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完全な闇の中にいた。わずかな光さえも差し込んでこない、分厚いその膜の内側で、すべての色は塗り潰され、息苦しさに喘ぐ。その場に立ち止まっていたら闇に侵食されてしまいそうな気がして、とりあえず歩いてみることにした。周囲の闇は、次第に濡れたような質量を伴いはじめ、まるでなまぬるい生き物の体液のように、肌の上をまとわりつく。すると身体の表面の感覚が曖昧になり、自分は今、目を開けているのか、閉じているのかさえもよく分からなくなった。

どれだけの長い年月、ずっと探し続けてきただろう。あれから夢を見るたびにこうして闇の中をさまよい、朝目覚めた時にはすべて忘れて去っている。このまま思い出せずに夢を見続けるのではないかという疑念が、足元から駆け上がってきた。それを振り切るように、どこまでも続く闇の中をひたすら走り続けて、そうすることで熱くなる胸や手足の感覚を確かめると、少しだけ不安が和らぐのだ。



「 」



たったひとことだけ、呟く。自分を待っているはずの相手の名を。半分飲まれかけている記憶から、それを探り当てて口にすることが、この夢から目覚めるたったひとつの条件であることを、自分は以前から知っていた。しかし、これまで何度も呼んできたはずのその響きは、喉のすぐそこまで出かかっているのに、舌がうまく動いてくれない。そのうち身体のあらゆる感覚が鈍くなってきて、次第に飲まれてゆくことへの漠然とした恐れを抱きつつも、必死にその人間の名前を思い起こそうとするのだがーー



◇◆



「くしゅんっ」



くしゃみと共に、目を覚ます。ゆっくりと重いまぶたを持ち上げると、まっさきにジェノスの寝顔が視界に飛び込んできた。斜めに差し込んでくる朝日が部屋の中を照らし出し、テーブルの上には、昨夜食べかけの鍋や食器、空になったビール缶が積み重なっている。ついいつものくせで、勢いよく上半身をがばりと起こすものの、今日が休日であったことをすぐに思い出し、ふぅ、と息を吐いた。

再び布団の中へと身体を埋めながら、私は昨夜の出来事に思いを馳せる。土砂降りの中、抱きしめられた時のあの感覚が今も忘れられない。



「一緒にいたい、か......」



口の中で確かめるように呟いてから、私はなんとはなしに目を上げて、すぐそこにあるジェノスの寝顔を見つめた。どうやらぐっすりと眠っているようで、寝息も立てず、ぴくりとも動かない。カーテンからこぼれる日の光を受けて、きれいなかたちをした鼻筋の影が、頬のあたりまでなめらかに落ちている。そのまま同じ姿勢を崩さずに熟睡しているものだから、本当に生きているのかさえ分からなくなってしまい、ほんの少し戸惑った。

そういえば、と、私は自分の状況を客観視してみることにする。昨夜、シャワーを浴びてから眠るまでの間の記憶が、まったくない。今、私の身体にかけられた布団は、恐らく誰かがかけてくれたものなのだろう。もしかしたら、知らぬ間に寝落ちしてしまったのかもしれない。頭がやけにズキズキと痛むのも、きっと必要以上にお酒を飲んでしまったせいだ。



「お、起きたか」



眠気をひきずる身体を起こしたところでそう声をかけられて、振り返ると、部屋のドア付近にサイタマの姿があった。上下ジャージ姿ということは、たった今トレーニングに向かうところなのだろう。



「おはよう。これからトレーニング?」

「まぁな。なまえはまだ寝てていいぞ」

「......ねぇ、ついてってもいい?」

「ついてくったって、別に面白いもんでもねーぞ?」

「うん。待って、あと5分で支度するから」



思いつきだった。ふと、ジェノスがサイタマの強さを大絶賛していたことを思い出したから、そんな彼のトレーニングは一体どれだけすごいのだろう、と、単純に興味が湧いた。サイタマは頭をぽりぽりと掻くと、いいよ、好きにしろよ。思っていたよりも簡単に承諾してくれた。

身体にかかっていた布団を、今度は、目覚める気配すらないジェノスの身体にかけてやる。眠っている彼はあまりに無防備で、普段から気張っている印象を受けていただけに、とても新鮮だった。それ故、ついまじまじと見てしまう。ジェノスの向けてくる視線には、なにか、こちらを息苦しくさせる力が宿っていて、私はそれに逆らえない。もし彼にお願いごとをされたとして、本当にいいのだろうか、なんて自問することも忘れて、つい頷いてしまうようなーーそんな危うさがあることを自覚していた。これは年下に対する、単なる母性本能なのだろうか?いや、きっと別の理由があるはず。それを思い出せない罪悪感からか、私は未だに彼の目を直視できずにいる。



「ジェノスが俺よりも起きるの遅いなんて、すげー珍しいんだよ。もしかしたらこれが初めてかもしれないな」



ちょうど5分後、私はサイタマから借りた赤色のジャージに身を包んでいた。手足丈をまくって長さを調整すれば、多少サイズが合わなくても問題ない。



「俺、なまえがシャワーから上がる前に寝ちまったんだけど、あのあとなにかあったのか?」

「えっと......うーん、それが実は思い出せなくて......」

「まじかよ」

「私もそれなりに飲んでたから、記憶が飛んじゃったのかも」



お互い、決してお酒に強いわけではないことが判明し、今後は控えめを心掛けようと教訓にした。飲んで寝たあとの現状としては、二日酔いのような症状が出ているわけでもないので、特に問題はないと思われるが、それにしたって、たった数時間前の出来事がこうもぽろりと欠落するものだろうか。あまりに不自然すぎる気もするが、ここ最近思い出せないことが多すぎて、やり場のない苛立ちが密かに募り始めている。



「さてと、俺はこれからジョギングしてくっけど、なまえはどうする?」

「ジョギングかぁ......何キロ?」

「10キロ」

「うへぇ、無理そう」

「ははっ、別にガチじゃねぇよ。軽くウォーミングアップ程度に......あ、なんならおぶってやろうか?」

「えええ、私、重いよ?」

「そんなんでもねぇって。それに、負荷あるほど、より高度なトレーニングにもなるしな」



ほれ、と背中を向けたサイタマが、私の間の前で屈み込む。私は暫し悩んだ挙げ句、その広い背中に身体を預けた。



「おっし、ちゃんと捕まってろよ」

「わわっ、お、重くない!?」

「ヨユーヨユー」



おんぶなんて、何年ぶりだろう。まさかこの歳にもなっておぶわれることがあろうとは。この感覚があまりに久方ぶりだったので、どこに手を回したらよいのかもわからず、とりあえずサイタマの頭に掴まったら、頭は触んなと怒られた。



「普通、肩とかだろ。掴むなら」

「ハッ!ご、ごめん......なんか、目の前にあったから......つい」

「つい、じゃねぇよ。んなとこ掴んだって、滑るだけだろーが......って、自分で言ってて悲しくなってきた」



私を背中に乗せたサイタマは、軽く地を蹴り、徐々にそのスピードを加速させてゆく。前髪をそよそよと揺らす程度だった逆風が、後ろ髪をも後方へと引っ張るほどの引力へと変わり、穏やかな朝の風景が、目にも止まらぬほどの速さで流れてゆくーー



「!!!!!!!???」



速い。速すぎる。息をつく間もなく、残像が生じるほどの高速で、周りの景色は私の遥かうしろへと置き去りにされていった。まるでジェットコースターに乗っているような、いや、もしかしたらそれ以上かもしれない速度で、土埃を撒き散らしながら、サイタマは住宅街を駆け巡る。もし彼がちゃんと支えてくれていなかったら、私はとっくに振り落とされていただろう。

気づいた時には、目の前に普段と違った風景が広がっていた。いつの間にここまでたどり着いたのか、その間の景色がまったく思い出せない。自分の足で走ったわけでもないのに、ゼエハアと息絶え絶えな私に向かって、サイタマは少しも息切れしていない声で、大丈夫か、と、顔だけをこちらに向けて言った。そのけろりとした表情を見て、私は思う。あぁ、なるほど。ジェノスの言うように、彼はただ者ではなかったのかもしれない。



「はー、走った走った。次はこのへんで腕立て伏せでもすっかな」

「ええっ、休憩しないの!?」

「いやだって、今のはただのウォーミングアップって言ったろ?」

「そ、そっか......うん、頑張って」



この辺りの土手周辺はきれいに整備されており、犬の散歩をしている老人や、部活動に向かう学生、(決してサイタマほどの速さではない)ジョギングをしている若者たちが見受けられた。なんて清々しい、のどかな朝の風景だろう。強すぎる風の抵抗を受け、ボサボサになってしまった髪を手ぐしで直しながら、私はサイタマの背中から飛び降りると、土手の端で行儀よく体操座りをした。その傍らで、サイタマは腕立て伏せから始め、独自のものと思われるトレーニングメニューをこなしてゆく。腕立て伏せの次はスクワット、それもものすごい速さで。



「(思っていたよりも、ごく一般的な鍛え方なんだなぁ)」

「なぁ、なまえ」

「?」

「昨夜さ、やっぱジェノスとなにかあったんじゃねーの」

「......」

「少なからず、コンビニの帰り道のことは覚えてそうだな。ま、聞かねーけど」

「聞かないんだ」

「俺がどうこう言える立場じゃねぇし。けど、中途半端なのはなまえも嫌だろ?」

「......うん」



できることなら、このモヤモヤとしたものをすっきりと解消させたい。それができたら、どんなに気持ちが楽になることか。ただ、それを結論づけるには、今のままでは不十分すぎる。もうすぐそこまで迫っている真実に、確信が持てる距離まで手が届きさえすれば、きっと今よりも状況はよくなるはずなのに。



「......先生!なまえ!」



呼ばれた声に振り返ると、土手の上方には、恐らく走ってきたのであろうジェノスの姿があった。サイタマは一旦スクワットをやめると、ジェノスに向かって手を振る。



「珍しいな、お前が寝坊なんて」

「はい。色々とありまして......そんなことより、何故ふたりが......」

「あ、それは、私がサイタマのトレーニングを見学したいってお願いしたの」

「......」

「ジェノス?」

「! ......すまない。起動したばかりで、まだ本調子ではないらしい」

「ふぅん......?」



起動、という言葉にやや違和感を感じたものの、この頃の生活の中にずっと横たわっていたすべての違和感と共に、今は触れないことにした。駆け寄ってきたジェノスの目の中に、覚悟のようなはっきりとした色が見え隠れしているのに気がついて、私は途端になにかを覚悟する。



「朝食の支度ができています。一旦帰りましょう」

「お、サンキュー。今日はなんだ?」

「わかめの味噌汁と鮭の塩焼きです」

「まじか。俺の好物じゃん」

「えぇ、冷めないうちに......そうそう、先生は今朝、特殊なトレーニングを実施していたようですが......」

「? 特殊?」

「なまえを背中に抱えていましたよね?」

「え、見てたの?」

「偶然です。偶然」



やけに偶然という言葉を強調してくるジェノス。すると、彼は私の方へと向き直り、はっきりとした口調でこう言った。



「というわけで、なまえ」

「ん?」

「帰り道は、俺のトレーニングに付き合ってくれ」

「ん......んんん?」

「嫌か?」

「えっと、その......別に、嫌とかではないけど、ジェノスもやっぱり......サイタマみたいに、ものすごく速かったりする?」

「まさか、俺なんかが先生のように速く走れるわけがない」

「そ、そうだよね!誰しもがあんなに速いわけが......」



それからはや1分後、私は自分の発言を撤回したくなるのだった。

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