>23
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



食事を終えて、風呂に入り、隣の自室に戻って布団を並べる、これまでの毎日と同じ流れを同じようになぞっていきながら、時折ジェノスのことを考える。このまま彼の気持ちに応えずにいれば、全部なかったことにはならないだろうかなんて、都合よく考えたりもした。だけど電気を消して、布団の中へ潜り込むと、それまで遠くへ追いやっていたはずのものが、次々とわきあがってきた。それは4年前のことだったり、つい最近のことだったり、それらの経験を経て見たもの感じたものがまぶたの裏でぐるぐると回って、うまく眠りに就くことができない。



ーーあの惨い過去を乗り越えて、私は強くなった、......はずだった。



けれど、実際は違った。言い出されたことを受け止めることからすら逃げて、挙句、なかったことにできればなんて考えている。なまぬるい暗闇の中で、なまえはゆるく身体を丸めた。自分が一体どうしたいのか、ますますわからなくなってゆく。ばらばらにほどけてゆく感情の線をどうにか無視しようとして、唇を噛んだ。強くなれたのだと思い込んでいた「自分」は決して強くなんかなくて、ただの臆病者な、か弱いひとりの人間で。

なまえはできるだけなにも考えないようにしていた。ただひとつ確かなのは、今こうやって膝を抱えるようにして動けないでいることを、誰にも悟られたくないということ。特にジェノスは3つも年下であり、こんな自分に好意を寄せてくれていたからこそ、普段見せることのない弱く脆い部分を知られたくなかった。



「......」



案の定眠ることができないので、なまえは上半身だけむくりと起こすと、やけに広い部屋の中を見渡す。言うほど広いわけではないのだけれど、サイタマやジェノスが使っている隣部屋とまったく同じ構造の部屋にひとりでいると、普段3人で生活していることに慣れてしまったせいか、そう感じてしまうのだろう。何度か目をしばたかせ、目が暗闇に慣れてきた頃、なまえはふとベランダで夜風にあたろうと思い立ち、もぞもぞと布団の中から抜け出した。

ガラガラと音を立ててベランダの扉を開くと、ひゅう、と冷たい夜風が入り込んできて、思わず肩をすくめる。そこから覗く風景は特殊であった。周り一帯に灯りなんてらしきものはなくて、遠く離れた彼方にぽつぽつと住宅街の光が密集しており、更に空高くにはどっしりと構えた月の光が見える。まるで世界から切り離された場所に自分はいて、たったひとり取り残されたような感覚に陥る。ぞくりと背中を走る悪寒は、単に部屋の外が寒いだけなのか、それともーー?



「なまえ先輩?」

「!」



突然名前を呼ばれ、なまえははっと我に返る。まさか自分以外にも起きている者がいるとは思わなかったので、驚きのあまり過剰に身体が反応してしまった。



「その声......ジェノス?」

「あぁ、やはり先輩だったんですね。どうしたんですかこんな時間に」

「それを言うならジェノスこそ。私は......その、眠れなくて」

「奇遇ですね。俺もです」

「そっか、同じだね」



べランダには部屋ごとに仕切りが設置されており、隣人の姿は見えない。互いに相手の顔を直接見ることはできなかったが、薄い隔たりのすぐ向こう側から、確かに相手の存在を感じることができた。



「すごい真っ暗。まるで私たち以外、誰もいなくなったみたい」

「少なくとも今、ゴーストタウン内に先生、先輩、俺以外の生態反応はありません」

「ふぅん......」

「......」

「......」

「「あの」さ」



ふたり発した声が見事に重なり、あまりにも綺麗にハモったものだから、なまえはおかしくて、つい笑ってしまった。



「あはは、なぁに?ジェノス」

「い、いえ!その、なまえ先輩から言ってください」

「私のは別に大したことじゃあないから」

「それを言うなら、俺だって......」

「もう、それじゃあキリがないでしょ。じゃあ言うけど、ジェノスがなにか悩んでるんじゃないかなって思って」

「!」

「かく言う私もそういうわけで、考えれば考えるほど訳わかんなくなってきちゃった」

「先輩をそんなに悩ませるとは......一体どのようなことですか?」

「うーん、ジェノスのこととか」

「!?」



それはどういう意味ですか、とたたみかけようとして、驚きのあまり声が喉の奥へと引っ込んでしまう。なまえが自分のことで悩んでいるということは、頭の中が自分のことでいっぱいになっているということでーージェノスは嬉しいようなもどかしいような不思議な感情を覚え、するとなぜだか妙に声が震えた。



「なまえ先輩。そちらへ行ってもいいですか」


「え、いま?」

「はい。なんなら、この邪魔な隔たりを破壊してしまっても......」

「それはだめ」



このアパートに管理人なんてものはいないのだから、誰にとがめられるわけでもないのに。ジェノスは内心そう思ったが、そちらに行くことに関しては拒まれなかったので、素直に従うことにする。

部屋の扉をノックすると、ガチャリと音を立てて開いた扉の先に微笑むなまえがいて、快く迎え入れてくれる。手招きする彼女があまりに可愛らしくて、その無防備さが憎たらしい。例え年下だろうとサイボーグだろうと、なまえに好意を寄せるひとりの男だということに変わりはなくて、それを知ってのうえでこんな態度を取られようならば、仮に突然押し倒されたとて文句など言えないではないか。



「失礼します」

「はい、どうぞ。よかったらお茶でも煎れようか?眠れない時は......あ、カフェインって、逆に眠気が軽減しちゃうんだっけ」

「確かに、カフェインには覚醒作用という眠気を奪う現象を引き起こす効果があり、飲んだ後の8〜14時間は眠れない状態が続くといわれております。しかし、実は紅茶を飲んでカフェインを吸収したとしても300mgは摂取しないと睡眠に影響が出ることは珍しく、眠れないというケースは少ないようです。特に、普段カフェインを摂取しない人は通常より吸収が早く......あぁ、なまえ先輩はコーヒーより紅茶派で、普段から飲まれておいででしたね。問題ないでしょう」

「ジェノスはどうする?」

「なまえ先輩と同じもので」

「オッケー、ミルクティーね」



上着を羽織り直し、なまえは水の入ったやかんを火にかける。もとより紅茶が好きな彼女は様々なお茶葉を持ち合わせており、暇さえあればこうして自分で煎れていた。仕事がない休日には友人を自宅へと誘い、可愛らしいティーカップにあたたかい紅茶を注いでーーそんな優雅な生活を夢想し、独り暮らしを初めたばかりの当初に奮発して購入したティーポットとペアカップ。しかし、現実は紅茶を片手におしゃべりしている時間などあるはずもなく、颯爽と過ぎゆく生活の片隅で、長いこと忘れ去られていた。



「......いいかおりですね」

「そうでしょう?これはね、カカオシェルとシナモンがブレンドされてるの。これがミルクティーにものすっごくぴったりなんだから」



ようやく訪れた、その食器具を使う機会に、なまえは少し浮ついていた。だから気づくことができなかった。ジェノスがどんな気持ちで、どんな表情で、この部屋を訪れたか。

次の瞬間、なまえの目に映る世界がぐらりと大きく傾いた。その後はまるでスローモーションのようにゆっくりと、コマ送り再生される視界の中で、ふたりの距離は急激に縮まっていった。傾いた身体はそのまま重力に従って床へと落ちてゆくものだと思っていたのだけれど、その先でジェノスの胸に支えられ、強く抱きしめられる。慌てて飛び退く暇すらも与えてもらえず、ジェノスは腕の力を緩めることなく、腕の中にいるなまえの耳元でとても愛おしげにつぶやいた。



「隙だらけですよ」

「!? ジェノス......!?」

「貴女が、そうやって無防備にしているのが悪いんです。なんの疑いもなく招き入れるなんて......俺は、なまえ先輩が好きなんですよ?性的な意味で」

「(最後のひとことは聞きたくなかった!)」

「だからこそ、俺は貴女のその無防備さが、無警戒さが......こわい」



彼女が悪いわけではない。ただ少し、他人より危機感がないだけ。なまえは自分に対しての評価が低く、謙遜しがちな性格だったが、ジェノスの贔屓目がなくとも、女性として十分に魅力的だった。



「どうしたら分かってくれるのですか?確かに俺はなまえ先輩から見れば、まだまだ子どもかもしれません。しかし、歳下といえど俺だって19......それなりに、欲だってあります。まさか自分にこんな感情が残っているとは思ってもみませんでしたが、きっとなまえ先輩が思い出させてくれたのでしょう」

「は、話なら聞くから!だから、一旦離して......ね?」

「先輩の頼みでも、こればかりは聞けません。貴女は......なにも分かっていない。だから、教えて差し上げます。今度は俺が思い出させて差し上げます」

「思い出させる......?もしかしてジェノス、4年前のこと......」

「いいえ、それは残念ながら。俺が言っているのは、もっとつい最近のことですよ。確かに事実でありながら、なまえ先輩の記憶には欠片も残されていない......あの夜の出来事を」

「? なにを言って......」



その時、ずきりと首筋が疼く。そこは以前サイタマに虫刺されだと教えられ、薬を塗り込んだ箇所だった。



「首筋へのキスは、"執着"」



ぽつりと小さくつぶやかれたジェノスの言葉は、なまえの耳に届かない。



◆◇



そのままなだれ込むように、なまえの身体はキッチンの調理台へと仰け反るように押し倒された。突然のことになまえは状況がうまく飲み込めず、天井を眺めながら呆然としていたのだけれど、耳元で意味深な水音が響き、ぞわりとした感覚と共になまえははっと我へと返った。



「ちょっ、ジェノス!?」

「なんですか先輩」

「なんですか、じゃあないでしょう!?いきなり押し倒すなんて!!」

「では、貴女はどういうつもりで俺をこの部屋に招き入れたのですか?こんな真夜中に、異性を。......あぁ、サイボーグはそういった対象ですらありませんか」

「ちっ、違......!ジェノスがサイボーグだとかなんだとか、そーいうのは関係なくて!ジェノスは今から私をどうしたいの......!?」

「......そうですね。どうにかしたいのかもしれません」



ジェノスには、初めからなまえを押し倒してしまおうなどという考えはこれっぽっちもなかった。ただ、眠れないからとベランダに出て、そこへなまえの気配を感じ、声を聞いたら直接顔を見たくなった。ただ、それだけの話だった。しかし、対する彼女はあまりに危機感などなくて、仕事用のぴっちりとしたスーツとは対照的に、部屋着はあまりに露出度が高すぎた。ちらりと覗く胸元や、すらりと伸びた生足、二の腕。例え狙ったものではないと頭でわかっていても、なまえに好意を抱いているジェノスにとって、その姿はあまりに刺激的すぎたのだ。

いや、格好だけならまだいい。問題はなまえの態度だ。ジェノスを多少なりとも恋愛対象として見ていたなら、少しは恥じらいの心も持つだろう。それなのになまえは恥じらいも、ふたりきりでいることへの気まずさすら見せない。相手が自分より大人とはいえ、まるで子ども扱いされているような、この感覚がひどく気に食わない。年齢問わず対等に見て欲しいだなんて、それこそ年下の考えそうなことだから、決して口にすることなどできるはずがないのだが。吐き出したい思いを必死に抑え込めようと、ジェノスは無意識のうちに己の唇を強く噛んだ。



「ジェノス。唇から、血が」

「問題ありません。この程度の破損、俺にとっては無意味です」

「でも、痛そう」

「そんな感覚、記憶にすらない。なまえ先輩にはそう見えるのかもしれませんが、こんなもの......ただのニセモノですから」



もし「痛い」という感覚がまだこの身体に残っていたというのなら、今、感じているこの胸の違和感をいうのだろう。ズキズキと継続的に、時折ぎゅっと鷲掴みにされるように。そしてやんわりと、下から心臓を持ち上げられようにーー



「キスしてください」

「......え?」

「キスをして欲しいんです。貴女に」



切なげに微笑み、ジェノスは続ける。



「俺からではだめなんです。なまえ先輩からでないと......意味がありません。だからどうか、俺に」



そこで、一旦言葉は止まった。それ以上は言葉にするのも苦痛で、表情筋などないはずの彼の顔が、徐々に苦痛で歪んでいった。どんなに悲しくても、どんなに苦しくても辛くても、それでも涙は一滴も出やしない。そういう彼の表情が、ふとした瞬間に、なまえを落ち着かなくさせるのだった。無機質で、感情なんてほとんどにじませない顔つきは、時々どうしてだか、ひどく疲れているようにも見える。色のない瞳の奥に、目には見えない火が強く燃えていて、その不自然な火が、なまえにはどうしようもなく不愉快だった。孤独だとか、疲れだとか、そういうものの冷たさに耐えかねて、決して捨ててはならないなにか、取り返しのつかないなにかを燃やしてしまっているような、そんな気がして、ぞっとした。

耳の奥で、自分を呼ぶジェノスの声がよみがえる。全部がぜんぶ、たったひとつの感情で塗りつぶされたみたいな、真っ黒い声。どうしたって、ジェノスにそういう声を出させているなにかを、自分には一生理解してやれないのかもしれないと、なまえはその時直感のように思ったのだった。そうすると、次の瞬間、頬に触れた自分の指になまぬるいものが触れて、慌てて確かめてみると涙だった。なんの前触れも予感もなく、それはごく自然のことであるかのように流れ落ちていた。一度口を開いたら最後、余計なものまで溢れ出てしまいそうで、なまえは唇の内側を噛みしめながら息をした。鼻の奥が熱かった。



「どうして、なまえ先輩が泣くんですか」

「っ、知らない......勝手に涙が出てきただけ」

「貴女はやはり優しいお方だ。泣けない俺の代わりに、そうやって涙を流してくれるんですね」

「私の泣く理由なんて、そんなに大それたことじゃないよ、きっと。私が泣きたいから泣いてるの」

「例え、そうなのだとしても......俺は」



ジェノスはなまえの顔をしばし見つめたまま、ただ愛おしげに眉を寄せ、それ以上はなにも言わなかった。キスをして欲しい、と彼は言った。それは単に一方的な欲求ではないのだと、なまえはそう理解した。仮にジェノスの身勝手な欲求だったとして、それを満たす方法ならいくらでもある。力でジェノスがなまえに劣るわけなどないし、キスがしたいのなら、無理矢理にでも口づけてしまえばいいのだから。それができる状況であるにも関わらず、それを実行しないということは、彼なりに思うことがあるのだろう。

気まずい沈黙をやぶったのはふたりのどちらでもなく、やかんの水が沸いた甲高い音だった。なまえよりも先にジェノスが手を伸ばし、コンロの火を消す。その拍子に縮まった互いの距離間は限りなくゼロで、ジェノスは服越しに触れたなまえから、大きな胸の鼓動を聞いた。

「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -