>16
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



なんてことだろう。尊敬すべき師に向かって、こんな感情を抱くとは。

羞恥に似た、だけどもっと固くてつよいなにかがせりあがってくるのを押さえ込もうとして、ジェノスはとっさに口を手で覆った。確かめるように2、3度長い呼吸を繰り返してから、ゆっくりと目をつむる。このままなにもかもやり過ごそうとしたけれど、だめだった。朝の日差しはまぶたの厚さなんか簡単に通り越して、目の底までを照らす。今までずっと見ないようにしてきたものが、血の色に透ける視界でひとつの像を結んでゆく。



ーー......そうか。



一度はっきりと自覚してしまうと、もうもとには戻れない気がして怖かった。同時に、波立っていた感情が嘘みたいに落ち着いて、穏やかな気持ちにもなる。



ーーそういうことだったんだ。



それからは、やけに納得してしまうくらいの真実となって、自分の中にすっと入り込んできた。自分は確かに嫉妬していた。サイタマとなまえ、それぞれに。

彼女が妬ましかった。弟子である自分を差し置いて、師のトレーニングに同行することができたのだから。同時に、その師が妬ましかった。ジェノスにとってサイタマという存在は、なによりも眩しくて、憧れで。そんな敵うはずもない絶対的存在と、肩を並べる愛おしい彼女。この時、ジェノスは初めて、なまえに向けている感情がただならぬものであることに気がついた。なまえといると、あたたかい気持ちになる。ないはずの心臓が脈打つ錯覚に陥る。彼女のことをもっと知りたい、誰にも取られたくないーー例えその相手がサイタマだったとしても。



ーーこれが、恋慕というものなのか?



なまえを背中に乗せ、帰り道を走っている間、ずっとそんなことを考えている。

アパートに到着し、ジェノスがようやく我に帰った頃には、なまえは背中でぐったりとしていた。移動している最中にも、彼女は何度かスピードをゆるめるよう声をかけていたのだが、考えごとをしている彼に外部からの情報は一切入っておらず、ようやく気づいた時にはすでに遅し。ジェノスはなまえを両腕で抱き抱え、極限揺らさないよう細心の注意を払いながら、部屋まで連れて帰った。



「酔った......」

「すまない。考えごとをしていたら、つい周りが見えなくなってしまった」

「考えごと......?なにか悩み事でもあるの?」

「......それは、」



言えるわけがない。本人を目の前にして、ありのままを口にできるほど、彼は自分に自信がない。

ふと、頭を過ぎる数年前の記憶。クセーノ博士に頼み込み、サイボーグとなって初めて迎えた朝の風景は、今もはっきりと覚えている。まっしろな壁に囲われた部屋で、染みひとつないまっしろな天井を眺めながら、彼は窓際のベッドに横たわっていた。すでに用意されていた朝食には一切手を触れず、まるで穢らわしいものを見るような目で、一瞬チラリとだけ見たきり、上半身だけ起こし、窓の外の風景を眺めていた。そうだ、この日も今日のような、すがすがしい朝だった。



ーーあの時は、絶望しかなかった。

ーー俺は、戦闘に特化したサイボーグになるのではなかったのか、と。

ーー摂食機能など意味がない。

ーー人間もどきの身体など、望んではいなかった......



あの時、もしもクセーノ博士がジェノスの意図通りにしていたとしたら、今こうして思い悩むこともなかっただろう。ただ無情に暴走サイボーグを追い求め、復讐の炎に身を焦がすーーきっと負の感情しか生み出せない、つまらない人生。それをつまらないと感じるのも、クセーノ博士がジェノスをロボットではなく、身体の一部を機械化した"人間"として手術を施した結果である。そして今日もジェノスは、サイタマやなまえという魅力的な存在に、こうも悩まされている。



「うお、ぐちゃぐちゃ」



少し遅れて帰宅したサイタマが、部屋の中を覗き込むなり、驚愕の声をあげる。



「珍しいな。お前が来てから、こんなに部屋が片付いてねぇのも」

「す、すみません......布団もたたまず、部屋を飛び出してきてしまって......」

「いや、俺ひとりで暮らしてた時に比べれば、たいしたことねぇけどな。別に責めてるわけじゃねーぞ。ただ、珍しいなと思っただけで」

「朝食は出来上がっておりますので......片付けてから、すぐに食事を」

「いいよ、俺が片付けておくから。味噌汁に火通しといて」

「......はい」



迂闊だった。朝、起きたら2人の姿が見当たらなくて、動揺して。まずは朝食をつくらなくては、と、日頃の習慣から咄嗟に思い立ったものの、その間に2人の行き先やらなにやらに考えを巡らせているうちに、布団をたたまなくてはならないことなど頭からぽろりと抜け落ちてしまった。ここのところ、そんなことが増えてきており、ジェノスは本気で悩み始めている。決して家事用ロボットとして弟子入りしたわけではないものの、こうも欠陥だらけだと、いつか破門されてしまうのではないかと内心怯えている。



「手伝うよ」

「! ......いや、なまえは横になっていてくれ。まだ体調が本調子じゃないのだろう」

「大丈夫だよ。そんなことより、ジェノスが悩んでそうだったから、そっちの方が心配」

「!」



ーー......心配?

ーーなまえが......俺を......?



サイボーグ化するにあたって、確実に劣ったであろう表情筋。彼らと出会う前までは、微笑すらしなかった。闘いに笑いなど不要ーー今でも、戦闘中に笑うことなどない。ただ、日常生活の中では、頬がゆるむ感覚を1度ならず、もう幾度も経験している。単独活動をしていた年月の方がはるかに長いというのに、たったここ数ヶ月での出来事が、ジェノスの人格そのものに大きな影響を与えていた。

なまえは、ジェノスが悩んでいるということに気づいてはいたが、決して深入りはしない。この絶妙な距離感がジェノスにとって程よく、そして有難かった。



ーーやはり、なまえは大人だ。

ーーそれに比べ、俺は......なんて未熟で幼稚なのだろう。



「!! ちょっ、ジェノス!鮭の塩焼き、レンチンしすぎて爆発してる!」

「!!?」



なまえが越して来てから、もうじき一週間が経過しようとしている。けれど、なぜだろう。もうずっと前から彼女に恋をしていて、そろそろ胸のうちを告白したくなってきたーーそんな心境。この時ジェノスは、自分がなまえのことを、すでにどうしようもなく好きになってしまっていることを、ようやく悟ったのだ。



「お前、表情よく動くようになったよな」

「? 感情表現に関して、機能を追加したわけではないのですが」

「そーなの?なんつーか......すげー悩んでるって伝わってくる」

「!!?」

「あ、ほら。やっぱり?サイタマもそう思うよね?」

「おう。もやもやしてるって顔だぞ」

「......」



ーー......もやもや、か。

ーーだとすれば、原因は昨夜のことに違いない。



そんな彼らの会話を聞きながら、ご飯茶碗の向こう側まで箸を伸ばし、鮭の切り身をほぐすと、口へと運ぶ。複雑な気持ちのまま食事をしていると、なんとなく味覚が鈍ってしまうようで、今朝の塩焼きは若干塩っけが強かったものの、ジェノスはたいして気にならなかった。サイタマとなまえは内心そう感じていたはものの、ごはんと一緒に食べてしまえばちょうどよい塩加減であったため、特に口を出そうともしなかった。そんなことよりも、それ以上に、ジェノスのつくる朝食はいつだって美味しかったのだ。



「俺、そんなにひどい顔してます?」



ジェノスの問いかけに、サイタマとなまえは一瞬顔を見合わせると、再び彼へと向き直り、こくりと頷く。



「ほら、やっぱり言っちゃいなよ。サイタマだって心配してるんだから」



なまえはそう言うが、サイタマの表情には若干にやりとした笑みが含まれているというか、多分、純粋に心配しているわけではなくて。本人すら気づいていないジェノスの本心を察していたため、内心反応を面白がっているようだった。そのほくそ笑みに、鈍感なジェノスとなまえはまったくもって気づいていない。

ジェノスは、もし自分が今の気持ちをありのまま打ち明けたとしたら、彼女はどんな反応をするのか、できるだけ丁寧に想像してみた。おそらくなまえのことだから、はじめは冗談でしょう、なんて言って笑い飛ばすのだろう。そこまでは容易に想像できた。けれど、それ以降のことはなにも分からない。果たして自分がどう切り返すのか、それすらも。



◇◆



ジェノスには、相手の脳から一定時間の記憶を消し去る「忘却」機能が備わっている。これは敵と闘っている最中、うっかり自分の弱点を知られてしまった時などに使われ、闘いをより優位にするためのものだ。しかし、彼は昨夜、禁忌を犯してしまう。戦闘中などのまっとうな目的ではなく、己の欲望のために、この機能を使ってしまっていた。無論、このことを覚えているのは、ジェノスただひとりだけ。なんせ、昨夜ジェノスと相見えた彼女ーーなまえこそが、その忘却機能の対象となった張本人なのだから。

遡ること、昨日の晩。びしょ濡れの状態で帰宅したなまえは、サイタマに促されるがままシャワー室へと向かう。あのサイタマの様子から察するに、恐らくジェノスはお説教を食らわされることになるのだろう。(もちろんジェノスだけの責任ではないので、お手柔らかに、とだけ伝えておいた。)なんにせよ、自分も浅はかだった。自分は彼よりも歳上なのだから、しっかりとジェノスの行動の意味を考えるべきだった。きっと、彼は寂しいのだ。そうだ、そうに違いない。



ーーそうでもなければ、あんな目で私を見るはずがない。

ーーまるで、捨てられた子犬のような、



考えにふけっている最中、ガチャリ、と扉の開く音に振り返ると、そこに立っていたのはジェノスだった。



「! ジェノス!?」

「......」

「あ、もしかしてサイタマに怒られちゃった?私は大丈夫だって言ったのに......謝らなくていいからね」

「......」

「......えっと......」



証明の具合と、目先にかぶさった前髪のせいで、彼がどんな顔をしているのかはよく分からなかったが、無言の沈黙に耐えきれず、なまえはできるだけいつもの調子で、普段の呼びかけをあれこれ続けた。そうやってうつむいて、一体どうしたの、サイタマに怒られたのが、よほどショックだったの?サイタマだって本気じゃないよ、多分。思い浮かんだ言葉を言うだけ言って、さっさと部屋から追い出そうとする。しかし、ジェノスが彼女の名前を呼んだ声の響きが、暗になにかを決意しているような気がして、とうとうなまえは作り笑いができなくなってしまった。

ふいに、完全に顔を上げたジェノスと正面から目が合う。その瞬間に、どうしてかよく分からないが、腹の底になにか熱いものが流れ込まれるのを感じた。



「なまえ」



同じ呼びかけがもう一度、動けないでいるなまえの首筋を撫で上げる。なるべくなんでもないように返事をしようとしたが、できなかった。口はぽかんと空いたまま、なんの音もでてこない。数秒、気まずい沈黙が流れて、そのあと意を決したような真剣な顔つきで、ジェノスは静かな声で続けた。なぜだか敬語で。



「俺は、今から......多少強引な行動を取ろうと思います」

「?」

「きっと、貴女は驚かれることでしょう。もしかしたら、俺を嫌うかもしれない......それでも、俺は確かめたいのです。この気持ちが、なんなのかを」

「ジェノ......」



ふっと、目の前が暗くなる。視界いっぱいにジェノスの顔が映り込み、脳が状況を把握するよりも先に、唇に柔らかな感触がーー

このやり取りから眠りに就くまでの間の記憶を、なまえは一切覚えていない。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -