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濡れた肌(お風呂だから)、上気した頬(お風呂だから)、熱い吐息(お風呂だから)、潤んだ瞳(笑いすぎ)ーー彼女は目尻に溜まった涙を拭いながら、ジェノスに微笑みかけてこう言った。



「あはは、そんな変な顔しないで。さっきの目瞑ったジェノスの顔、つい可笑しくてたくさん笑っちゃった」



裸は見ていない。断じて、ない。ただ機械越しに触れた柔らかな感触が未だに忘れられず、ジェノスは邪心を振り払うかのように両手を何度もグーパーさせる。

師の言葉に従い、冷えピタを求めて数キロメートル先の薬局へと訪れたジェノス。猛ダッシュで駆けつけて息も切れ切れであることに加え、あまりに切羽詰った表情なものだから、周りからは不審者を見るような目で見られていた。この時ツィ〇ターでは『S級ヒーロージェノス物凄い形相で薬局に顕る』といった内容の情報が拡散されていたが、携帯を置いてきた今の彼がそれを知る由はない。



ーー......気持ちよかった。

ーーいや、これは決して変な意味ではなくて、ただ新鮮だったというだけで。



彼は4年前、暴走サイボーグによって故郷もろとも家族を亡くし、自身の身体の大部分をも失った。死にかけていたところ正義の科学者クセーノ博士に拾われ奇跡的に助かったジェノスは、敵である暴走サイボーグを倒すべくサイボーグへと生まれ変わる。暴走サイボーグを追いつつも悪と対峙する日々ーーそこで彼は己の力を過信し油断した末、怪人に敗れそうになったところをサイタマに救われたのである。そしてつい数ヶ月前、晴れてサイタマの弟子入りを果たしたジェノスだったがーーようやく修行に専念できると思っていた矢先、このざまである。



ーー何を考えているんだ俺は。

ーー今考えるべきことは、強くなること......それ以外は何の意味も持たない。



ジェノスは気を取り直し、目的のものを探すべく店内を見渡す。なんせ住んでいるのは強靭な肉体を持つサイタマに、サイボーグの身体を持つ自分だ。どちらも体調を崩すことなど滅多にない故、常備薬などない。ましてや冷えピタなど。

彼は15の時サイボーグとなり、それからというものの長いこと戦いに身を投じている。その時既にジェノスという名の人間は死んでいて、彼の中で歳月の流れは止まってしまった。つまりそれは、生涯の中で貴重な青春時代にあたる4年間を経験せずして19になってしまったということに他ならず、人生において大切な知識や概念が大きく欠落していた。皮肉なことに、それを教えられるほど経験豊富な大人が彼の周りには存在しない。



ーーもしかしたら俺は遠い昔、なまえと......

ーーいや、考えるのはよそう。過去のことはあまり思い出さないと決めたではないか。

ーーそんなことをしたとして、ただ虚しいだけだ。



彼女を想うと湧き上がる感情や思い出が溢れ出そうになり、ジェノスはハッと我に帰ると再びそれらに固く蓋をした。復讐を果たすまで、彼は頑なに思い出すことを諦め続けるのだろう。記憶の欠片は鎖のように連なり、1つ思い出しただけでそれに連なる記憶たちをも呼び起こしてしまう。仮に彼がなまえのことを思い出したとして、それに連なる記憶の数々が優しいものとは限らない。

自身でも気づいていないが、彼は無意識のうちに傷付くことを恐れていた。傷付きたくないが故に、過去という確かな真実から目を背け続けていた。それが彼にとってどんなに大切なものであろうと。



◇◆



ジェノスが帰って来たのは、家を出てから小1時間ほど経った頃だった。



「ただいま戻りました」

「おぉ、おかえりジェノス。意外と遅かったな」

「えぇ。探すのに少し手間取りまして」

「そっか。まぁ、早くあがれよ。なまえも待ちくたびれてんぞ」

「なまえが?まだ起きているのですか?」



廊下から恐る恐る部屋の中を覗き込むジェノスと目が合うなり、私は横になったまま片手を挙げてにこりと笑った。



「おかえり」

「......!まだ寝ていなかったのか......」

「うん。ジェノスを待ってた」

「明日、仕事があるんじゃなかったのか?」

「ま、まぁね。ここからだと職場まで私んちより近いし、朝の時間を短縮できると思えばたいしたことないよ」



ジェノスはゆっくり近づいてくると私の傍らでこぢんまりと正座し、ガサガサとビニール袋を漁る。中から出てきたのは冷えピタとアイス。不思議な組み合わせに思わず首を傾げるが、実は私、アイスは大好物である。



「確か好きだと言っていたな」

「え?私、ジェノスにそんなことまで話したっけ?」

「? 俺の勘違いだったか?」

「ううん、私、好きだよアイス。しかもこれ、乳成分たっぷりのアイスクリーム表記のやつ!」

「いやしかし、俺が聞き間違えることなど......一度聞いた話は脳にインプットされているはず......脳の機能に不具合でも生じたか......?」



話したことのない事実を彼が知っていたことにも驚いたが、大抵の人間は皆アイスが好きなのだろうという個人的な偏見もあり、たまたま好物でラッキーと思う程度でこの時は特に気に留めることもなかった。

上半身を起こそうとするも、私は重大なことに気づく。そうだ、今の私は素っ裸だった。最初から泊まっていく予定もなかったので、着替えを持ち合わせてなどいない。となると、あるのは私が着ていた仕事用のスーツくらいだがーー風呂上がりに着るのもどうなんだろう。



「あの、着替え。私の着ていた......」

「あぁ、それなら洗濯に」

「!?」

「安心しろ。スーツの洗濯表示通りに洗ったし、明日までには乾く」

「......私、アレしか着替えないんですけど......」



結局、私はサイタマから適当な服を借りることにした。が、彼の服のセンスは破滅的に悪かった。そういえば初めて目にした時、身に纏っていたヒーロースーツも確かにダサかったかもしれない。部屋干しされた赤い手袋を尻目に、私は助けられた瞬間のことを思い起こしていた。



◇◆



「それじゃあ、いってきます」



次の日の朝、私はおっさん顔のネズミのイラストが描かれたダサいTシャツを脱ぎ捨て、パリパリに乾いたブラウスの袖へと腕を通した。まるでクリーニングに出したてのような美しさのパンツスーツに身を包み、長い前髪を掻き上げる。本当はヘアセットにドライヤーを使いたいところであったが、この家に置いていないであろうことは既に想定済みだった。



「おぉ......なんか、改めて見るとデキる女って感じだなお前」

「サイタマもスーツ着てみたら?マフィアっぽくなれるかもよ」

「いやいや、なんでだよ。つか、スーツなんて就活辞めた途端にしまい込んだわ」



その傍らには、可愛らしいピンクのエプロンを身につけたジェノス。(......ツッコんだ方がいいのだろうか。)朝食は彼が作ってくれた。トーストにベーコンエッグ、プチトマトを添えて。ちなみにたまごの黄身の半熟加減は最高だった。



「......妻の見送りを受けながら出勤する夫って、こんな気持ちなのかな......」

「? なにか言ったか」

「ううん、なんでもない」



私の視線に気がついたのか不思議そうに尋ねるジェノスに向かって、私はぶんぶんと首を振る。まさか本人を目の前にそんなこと言えるはずがない。



「なまえ」

「うん?」

「その......また来るといい。あの場所で独り暮らしも大変だろう」

「......!!あ、ありがとう......」



独り暮らしを始め、誰もいないひとりの空間にも慣れてきた。ようやく寂しさが薄れつつあったというのに、こうして誰かと一緒にいると思い出してしまう。あぁ、私は寂しかったのだと。そういえばこうして誰かとゆっくり朝食をとることも久方ぶりだった。一分一秒を競い、会社へと向かう忙しない日々ーーそれが嫌なわけではないが、むしろ自分が望んでいた生活だったが、たまにはこんな風に優雅で優しい時間があったっていいじゃないか。まるで、"あの頃"のように。

強くなりたかった。いつまでも過去を引きずるような弱い女にはなりたくなかった。しかし、あまりに悲惨な状況を一度経験してしまうと、それ以降の生活の中で起こる様々なことがなんてことないと感じるようになった。時に相談事を聞くこともあったが、同世代の悩み事など私からしてみたら些細なことばかり。特に多かったのは恋愛沙汰だった。誰に振られたとか、取られたとかーーあぁ、なんてくだらない。別にいいでしょ、生きてりゃどうにでもなる。我ながら極論だ。



これが、私のどこか冷めている所以。



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