>02
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



どんなに後先見えない不安に苛まれても、それでも眠気はやってくる。ふぁ、と小さく欠伸をしたのをシズちゃんは見逃さなかった。彼は敷き布団の上で胡座をかくと、ちょいちょいと此方に向かって手招きする。私が寄るなり腕をぐいと引き、そのまま布団の中へと引き込まれてしまった。腰に両腕が回され、抱き枕を抱くように全身を包み込まれる。密着した身体からは彼の鼓動を感じ、一定のリズムでとくんとくんと脈打つ心臓の音が安心感を齎す。



「……狭いよシズちゃん」

「いいじゃんか、たまには敷布団1枚でも。朝片付けるのも面倒臭ぇし、まだそんな暑い時期でもねぇだろ」

「変なことしたら蹴っ飛ばすからね」

「んなこと言われたら余計に試したくなるもんだよなぁ?みさきの蹴りで俺に勝てんのかよ」



そんな自信に満ち溢れたような台詞をさらりと口にできるのも、彼が池袋最強と称されるまでの力を持っているが故。きっと私に限らず誰一人としてシズちゃんに敵う輩など存在しないのだろう。少なくとも私は今までにそれらしき人物を見たことがない。テレビの向こう側で死闘を繰り広げる強靱な肉体のプロレスラーたちでさえ、シズちゃんレベルの力に見慣れてしまえば子犬の戯れ合いにすら等しいほどだ。しかしそう言われてしまうとつい反発してしまうところが私の悪い癖で、「じゃあ試してみる?」なんてことを返してしまった直後、すぐにやばいと察して口を閉じた。試したところで瞬殺であることは確実である。



「ほぉ?いい度胸してんじゃねーか。なら、試すか」

「うっ、嘘です嘘ですごめんなさい……!って、言ってる側から服捲し上げないでぇ!」



するりと彼の大きな手のひらが私の肌を撫でる。その瞬間、大袈裟なまでにびくりと反応を示す私の身体。それを見てシズちゃんはいかにも楽しげな表情を浮かべ、にやにやと口元を歪ませる。しかし、ここで好き勝手されるだけの私ではない。彼のいる方とは逆方向へと身体を捻り、そのまま転がって逃げてしまおうと企てたのだが、なかなかそう上手くいくものでもない。なんせ彼は人並み以上の腕力なのだから。



「わーったよ。冗談、冗談だって。だから逃げんな」

「うう……シズちゃんのその言葉は信用できない……」

「変なことはしねぇから、キスしようぜ」

「……」

「これも変なことなのか?」

「へ、変ではない……けど……」



私はいつになったら恋人らしいことを恥ずかしげもなくできるようになるのだろう、なんてことを考えつつ、私はおずおずと彼の顔を見上げた。どちらからという訳もなく自然と互いの距離が縮まり、触れるだけのキス。一旦離れ、今度は角度を変えてより深く。彼の舌が私の閉じた唇をなぞり上げノックしたのを機に、僅かな隙間からぬるりと熱いものが口内へと侵入してくるのが分かった。酸欠になりそうな長い長い口づけの間、いつもなら必死に耐える為に掴む彼のシャツの裾が今は掴めない。ギュッと手の指に力を込めても包帯の厚みを感じるだけ。それがなんだか心細くて、抵抗している訳ではないけれど、縋るように包帯でぐるぐる巻きの両手を彼の胸板へと押し付けた。そして私は実感するのだ。両手がなければただ生活が不自由なだけでなく、相手の肌の温もりを手のひらで感じることが出来ないのだと。

唇が離れ、沈黙が流れる。異変を察したシズちゃんが私の顔を覗き込みながら「どうした」と問う。心配されるようなことなど何もなかったし、今沸き上がるこの感情をどう説明したらよいのかも分からなかった。ただ、ほんの少し切なくなっただけ。それを振り切るかのように私は彼の胸元へと顔を埋めると、返事の代わりに小さく首を振った。



「みさきって、時々訳分かんねぇよな」

「そうかな……割と単純なんだけどな」

「なんつーか、ふわふわしてるっつーか……手を伸ばした途端にすり抜けてく感じ」

「あは、なにそれ幽霊?」

「かもな。それだけ不確かだってことだ」

「シズちゃんもたまに変なこと言うよね。なんか、どこかの心理学者並みによく分からないこと言ってる」

「なんだよ、それ。お互い様だろ」



次第に言葉の端々に笑みが溢れ、和やかな雰囲気に包まれる。彼とのこうした何気ないやり取り、他の人とは得られない居心地の良さーーまさに今この瞬間が私にとって掛け替えのない幸福のひとときなのだと改めて思う。理不尽だと思うことも多々あったはものの、終わり良ければすべて良しとはよく言ったもので。幸福感に包まれ眠りを迎えた私の頭は、全て丸く納まったと錯覚したまま『今日』という日を終え、『明日』を迎える頃には切ない気持ちなど何処かへ吹き飛んでしまっていた。感情というものは跡形もなく消え失せてしまうことはなく、ただ他に紛れて隠れてしまっているだけ。ふとした瞬間、些細なきっかけで再び顔を出すものだということを忘却の彼方へ置き去りにして。

私たちは平和な2日目を迎える。



♂♀



2日目 朝


朝起きたら太陽はもはや頂にまで達していた。締め切ったカーテンからは溢れんばかりの陽の光が溢れ出ている。これは完全に寝坊である。ここ数日間に渡り張り詰めていた緊張の糸が解け、恐らくは油断してしまっていたのだろう。基本的に朝型である普段の私からは想像もつかない大きな失態ーーそれを挽回すべく、部屋の明るさなんて問題とせずにぐうぐうと眠るシズちゃんの頬をぺちぺちと叩いた。それでも起きる気配は一向にない。



「シズちゃん!もうとっくに朝だよ、朝!そろそろ起きないと遅刻するよ!!」

「ん…、……」



駄目だ。彼は朝に弱い。いかにも重たそうな瞼はぴくりとも微動だにせず、そもそも起きようとする気すらないのかもしれない。そこで私は強行手段としてまず掛け布団を無理矢理剥ぎ取り、耳元で大きく怒鳴り散らした。ここで目覚まし時計を使わないことにはちゃんとした理由(ワケ)がある。寝惚けたシズちゃんが無意識に時計を叩き壊してしまうからだ。これまでに跡形もなく粉砕された目覚まし時計は数知れず。これ以上時計の被害数を増やす訳にはいかない。



「シーズーちゃーーん!!!」

「……んだよ、朝から随分と元気だなみさきは」

「そういう問題じゃないんだって!シズちゃんこそ、いつまで寝ているつもり!?トムさんに迷惑掛けていいの!?」



より強調させた『トムさん』という単語が最も重要なキーワード。仕事の上司に対して忠実な彼は、この言葉に非常に敏感であった。いつもなら目をカッと見開き、寝床から飛び起きるところだがーーシズちゃんはちらりとだけ私を見て、ふわあ、と欠伸を1つすると、再びその瞼を閉じてしまった。まさかの作戦失敗である。



「ちょっ、また寝ないでー!」

「あーもう、揺らすな騒ぐな。今日は仕事休みなんだよ」

「……へっ?」

「言ってなかったっけか?この間休日出勤したから、今日は代休……」

「きっ、聞いてない!!」



それを聞いた途端一気に肩の力が抜けた私は、そのまま力無くシズちゃんの身体へと凭れ掛かる。朝からとんだ無駄な体力の浪費だ。



「そういうの、もっと早く言ってくれないかな……朝から騒ぎ立ててた自分が馬鹿みたいじゃん……」

「そんだけ体力が有り余ってるってことだろ。ちょっとは動いて疲れたらどうだ?なんなら手伝ってやってもいいぜ」

「何?腹筋する時に足でも抑えててくれるの?」

「そりゃあ、恋人同士で運動つったらセッ……」

「シズちゃんに聞いた私が本当に馬鹿だった」



彼の提案を一蹴し、そのまますぅ、と目を閉じる。実のところまだ眠い。安堵と共にふわふわとした不思議な感覚に脳が支配され、まるで夢を見ているような気分に入り浸る。だからかもしれない。意地っ張りな私がこんなことを口にするなんて。



「……それじゃあ、さ。今日はずっと家にいるんだ」

「そうだな、この際引きこもるか。別に外に用はねぇし、たまにはこういう日も悪くない」

「……えへへ」

「? なに笑ってんだよ」

「だって、嬉しくて。ずっと1人で留守番してるのもつまんないもん。でも、今日だけは1日中ずっと一緒にいられるんだよね。同じ時間を共有できるんだよね……?」



思い返せば、私たちが朝から夜まで1日を共に過ごしたことなんてそうない。そもそもシズちゃんは社会人で、休日以外はほぼ仕事先だ。借金の取り立てというスケジュール管理の困難な仕事だということもあり、日によっては普段よりも帰宅時間が大幅にズレてしまうなんてよくある話。だからこそ今日のような日はかなり貴重な訳で、それが素直に嬉しくて。思わずにへらと綻ぶ口元を隠すことなく、私は思ったことをありのまま口にしていた。他人事のようだが、それだけ嬉しかったということなのだろう。それを聞いたシズちゃんは暫し目をぱちくりとさせていたが、やがてハッと我に帰ると口籠ったように「そうだな」と呟いた。ほんのりと頬を赤く染め、その表情はまるで純朴な少年のよう。意地の悪いことを言っていたつい先程までの彼から程遠く、とても同一人物とは思えない。

本当はもっとずっと一緒にいて欲しい。だけどそれは私の我儘であり、理想と現実はあまりにも大きくかけ離れていた。何も考えず、ただ本能のままに生きられたらなんて楽な人生だろう。誰しもがそれを切望し、しかし誰一人としてそれを実行できた者などいない。それだけの大きなリスクを伴うからだ。だからこそ「何よりも自分を選んで欲しい」なんて身勝手な願いを口にすることなど決して許されない。



「みさきには寂しい思いさせちまったよな……かといって、俺が仕事をサボる訳にもいかねぇし」

「! わ、分かってるよ!……ごめん、今言ったこと忘れて。普段の仕事も生活のためなのに、私が我儘ばかり言ってちゃ駄目だよね……」

「あー……、そのことなんだが」



この際話しとくか、と改まって面と向かう。何処と無く言いづらそうな雰囲気を醸し出しており、何を言われるのかと内心ひやひやしてしまう。しかし、まず切り出された最初の第一声が「みさきは大きな誤解をしている」なんてものだから、初めは何を言われているのかよく分からなかった。果たしてこれは会話が成立しているのだろうか。



「……誤解?」

「俺が生活の為に仕事してる、って話。もっと言うと、みさきを養う為にってヤツ?こんなこと言うと真っ当な理由じゃないって思われちまうかもしれねぇけどさ。これは何よりも自分自身の為なんだ」

「? ……あ、あぁーうん。そうだよね。誰だってまず自分の生活の為に頑張るものだよね!ごめん、別に私の為に働いてるんだって自惚れてた訳じゃ……」

「そうじゃなくて。そもそも生活の為にって時点で根本的に違うんだよな」

「……ええと、シズちゃんが言ってることがよく分からないや」



シズちゃんはやや間を置いてから身体をむくりと起こす。その拍子に凭れ掛かっていた私の身体がグラつくものの、彼はそれを優しく受け止めてくれた。そのまま肩を掴まれ、互いに正面から向かい合わせの状態になる。心なしか肩を掴む手に徐々に力が込められていくのが分かった。



「多分、俺は誰よりも身勝手なヤツなんだと思う。俺はみさきを誰の目にも触れされたくなくて、ならいっそ閉じ込めてしまいたくて……お前が外に出る必要性を完全に断ち切りたいとすら思ってる」

「……」

「いきなりこんなこと言われて、引かれるかもしれねぇが……結局は俺も自分が一番可愛いんだよな。みさきを守りたいだとか、そんなに立派なもんじゃない。理由なんて本当はもっと単純で、なんつーか……こう、どろどろしてるんだよ。いっそ、足の自由さえ奪っちまいたくなる」



ぎりぎり、肩の骨が軋む音。このまま掴まれた肩が砕けてしまうのではないかという程の握力に、ほんの少し不安が過る。だが決して恐怖というものは感じられず、目の前の男を軽蔑することもない。彼の発する言葉1つひとつは、取り繕った理由付けなんかよりもずっと人間らしい。



「これでもう分かっただろ。下手したら監禁だよな、これ」



そう言うとシズちゃんはふっと手の力を抜き、私の肩は折れることなく無事に解放された。何と言ったら良いのか分からず、私は「ええと」だの「その」だの意味のない言葉を繰り返していたが、



「え、っと……その、私はもうどこにも行かないよ……?」

「……あぁ、悪ぃ。別にみさきを信用してねぇ訳じゃなくて、ただ俺が極端に心配性なだけだ」

「シズちゃんがそう思うのも無理ないよ。私にだってその責任はあるし……」



そう思い当たる節はいくつもあった。いても経ってもいられず無茶をしたこともたくさんある。結果的に良くも悪くも、不思議と後悔の念はない。ただ、彼も彼なりに色々と思うところがあったのではないかと今更ながらに思い知らされる。それでも今となっては全てが結果論でしかなくて、「どうすればいい」「ああすれば良かった」とは考えないようにしようと心に決めた。

何処か雰囲気が重々しくなってきたことを察し、私は身体ごと体当たりするようにシズちゃんの方へと倒れ込んだ。突然の出来事に驚いた彼は、思いの他いとも簡単に天井を仰ぐこととなる。



「お前なぁ、俺は結構真剣に……」

「いいの。もう、伝わったから」

「あんなのでかよ。……くそッ、俺の語彙力じゃあ上手く言い表せねぇ」

「要するにシズちゃんは私を信用できなくて、だからこんなにも用心深いのね。まったく、酷いなぁ。恋人のことを信じられないなんて!」

「恋人……、か」

「ん?私も自分で言ってて違和感感じた。そもそも私たち、恋人同士なのかな。なんか、変な感じ」

「あー……それ、俺も家帰る途中に何処ぞのカップル見て思ったんだよなぁ。なんか、俺たちにはピンと来ねぇ」

「いっそ恋人通り越して運命共同体なんてどう?」

「……はは。いいな、それ」



運命共同体。それは運命を共に歩む同士であることを指す。しかしこの言葉は『一蓮托生』と紙一重であって、そう生温い意味合いではない。死ぬも生きるも行動や運命を共にするーーそんな意味。果たして私たちの歩む先には一体何があるのだろう。少なくとも平坦な道のりではないんだろうなと思う。

恋人以上、夫婦未満。これ即ち、運命共同体。

「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -