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彼女の甘い声が、今も耳に残っている。

俺の目を見て、俺の名前を呼ぶ、可愛らしい声が、愛おしくて、もっともっと呼んで欲しくて、こんなこと許されないと分かってはいても、それでも彼女のすべてが欲しくて、欲しくて。この時ばかりは後先のことを一切考えず、今この時この瞬間のことだけを考えた。それでも頭の中では無意識に、あとでどう謝ればいいのか、どうしたら許してもらえるだろうか、普段から深く考え込んでしまうくせがあったため、様々な思考が駆け巡っていたが、それらすべてを断ち切った。



「......ジェノ......」



そっと触れるだけのキスをして、一旦距離を置く。なまえがどんな顔をしているのか、その反応を見たかった。さて、どう出る?俺を罵るのか、怒るのか、それともーー悲しむだろうか。しかし、現実は想像を超越したことばかり起きるもので、まるで壊れた蛇口のように、なまえの瞳からぽろぽろと溢れ出る涙の意味を、この時のジェノスは知らない。潤んだ彼女の瞳を目にした途端、ジェノスの中でなにかがぷちりと切れる音がした。

触れたいと何度も思った唇に再び噛みついて、今度はもっと深く、長く。涙で濡れた唇は少しだけしょっぱくて、あまくて。ジェノスはなまえの両腕をがっちりと掴み、逃げられないように固定すると、本能的に喉元へと唇を寄せた。そのまま口づけ、ちゅっ、と音を立てて吸いつくと、なまえの伏せた長いまつげがふるりと震える。その拍子に零れたひとつぶの雫が、ジェノスの頬にぽたりと落ちた。零れ落ちる涙は、聴こえない悲鳴を発しているようでーー押し殺された本音が涙になって落ちてゆく様を、ジェノスはただ見ていることしかできない。それでも、どうして泣いているのか、その理由を聞いてしまうのが怖かった。



ーーあぁ、とうとうやってしまった。

ーーけど、どうせ同じ過ちなら、思う存分堪能してしまおう。



なまえが抵抗してこないことをいいことに、なんて、聞こえが悪いけど、それからジェノスはしばしの間、彼女の柔らかな肌を唇で堪能した。言葉を発することなく、抵抗もせず、すべてを受け入れてくれる彼女に、わずかな不安を抱きながら。そして、ゆっくりとなまえの口が動くのを、視界の端で確認するなりーーまるで審判を待つ死刑囚のような気持ちで、あぁ、そろそろか、と、ジェノスは名残惜しげに彼女の身体を解放した。



「すみません......先輩」



忘れてください、と。それを合図になまえの記憶は切り取られ、まるでツギハギのように、歪に形成された。

この身体になって尚、感情的になってしまうとは情けない。戦いにおいて、邪魔となりうるすべてを排除するつもりでいたが、クセーノ博士の言う人間らしさが残されたまま、こうも中途半端な存在となって、今を生かされている。機械になりきれない自分に苛立つ一方で、それでも人の肌のぬくもりを求めてしまうあたり、やはりジェノスは人だった。そして一度知ってしまった蜜の味を簡単に忘れられるはずもなく、彼はまたなまえに触れたいと、どす黒い欲望のかたまりが腹の底で渦巻いているのを知っていた。



ーー感情がうまく処理しきれない。

ーー......一度、博士に相談してみるか。



こうしてジェノスは、その邪心を振り払うかのように、今日も家事に勤しむ。

サイタマがスーパーへ買い出しに行っている最中、ジェノスはピンクのエプロンを身にまとい、日課のトイレ掃除をしていた。サイタマからはやらなくてもいいと言われていたものの、彼は義理堅い性分なのである。そのうえ、生活費として手渡した札束に、サイタマは一切手をつけていない。それなりに高額を支払ったつまりではあるが、それでも、サイタマは今までの質素な生活を変えるつもりはさらさらなかった。



「ジェノス。掃除機かけといたよ」

「!」



なまえの声を聞くたび、そんな些細なきっかけで、あの時の記憶が蘇る。自分の欲望さえ制御できないなんて、きっと精神力の弱さがいけないのだろう。今のジェノスにとって、なまえを目の前にして理性を保つというのはかなりの至難の技であったが、これも精神力を鍛える修行なのだと思えば、ぎりぎりのところで踏みとどまれた。

それでも、時々考えてしまう。忘却機能を使ってしまえば、どうせなまえは忘れしまう。例え、なにをしようとも。そんなずるい考えが頭を過り、なにを考えているんだと己を諌めーーその繰り返し。



「(また、消してしまえばいいではないか)」

「(しかし、この機能は戦闘に有利になるよう、博士がつけてくれたもの......こんな私欲を満たすためのものではない)」

「(だが、いつまでもこの状態が続いていたら、俺の理性が......)」

「ジェノス!」

「!」

「私の話、聞いてた?」

「......すまない」

「なんだか、本調子じゃあないみたいね......」



そう言うとなまえは、前触れなくジェノスの額に触れ、わずかにまゆをひそめる。



「!?」

「......うん、熱はなし。むしろ冷たいくらい。ジェノスって、異様に体温低いよね」



そりゃあサイボーグだし、なんて、言えるはずもなく。いっそ、このタイミングで打ち明けてしまおうか。だが、それを言ったところでどうなる?まだ復讐を果たしていない未熟な自分が、これ以上弱点などつくるわけにはいかない。



「ねぇ、なにか悩んでるよね」



唐突に、まるで心の中を見透かされたかのようなあまりに的確な言葉に対し、ジェノスはなにも言えず、ただただ身体を硬直させることしかできなかった。まがい物の身体でよかった、と、この時ばかりは心底思う。もし生身の身体であったなら、顔は赤く染まり、胸の鼓動は激しく高まり、表情だって、きっと見せられないような情けない様になっていただろう。しかし、自他共に認めるポーカーフェイスであるからこそ、なぜなまえにだけは本心を見透かされてしまうのか、ジェノスにとって大きな謎であった。

彼は確かに、感情を表には出さない。しかし、その真面目すぎる性格ゆえ、嘘を吐くことができなかった。とはいえ、今ここで悩んでいることを素直に認めたとして、心配性ななまえのことだから、なんとしてでもその理由を聞き出そうとするだろう。彼はそれを恐れていた。己の感情を悟られてしまうのが、怖かった。



「話を聞くことくらいなら、私にもできるよ。それとも、私じゃあ頼りない?」

「そんなことは......」

「......そう、だよね。まだ出会って間もない相手に、話せるわけないか......」

「!それは断じて違う!!俺は......貴女のことで頭がいっぱいで......!!」

「え?」

「!?」



しまった、と思った時にはもうすでに遅かった。反射的に忘却機能を発動してしまいそうになるが、もしかしたら聞き逃しているかもしれない、と、わずかな希望に賭けてみる。そもそも、忘却機能は怪人相手に使用することを前提につくられたものだ。脳になんらかの影響を与えているのは事実だし、それがのちになにかの弊害にならないとも言いきれない。

ジェノスが弱々しく、聞かなかったことにしてくれ、と呟くと、なまえはええ、だとか、うう、だの、字幕やテロップでは表現できないような呻き声を出しながら、首から上を赤く染め上げた。そこでジェノスは、一語一句漏らさず、完璧に聞かれてしまったことを悟ったのだ。



「ち......っ、違うんです!!」

「うわっ!?」

「あの......その、今のは......とにかく、違うんです......」

「う、うん......そっか。そうだよね、違うよね......?」



仮にこの場にサイタマがいたならば、いや、なにが違うんだよ、なんてツッコミが飛んだだろう。しかし、不運にも、今この場にそれをつっこんでくれる者はいない。なにがなんでも「違う」と主張するジェノスと、理解していない頭で、それを素直に聞き入れるなまえの間に、やけに長い沈黙が続き、やがて重い空気と気まずさだけが残された。

この時、ジェノスは自分の口調が再び変わってしまっていることに、そしてなまえは、ジェノスがポケットの中で、くしゃり、と一枚のメモ用紙を握り締めていたことに、互いに気づいていない。



◆◇



禁忌を犯してしまったあの晩、彼にはもうひとつ秘密にしていることがあった。



「......」



ポケットの中に、くしゃくしゃになったメモ用紙が一枚。ジェノスはそれを、かろうじて文字が読める程度に押し広げると、じっとそれを見つめた。そこに書かれていたのは、ジェノスが過ごしてきた苦悩の日々。これは、そのうちの1頁である。彼は常日頃、サイタマの教え(?)を何冊ものキャンパスノートに書き綴っており、師の言葉を字と図版で、紙と心に刻んでいた。しかし、なまえと日々を共にするうちに、彼女に対する想いが募り、気づいたら力や強さとはまったく関係のないことまで、無意識のうちに書き綴ってしまっていたのだ。そして、ふと我に帰っては、慌ててそのページを破り捨てーーもう残ってはいないであろう失われたページが、今、こうして手の中にある。驚くべきことに、これを見つけたのは、なまえの着用していたスーツのポケットの中だった。

以前、サイタマがパトロール中、道端でもらったティッシュをズボンのポケットに入れたまま洗濯に出してしまい、それがのちに、他の洗濯物もろともティッシュまみれの悲惨な状態になってしまったのを教訓に、以来、ジェノスは洗濯する前に必ず、洗濯物のポケットの中になにも入っていないことを確認している。



ーーしかし、なまえがなぜこれを?

ーーまさか、これを読まれてはいないだろうな......?



そこに記されていたのは、彼女に対する羨望、愛情。時に苛立ちさえもオブラートに包むことなく、胸のうちをそのまま文字としてあらわしていた。そして、箇条書きのように書かれた、いつか見た光景や情景、ぐしゃぐしゃに黒で塗りつぶされた、読めない箇所ーーこれらには身に覚えすらない。本当に自分が書いたものなのか、それさえも疑ってしまいそうになるが、この文字体は見間違えるはずもなく、確かにジェノスのものだった。



『燃える街並み』

『逃げ惑う人々』

『好きです会いたい生きたい』

「......」



この悲痛な叫びを体現するのなら、まるで地獄絵図のようだな、と思った。記憶のない箇所に至っては、まるで自分以外の誰かが執筆した、ひとつの作品のようで。いずれにせよ、愛しい者との再会を切望し、果たせぬまま息絶えてしまったこの男の末路は、ハッピーエンドからは程遠かった。心底哀れだな、と思うと同時に、他人事とは思えなかった。

それよりも、今、問題なのは、溢れんばかりの彼女への想いを書き殴っている前半の部分。読み返してみると、我ながらすごい。なんというか、色々と。



「......」



ジェノスはすっくと立ち上がると、気まずさから逃げるようにして風呂掃除へと向かってしまった、なまえのあとを追いかけた。迷う時間などない。言葉にできない焦燥感に駆られたジェノスは、今の自分がなにをすべきか即座に理解した。

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