない。自信がないの。私は、ジェノスにそんなに想ってもらえるほど、よくできた人間じゃないよ。見えっ張りなだけで、本当は......ものすごく弱い人間なんだよ」

「......」



そして、沈黙。ひたすら隠し続けてきた本心を打ち明けてしまったことも相俟って、なまえはどうしたらよいのかわからなくなってしまった。相手に表情を悟られなくてよかった、と心から思う。今の自分はきっと頼りなくて、複雑な表情をしているだろうから。それはとてもつまらないものだったのだけれど、歳上としての威厳を保ちたいという、なまえの持つちっぽけな見栄であった。



「なまえ先輩。......あの、」

「なに?」

「ええと......その、俺は一体どうすれば......?」

「ちょっと待って。今、色々と考えてるところだから」

「? はぁ......」



なまえは暫しの間、その固い身体を抱きしめながら、様々なことに思いを巡らせた。ジェノスが本気で自分を好いてくれていることは、明らかすぎる愛情表現にて一目瞭然。彼の気持ちが本物であるからこそ、決して軽い気持ちで応えてはいけないと思った。仮に付き合うことになったとして、互いの愛情の力量がつりあうとも思えない。きっとジェノスからの愛情が重すぎて、シーソーの反対側に乗ったなまえの気持ちなんて、遠い彼方へ飛んでいってしまうだろう。軽い、なんて表現が適当ではないが、それほどまでに、なまえとジェノスの気持ちには大きな温度差があった。それは、ジェノスがまだ19という若さで、今まで恋を知らなかったが故に燃え上がるーーつまりは、若さの至りなのかもしれない。

ついに結論が出たのか、なまえはぎゅっと下唇を噛むと、ふいにジェノスの顔を覗き込む。その表情があまりに真剣そのものだったので、ジェノスはコアの音が高鳴るのを感じながら、思いきり力を込めてまぶたを閉じた。しかし、やや時間を置いたあと、ふにゃりとした柔らかな感触が押し付けられたのは、唇ーーではなく、額。ジェノスが拍子抜けしたような顔で見上げると、なまえは顔を真っ赤に染め、恥ずかしげにこう言った。



「え、と......先輩......?」

「いっ、今はこれが限界!......いいでしょう?」

「あ......えっと、いや、その......はい......」



その可愛らしすぎる反応に、ジェノスはただ、首を縦に振ることしかできなかった。



◇◆



結局、有耶無耶にされてしまったと、ジェノスはあの時の自分の対応を心底悔やんでいる。しかし、いざ強気になって押してみたはものの、額へのキス程度でこんなにも動揺してしまったのだから、どうしようもない。ジェノスはなまえに口づけられたところにそっと触れ、赤面した彼女の表情を思い浮かべる。頬と耳を赤く染め上げて、ほんの少し潤んだ瞳で睨みつけ、ちっとも怖くなんてないのだけれど、正直なところ、どうしようもなくそそられた。もしかしたら自分は、とてつもなくもったいないことをしてしまったのではないだろうか。だって、額とはいえど、初めてのなまえからのアクション。あのままあわよくば......とも目論んだが、そもそもその先になにがあるのかをジェノスは知らない。

ジェノスは手のひらを広げ、機械でできた己の身体を見下した。仮にそれらしき行為ができたとして、そこになにも生まれない。生産性のない行為に意味などあるのか。ただ無駄だと切り捨ててしまえば、それまで。力を欲し、身体を捨てた当時の自分は浅はかだったのだろうか。



「ジェノス。もう寝た?」



そして今、ジェノスはなまえと同じ布団に入り、仰向けになって寝ている。ふたりでひとつの枕を使っているため、必然的に互いの身体は密着していた。どうしてこんなことになってしまったのか、ジェノスは頭を悩ませる。そして、あの流れでこの状況を許すなまえもまた、一体なにを考えているのか検討もつかない。



「いえ......まだ」



というか、眠れるはずもない。普通。ジェノスは身体のほとんどが機械で構成されていたが、だからといって感覚や感性までが麻痺してしまうほど、人間からかけ離れてはいなかった。



「なまえ先輩。俺が言った意味、わかって頂けてます?」

「うん?うーん......」

「俺はなまえ先輩が好きです。だからこそ、貴女と色々なことがしたい」

「色々なこと?」

「そこを聞いてしまいますか」

「あ、やっぱいい。聞かなかったことにする」

「......では、今から俺が口にするのはただのひとりごとですので、ここから先も聞かなかったことにして頂いて構いません」



なまえからの返答はない。もしかしたらもうすでに、聞いていない態度を決め込んでいるのかもしれない。それでもジェノスは構わずに、言葉を続ける。



「俺はなまえ先輩が好きです。愛しています。貴女のそばにいると、言葉にできない安心感に包まれて......それだけで、俺はとても心地よいのです」

「......」

「だから、それ以上は求めません。......といったら嘘になります。俺は欲しいと思ったものに対しては貪欲なのです。敵を討つための力も然り。しかし、今はそれ以上に、貴女が欲しい」

「......」

「どうして俺がこれほどまでになまえ先輩に執着するのか、記憶がすべて戻っていない以上なんともいえませんが、脳が覚えていなくても、感覚で覚えているのです。こんな話、信じてもらえないかもしれませんが......」

「信じるよ」

「!!」

「だって、4年前のあの時と、まったく同じこと言ってる」

「......それは、俺が成長できていないということでしょうか」

「違うよ。あの頃と変わってないってこと。4年が経っても、姿かたちが変わっても、やっぱりジェノスはジェノスだ」



その時、ジェノスは目頭が熱くなると同時に、なにかがこみ上げてくるのを感じた。サイボーグである彼が涙を流すことなどありえない。現に、彼の瞳はいたって乾いており、潤んですらいない。それでも、彼は泣いていた。声に出さず、涙も流さずに、彼は確かに泣いていた。



「どうして、貴女はそうやって俺を」



ジェノスは背後からなまえを包み込むようにして抱きしめると、ぎゅっと腕の力を込めた。そして、縋るように顔を埋め、わずかに肩を震わせた。なまえはなにも訊かずにそれを受け入れ、前方を向いたまま、肩へと埋められた彼の頭をぽんぽんと撫でた。一体どうしたの、なんて野暮なことには触れないで。



「好きなんです。貴女が」

「うん」

「例え、今は気持ちに応えて頂けなくても......いつか、必ず」

「......うん」



彼女は間違いなく、彼を意識していた。

だが、今すぐに彼の気持ちに応えることはできない。強く抱きしめられたなまえの目のかたちは歪んでいて、どうしようもなく胸が傷んだ。急に悲しみとも苦しみともつかないものが肺を押し上げてきて、その圧力を逃がそうと、長い長い息を吐いた。そして、声を絞った。



「私はさ」



思っていたよりも、ずっとやわらかい声が出た。



「もう、誰もいなくなって欲しくないの。あの時みたいな思いは......もう、したくない」

「はい」

「だから、嫌なの」

「......なぜですか」

「ジェノスは忘れてしまっているけれど......私は、絶対に忘れない。忘れられない」

「それを、詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「......」



ジェノスがいまだに思い出せずにいる過去の記憶ーーどうやら、なまえがジェノスを拒み続ける理由がそこにあるらしい。ジェノスは自分が思い出せないことを他人の口から聞いてしまうのは卑怯だと思ったが、そんなこと気にしていられる余裕などなかった。今はなりふり構わず、なんとしてでも、彼女が自分を拒み続ける理由が知りたい。それを記憶のない自分が聞いたところで、釈然としないのだろうけれど。

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