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彼が、好物はオイルサーディンだと言った。オイルサーディンは私も好きで、しかも酒のつまみにうってつけだ。せっかく彼の好物が分かったところで、途中立ち寄ったコンビニでそれを購入。ジェノスは初め、コンビニの定価価格では恐れ多いと首を振っていたが、いざ買ってあげると表情には出さないものの、なんだか喜んでいるようにも見えた。
ちなみに、この時私はちゃっかり3人分のアイスも購入している。暑い日に冷たいアイスを食べるのもいいが、寒い日に温かい室内で食べるのもまた格別。つまり、何が言いたいのかというと、アイスは老若男女、季節問わず、いつ食べても美味しいということだ。例えば、しとしとと雨が降り注ぐ、こんな日の夜でも。
「......あれっ?」
「どうした。買い忘れか?」
「ない......傘置き場に差しておいた、私の傘がない......!」
「あぁ、あの黒い花柄の......どうやら先生からお借りした傘は無事のようだな」
ジェノスのビニール傘が無事なことに対し、どうせ盗むのならせめて安いビニール傘にしろよ、なんて内心思ったり思わなかったり。お気に入りの傘が盗まれたことへのショックを隠しきれず、私は暫しその場から動けずにいた。上空には分厚い灰色の雲が一面に広がっており、少し雨宿りしたくらいでは到底止みそうもない。恐らく夜通し降り注ぐであろう雨に、私ははぁ、とため息を吐いた。明日が休みで本当によかった。泥まみれの地面をパンプスで歩き回るのはごめんだ。
◇◆
30分前
なまえとジェノスが夜風に当たりに出掛けた際、机に突っ伏していたサイタマだったが、実はあの時眠ってなどいなかった。相手の心拍数、息づかいを瞳のセンサーで感知することのできるジェノスは、すでに気づいておきながら、敢えて口にはせず、なまえに先に出ているよう促した。師である彼が何を思い、そして何を考えているのかが知りたかった。
「先生。......起きてますよね」
「ふは、やっぱお前にはバレちまってたか」
「どうしてそんな、眠ったフリなど」
「あのさ。俺、これでも気ぃ使ったつもりなんだけど」
「!」
「お前、前に言ってただろ。自分の気持ちが分からないって。なら、確かめてみろよ。今がちょうどその時なんじゃねーの?」
「......」
「お前でも躊躇とかするのな」
「そりゃあ、俺だって......確かにこの身体はサイボーグですが、怖いものくらい誰にだってあるでしょう」
サイタマ先生にはそんなもの、ないかもしれませんが、と言いかけて言葉を飲み込む。今、この場で長々と話をしていたら、なまえを雨の中待たせてしまう。
サイタマは感情の起伏があまりない。それ故、極端に感情の変化があるわけでもなく、表情だけで汲み取れない部分も多々あるものの、だからといって他人の心境に無関心なわけではなかった。むしろ、他人であればあるほど客観的に物事を捉えられるのか、その洞察力には目を見張るものがある。そんな彼が、この頃のジェノスの変化は勿論のこと、特に雨の日になると、ジェノスが敏感に反応することにもなんとなく気が付いていた。
「怖いなんて、んな女々しくねーだろ、お前。正直になれよ。じゃないと、損するぜ?」
「......行ってきます」
「おぉ、いってこい。あんま遅くなるんじゃねーぞ」
ーー多分、俺なんかよりもサイタマ先生の方が、よほど俺のことを分かっていらっしゃる。
ーーそれはとても光栄なことだが......
とぼけているわけでも、ムキになっているわけでもなく、ジェノスは自身の気持ちに気づけずにいた。サイボーグになってからというものの、人として大切なものーーその中には相手を愛おしいと感じる心だとか、幸福感から滲み出る笑顔だとかーー様々なものを、過ぎ去りし過去と共に置き去りにしてきたが故に、ここ数年間感じることのなかった感情に戸惑いを隠せずにいた。まさか、この感情を特別ななにかと思うわけもなく、もしかしたら今までになかった新種のバグかもしれない、早急に博士に相談しなければと、ただそのことばかりを案じている。
「あ、そうだジェノス」
「? なんでしょう、先生」
「雨、降ってるからな。そこの傘使えよ」
「......ありがとうございます」
「おいおい、んな顔すんなって。ほんと雨嫌いだよなー」
「そんな顔、とは?」
「......自覚なしかよ」
ジェノスにはサイタマの言っている意味が理解できなかったが、すぐに思い知ることとなる。玄関を出て、ふと目にした窓ガラスに反射して映し出された己の顔はーーひどく強ばっていた。感覚がないので、いつ、どのタイミングでこんな表情になってしまったのか、自分には分からない。ただ、この顔でなまえと合流してしまっては駄目な気がする。
ジェノスは頬を両手で包み、気合いを入れ直すべく力いっぱい引っ叩く。これだけ強く叩いたのだ。普通赤く腫れてひりひりと痛むだろうけれど、神経の通っていない頬は当然痛くも痒くもない。
「不器用なやつめ」
そっと呟かれたサイタマのひとりごとは、誰の耳にも届かなかった。
◇◆
「入れ」
「......へ?」
「だから、中に入れと言っている」
傘を盗まれ、呆然と立ち尽くしているなまえに向かって、ジェノスはややぶっきらぼうにそう言った。この声音では勘違いされがちだが、彼は決して怒ったり苛立ったりなど等していない。
それじゃあお邪魔します、と、彼女が傘の中にひょいと小さな身体を潜り込ませてきた途端、ジェノスはこれまでに経験したことのない、人間でいう胸の高揚感のようなものを覚えた。伸ばせばすぐ手の届く距離に、肩が触れる位置になまえがいる。コアが締め付けられるような感覚、僅かに上昇する体温ーーこの異常の原因は一体何だというのだろう。ジェノスは考えに考え抜いた結果、風邪をひいたのだろうという結論へと至った。無論、サイボーグである彼が風邪をひくことなどありえない。彼も重々それを理解していたが、今はそれ以外にそれらしき理由が見つかりそうになかった。
「雨、すごいね。明日までには止むといいなぁ」
「そうだな。そうでないと、明日の洗濯物が乾かなくなってしまう」
「......ふふっ」
「? なにがおかしい?」
「ううん、そうじゃなくて......ジェノスって、本当にすごいよね。家事全般なんでもできちゃうんだ」
「すごいことなど......弟子として当然のことをしているまでだ。そうでもしないと、俺なんかがサイタマ先生のお側にいて許されるはずもない」
「そうなことないと思うよ。サイタマも結構、ジェノスとの生活を楽しんでいるみたいだし」
「先生が......楽しそう?」
「ていうか、ジェノスって料理あんなに得意なのに、好物は缶詰めなんだね。缶詰めなんて、料理ができなくても食べられるのに」
「......それは、」
◇◆
彼はサイタマと出会うまで、常日頃から料理をしていたわけではなかった。何故なら、彼に食事は必要ないから。クセーノ博士には、サイボーグ化するジェノスに人としての楽しみを残してあげたいという思いがあって、口から食べ物を摂取することができるものの、食べないからといって身体が飢えることはなかった。
「何故です!?博士!俺は強くなりたくて望んだことなのに…...こんな機能(モノ)、欲しくはない!!」
そう言って、反発したこともあった。博士は、この機能が復讐にまったくもって必要のないものだと、やけにあっさりと認めた。
「ジェノス。ワシはオヌシを本当の子どものように思っておる。だからこそ......人としての楽しみ、喜びまでも奪いたくはないのじゃよ」
「!」
「今のオヌシの心は、ひたすら復讐に燃えておるのだろう。じゃが、いつしか分かる時がくる。この世界は美しい」
「美しい......?俺はすべてを奪われたというのに?」
「確かに今のオヌシには、なにも残されていないのかもしれん。"今"は、な。それがこの先ずっと続くと思っておるのか?......そんなことはない。なぁ、ジェノス。オヌシには、幸せになる権利がある。きっとかけがえのない大切な者もできるじゃろう。その逆も然り、じゃ」
「ですが博士、俺には人を愛する心など......」
「今はそれでいい。将来、それを知るためにも、オヌシはどうか"人"であってくれ。いつか必ず、食べるという行為がオヌシの楽しみになってくれることを祈っておるぞ」
なんせ、ワシにとって食べることは生き甲斐のひとつでもあるのじゃからな。そう言って笑う博士に、当時の彼は腑に落ちないまま、はい、としか答えられなかった。抗えぬなにかに反発するように、ジェノスはそれから暫しの間、決して食べ物を口に含もうとはしなかった。人間だった頃の記憶が、食欲に似たものを感じさせる時もあったが、そのたびにひたすら怪人との闘いに明け暮れ、己の欲望を制した。エネルギー不足で身体が動かなくなった時には、電気から必要分だけを補充した。自分はサイボーグなのだから、と、自虐的になっていたのかもしれない。
そんなある日、彼がいつものように怪人を倒し、燃え尽きた街の中にひとり佇んでいた時ーーふと、足下に転がっていたいくつかの缶詰めに気づく。誰かが非常時用に準備していたのだろう。それも虚しく、恐らくその者は非常食を食べることなく死んでしまったのだろうが。なんとなく拾い上げてみると、久方ぶりに見る人間の食べ物に、無意識のうちにごくりと喉が鳴る。これもきっと、人間だった頃の記憶がそうさせている、一瞬の気の迷いのようなものーー頭では理解していても、衝動には耐えられなかった。
「......」
そして、ジェノスは缶詰めを開け、無我夢中でそれを食べた。味はあまり覚えていない。ただ、その中で1番印象に残っていたのがオイルサーディンだった。
ただ、それだけの話。
◇◆
「(特に思い入れはない......が、)」
「ジェノス?どうしたの、突然黙り込んじゃって」
「......いや、なんでもない。そんなことより、もう少しこっちに寄ったらどうだ?」
「でも、ジェノスが濡れちゃう」
「俺のことはいい。なまえが風邪をひいてしまっては、仕事にも影響してしまうだろう」
「それはジェノスも同じだよ」
「いや、俺は......」
そこでジェノスはなぜか言葉を思いとどまり、それ以降何も言わなかった。誰にだって言いたくないことのひとつやふたつはある。そう思ったなまえは、無理に聞き出そうとはせず、そのまま前方へと目を向けた。大粒の雨が降り注ぐ地面には、すでに点々といくつかの水たまりができており、うっかりしているとそのまま片足を突っ込んでしまいそうだ。
「そうだ。好きなものは分かったけれど、逆に嫌いなものはあるの?」
「特に好き嫌いはないが、食べ物に限定しないのなら......嫌いなものくらいあるさ」
「例えば?」
「そうだな......俺は雨が嫌いだ。このじめじめとまとわりつくような湿った空気も、どんよりとした灰色の雲も、これといってプラスの要素がない。......いや、それ以上に......理由なんていらない。ただ、俺の記憶がそう告げている」
「ジェノスは雨に関する嫌な思い出でもあるの?」
「あぁ、......恐らく。あまり覚えていないんだ」
「まぁ、嫌なことは忘れたくもなるよね。私もそうだし」
気づいたら、大きく傘からはみ出たジェノスの左肩はかなり濡れており、なまえは大慌てで傘を彼の方へと傾ける。
「あぁもう、ほら!やっぱり濡れてるじゃん!その......義手?みたいなのも、あまり水と触れない方がいいんじゃないの。なんか、サビそう」
「確かに、イオン化傾向が大きいか小さいかでサビやすさに違いが出るが、この腕に使われた金属はイオン化傾向を極限にまで引き下げられ、さらに、いかなる衝撃への耐久性に優れた新しい......」
「......」
「つまり、問題ない」
目を丸くして、ジェノスのことを見上げていたなまえのぽかんとした表情に気がついたのか、ジェノスははっと我に帰ると、短く結論だけを述べた。もっぱら文系脳の彼女では、先ほどの科学的な話は少々難易度が高すぎたが、ひとまず別状のないことを悟ると、ふぅ、とため息を吐く。そのすぐ隣で、ジェノスはほっとしたような、なにかが物足りないような、そんな複雑な表情を浮かべていた。
確かにこの腕はまがいもので、だけど義手だとか、そういうものでもなくて。ジェノスはかつての生身を捨て、自ら機械の腕を望んだ。義手とは、やむを得ず腕を切断することになってしまった者が苦渋の選択の末、使用しているものであって、本来ならば彼のように望んで使うような代物ではない。だからこそ、なまえがこの機械の腕を指差しながら「義手」と呼んだことに対して、なんならこのタイミングで自分がサイボーグであることを打ち明けるべきだった。たったそれだけのことなのに、ジェノスは話すことを躊躇ってしまった。今までこんなことは1度もなかった。初めてサイタマに会った時も、自分がサイボーグであることを包み隠さず告白できたというのに。