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朝食を食べ終えてから、この日、私たちは3人で買い出しに出掛けた。食料品はもちろん、足りない食器や衣料品、その他諸々。帰宅してから、さっそく食器棚にお揃いの食器が3つ並べられているのを見て、なんだか和やかな気持ちになった。一人暮らしでは満たすことのできない心の隙間が、誰かといることで少しずつ、確実に埋められてゆく。それは同時に、過去の思い出を手放すことになるのだけれど、前に進むためには「忘れる」ことも必要なことなのかもしれない。

そう、前向きに考え始めていた矢先ーー過去は、そんな私の勝手を許してはくれなかった。





「あ」



ふいに窓の外に目をやると、プロペラをつけた黒い物体がこちらへ飛んでくるところを目撃し、私は思わず声を上げる。



「すごい!なにあれ、ドローン?」

「どうやらそのようだな。なんせ、ここはゴーストタウンだ。配達員も足を踏み入れたがらないのだろう」

「ふぅん......あ、止まった」

「......降りてみるか」

「ジェノスはいいよ。私が取ってくる」

「いや、もしかしたら危険物かもしれない。万が一のことも考え、ここはひとまず、俺も一緒に同行しよう」

「もう、心配性だなぁ」



ふたりで階段を降りていくと、アパートのすぐ真下に、その小さなダンボール箱は華麗なる着地を遂げていた。私がまっさきに手を伸ばそうとするも、ジェノスに制され、まずはじめに彼が、その包みの側面におそるおそる触れる。よく分からない緊張感からか、私たちは終始無言であったが、爆発物特有の、時計の針の音も聞こえなければ、特に怪しげな様子もない。そこで、ようやくジェノスが問題なしと判断すると、私はそっとダンボール箱を受け取った。思っていたよりも軽いことにも驚くが、それよりも、宛先に記された人物の名前に私は驚愕した。



「私の名前......」

「差出人は......ヒーロー協会?先生や俺になら分かるが、なぜ、なまえに?」

「えええ......私、何かやらかしたかなぁ」

「安心しろ。なにかあったら、俺が責任者に直訴してやる」



そんなジェノスの心強い台詞に背中を押され、私はおそるおそるダンボール箱の封を切った。念のため言っておくが、まったく身に覚えがない。ましてや、ヒーロー協会から直々の届けものである。サイタマやジェノスと出会うまで、ヒーローとは無縁の生活を送っていた私に、一体なんだというのだろう。簡易な包装はすぐに解け、中に入っていたものを確認した瞬間ーー思わず絶句した。まさかこんなものが入っていようとは、誰が想像できただろう。それっきり、身体を硬直させたままの私を不思議に思ったのであろうジェノスが、箱の中身をひょいと覗き込んできた。

箱には、外装をプチプチで包んだ一冊のアルバムが入っていた。それを目にした瞬間、ふつふつと、想念が気持ちの中に煮えるように沸き立った。しかし、突如発生した激情は、誰の目に映ることもなく、静かに私の中で沈下してゆく。私は何事もなかったかのように、ふぅ、とひとつ息を吐き出すと、同封されていたまっしろな封筒を手に取った。ヒーロー協会のエンブレムが刻印された真っ赤なシールを慎重にはがし、中身を取り出す。



「それは?」

「私の学生時代のアルバム」

「アルバム?ヒーロー協会がなぜ、そんなものを」

「私にも分からないけど、多分、これを読めば分かるんじゃないかな」



記されていた内容を要約するとこうだ。

協会の役割は様々で、ヒーローと怪人の闘いの後処理も任務のひとつなのだということ。そしてつい先日、もともと私の住んでいたアパートの瓦礫からこのアルバムが発見され、生徒一覧の名前を検索にかけた結果、唯一の生存者である私が該当したとのこと。持ち主の詮索などはきりがないため、大抵のものはそのまま処分してしまうことが多いそうだが、アルバムはその性質上、協会の善意で郵送させて頂いた、との有難い言葉がそこに記されてあった。きっと、生存者が私だけと判明し、同情してくれたのだろう。



「なるほど。たまには協会もいい仕事をするんだな」

「......」

「なまえ?」



そう、普通ならここは、大切な思い出の品が戻ってきたことを喜ぶところだ。しかし、私は素直に喜ぶことができなかった。私の持ち物であることは確かなのだが、実際にこの目で見るのは、もう何年ぶりか。なんせ、このアルバムはいつからか陽の光を浴びず、暗いクローゼットの中で長い年月、眠っていたのだから。

過去の産物からはなにも生まれない。ただただ虚しく、悲しいだけ。見ていて辛いだけのものを、誰が好き好んで視界に入れるというのか。生憎、私はこれを見て頑張ろうと思えるほど、たくましい人間じゃあない。どうせならアパートの瓦礫と共に、誰の目に留まることなく朽ち果てて欲しかったとさえ思う。そんな私を、かつて私のことを好きになってくれたあの"彼"はどう思うだろう。人一倍正義感の強かった彼のことだから、きっと軽蔑するに違いない。それならいっそ嫌われてしまった方が、はるかにマシだった。それももう、叶うはずもないが。



「こんなもの、いらない」



そして、思い知る。過去は捨て去ることも、目を背けることもできないのだ、と。ジェノスはなにも言わず、ただ私の頭にぽん、と手を乗せたっきり。なにも聞かずにいてくれたことが嬉しかった。



◇◆



それからというものの、ジェノスは彼女のアルバムの中身が気になって仕方がなかった。その表紙をめくった先に、自分の知らないなまえがいる。純粋に「見たい」という気持ちと、過去になまえと会ったことがあるような、そんな己の直感を確かめたくて。しかし、肝心の彼女がそれっきり触れようともせず、そのうえ地雷であることは明確なので、なかなか見せてくれとは言えないまま、ジェノスは悶々とした時間を過ごしている。

彼女は頑なに、過去に触れようとはしなかった。それは彼も同じなのだけれど。



「あれを見れば、なにか大切なことを思い出せる気がするんです」

「そうか。......けどな、ジェノス」

「はい」

「そういうことは、本人に言え」

「......」



そんな当たり前のことを言われ、もちろん自分では分かっていたのだけれど、誰かにこの想いを吐露したかった、というのが、実のところ本音である。



「んなこと言われてもよ、俺はなにもしてやれないぜ?つか、毎日聞かされている方の身にもなれ」

「しかし、俺にとって頼りになるのは、先生しかいないのです」



まさか、この歳にもなって恋愛相談を受けることとなろうとは。サイタマは内心ため息を吐いたものの、それが決して嫌だとか、煩わしいだとか、そういう風には思わなかった。むしろ、他人に無関心だったあの弟子が、今はこんなにも興味を示しているのだ。これは素直に喜ばしいことだと思う。ただ、彼は真面目すぎるが故に、変な方向に暴走してしまうのではないかと、そればかりが気掛かりである。もしジェノスが、淀みないこのまっすぐな瞳で、なまえにありのまますべてを伝えたとして、永遠と一方的に話し続けるのであろうことは目に見えていたし、優しいなまえのことだから、きっと拒絶なんてできない。そこでサイタマは、密かになまえの気持ちを探ってはいたのだが、ほのめかすものはあったものの、決定打となることはなかった。

それにしても、慣れないことはするもんじゃない。他人が頭で考えていることだとか、感情だとか、目に見えないものを見ようとすると、正直しんどい。ジェノスが押しかけてくる前まで、ずっとひとりでいることに慣れてしまった彼は、同時に孤独だった。それ故、他人への扱いに関しては、ひどく不器用だった。



「お前くらいのイケメンなら、適当に甘い台詞吐いときゃあ、どうにかなるだろ。多分」

「では、具体的になにをどうしたらいいのか、教えてください」

「ん?んん〜......とりあえず、思ったことを口にしてみろよ」

「思ったこと......なるほど」

「いや待て。お前、そんな様子だと、いつまでも永遠としゃべり続けるだろうから、20文字以内で頼む」



そう言うとジェノスは顎に手をあて、しばし首を傾げたあと、続ける。



「彼女をどうにかしたいという意味で好きです」

「はい、アウト」



どうしてですか、とでも言いたげな、きょとんとしたジェノスの表情には、恐ろしいほど裏がない。だからこそ、怖い。



「先生、これが恋なのでしょうか」

「あー......うん、なんだか言い方が卑猥な感じを醸し出してるけどな」

「?」

「ぶっちゃけ、どうにかしたいって......例えば?」

「それが、俺にもよく分からないのです。ただ、どうにかしたいのです」

「いやだから、そこが肝心なんじゃねーか!!!あるだろ!?こう......なんつーか、抱きしめたいとか!きっ......きす、したいとか!!」



キス、なんて言いなれない単語を口にするのも恥ずかしくて、恋愛相談を受けている側のサイタマがなぜか赤面してしまった。どちらにせよ、人工的な肌に覆われたジェノスの顔が、羞恥に染まることは決してないのだが。すると、ジェノスはぼそり「キス......」と呟き、またも考え込むのだった。あぁ、どうせまたどうでもいいことを長々と考えているんだろうな、こいつ、なんて思いながら、サイタマは目の前のマンガ本を手に取った。

いつもみたいにマンガを一冊開いてみたはものの、肝心の内容は意識の表面を上滑りして、読んだ端からどこかへ流れていく。さっきからちっとも進まないマンガを一度閉じて、壁に完全にもたれかかると、サイタマはただただぼーっと窓の向こうを眺めた。ジェノスが干していた洗濯物が風で生き物のように動いて、その影が真昼の白いベランダを切り取っている。なんてのどかなのだろう。弟子が変なことさえ言い出さなければ、こんなにも心乱れることはなかっただろうに。



「先生。キスというものは、ここではない他の国で挨拶代わりに交わされていると聞きます。しかし、唇にするというのは......やはり、相手に性的興奮を抱いているということになるのでしょうか」

「いちいちいかがわしいな。お前の言い方」

「すみません......ですから、なんというか......こう、貪ってしまいたいというか......衝動的というか......」

「? ますます意味わかんなくなってきてるぞ。なにが言いたいんだよ」

「......その、......したんです。キス」

「......は?」



誰と、なんて聞かなくても、相手なんて容易に想像できたが、サイタマが念のため質問を返すと、ジェノスは本当に小さな声で彼女の名前を呟いた。



「......なまえと」

「(うおおおおおまじかあああああ)」

「しかし、俺にはやらなければならないことがあります。他のことにうつつを抜かしている場合ではない......頭ではそう理解していても、身体がいうことを聞いてはくれませんでした。俺に残るわずかな生身の部分が熱を帯び、意志とは裏腹に、気づいたら彼女の身体を強く引き寄せ......」

「回りくどいのはいいから、結果を言え。結果を」

「はい。ですから......俺はなまえの唇に、口づけをしてしまったのです」

「そんで?」

「そして......」



この時、サイタマはてっきり良い意味での報告を受けるものだと思っていた。何故なら、ふたりの様子はなにも変わらず、特に違和感も感じられなかったからだ。もし拒絶でもされてしまっていたとすれば、ふたりの性格上、少なくともどちらかは、馬鹿正直に感情を露わにしてしまっていただろう。例えばジェノスだったら、落ち込んでしまったり、なまえの立場からしてみたら、申し訳なさそうだったり。それが一切感じられず、関係はむしろ良好かと思われたのだがーー



「泣いたのです」

「......なまえが、か」

「はい」

「そうか......うん。そうか......」

「だから、消したのです」

「......なにを」

「記憶を」

「まじか」



サイタマは始終、心の中で荒ぶっていたが、ジェノスに動揺を悟られぬよう、取り繕うのに必死だった。ていうか、なんだよ記憶消せるとか、初耳だぞ、なんて台詞を口にするのも忘れるほど。

あれから、ずっと考えていた。彼女が涙を流した理由を。もし、好きでもない輩からキスされた時の反応としては、頬にビンタを食らわすとか、身体を押し退けて抵抗するとか。サイボーグ化し、恋愛からは程遠い人生を歩んできたジェノスは、実写映画化されるような、無難な少女漫画に目を通してみたが、得られる知識としてはその程度だった。己の、そして彼女の気持ちを知るために、頬へのビンタをも覚悟してキスをした。その結果が涙。嫌な顔ひとつせず、彼の顔をじっと見据え、ただただ静かに涙を流す。その泣き顔があまりに美しくて、ジェノスは思わず見とれてしまった。自分ではもう流すことのできないその雫に、そっと触れてみたいと思った。



ーーそして、俺は唇に留まらず......



その時、ガチャリ、と玄関が開く音。



「! おいっ、ジェノス!一旦この話は終わりな」

「では、また俺の話を聞いてくださるのですか!?」

「おー、もうなに聞いても驚かなくなってきたし、どんとこい!」

「ありがとうございます......!先生!」



慌てて体制を整え、振り返ると、薄暗い玄関に立つなまえの姿が目に入った。一瞬、用意しておいた色々な言葉が浮かんで、結局、おかえりなさい、という一言だけがこぼれた。ほんの少し上擦ったような響きはあったけれど、きちんと声が出たことにジェノスはほっとした。



「ただいま!......どうしたの?ふたりとも、そんなに背筋伸ばしちゃって」

「そ、そうか?ジェノスなんて、いつもこうだぜ?俺もたまには......そう、正座をすることで、精神統一をな......」

「ふぅん......?そっか、頑張って」



サイタマのよくわからない言い訳をすんなりと受け入れ、なまえはジェノスの隣にちょこんと座る。やはりなまえはジェノスにキスされたことなど覚えていなくて、普段通りの振る舞いであった。

衝撃的な事実を聞かされ、サイタマはどんな顔をしたらいいのか分からず、当の本人らの顔をまともに見ることができなかった。そして、自分がしたわけでもないのに、なんとなく、なまえに対する罪悪感が募る。彼女の目を見れずにいると、必然的に他の部分に目がいってしまい、そこでサイタマはふと、なまえの首筋に小さな赤い跡があることに気づいた。



「なぁ、なまえ。首筋のそれ、虫刺されか?」

「え?うそ、ほんとに?」

「おぉ、鏡見てみろよ。蚊だな、そりゃあ。待ってろ。今、虫刺され用の薬持ってきてやるから」

「へぇ。風邪薬はないのに、虫刺され用の薬はあるんだ」

「前に、この辺一帯、大量の蚊が襲いかかってきたことがあったんだよ。あん時すげー刺されて、大変だったんだぜ。ほとんどジェノスが退治してくれたんだけどな」



ぽつりと赤いその跡は、果たして本当に虫刺されなのか否か。真相はジェノスのみぞ知る。跡がつけられた経緯は、彼の手によって忘却の彼方へと葬られた。

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