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遡ること3日前ーー今思えば、無知であるが故に平和な日々であった。

両手が使えないというのは実に不便である。物を掴むことが出来なければ何も持てないし、普段生活している上で何気無くこなしていること1つひとつが当たり前のように出来なくなる。両手を包帯でぐるぐる巻きにされて早30分、私は早くも第1の難解に差し掛かっていた。果たして私はこの立ち塞がる壁を無事に乗り越えることが出来るのだろうか。無論、シズちゃんの手は借りず。しかしその壁は見上げても果てが見えず、その高さに首が痛くなるほどである。



「ほら、手ぇ挙げろって」

「はい」

「違ぇよ、もっと高く。そんなんじゃ服脱がせられねぇだろーが」



授業中に学生が自信なく手を挙げる時の、あの頼りない挙手を想像して欲しい。あのくらい低く小さく片手をひょいと挙げると、シズちゃんに容赦なくツッコまれてしまった。そんなことは分かっている。分かっているからボケるのだ。そんなボケとツッコミを永遠と繰り返しているが、どちらも折れようとはしない。「身体洗ってやるからとりあえず脱げ」と言うシズちゃんに対し、何としてもそれだけは避けたい私の戦いはまだまだ続く。



「いやほら、包帯が濡れちゃうから。今日そんなに汗かいてないし……」

「嘘付け。すげぇ汗ダラダラだぞ」

「これは冷や汗です!ていうか、本当に何でもするつもりだったんだ!?」

「あ?当たり前だろ。それに、お前逆上せやすいくせに風呂入るの好きじゃねぇか」



まさかこんな若いうちに人からの介護を受けることになろうとは思いも寄らなかった。五体満足の状態で産んでくれた両親に改めて感謝しつつ、何かしらの障害を抱えながらそれでも日々の生活をこなす障がい者の方々に盛大なる敬意を送りたい。両手が使えないと言われてもいまいちピンと来ないかもしれないが、本当に本当に不便である。

まず、帰って来て早々靴が脱げなかった。片足で空を蹴り上げ、ぽーんと行儀悪く片靴を勢いよく放り投げたら、シズちゃんに「危ない」と怒られた。それからすぐさまその場に屈み、もう片方の靴を脱がせてくれた。まるで童話のお姫様がガラスの靴を履かせてもらっているワンシーンを連想してしまうあたり、私の脳は自分が思っていた以上にメルヘンチックな造りのようだ。たったそれだけのことが妙に小恥ずかしく、私は素っ気なく「ありがとう」とだけ言い残し、スタスタとリビングのソファへと直行した。そのままぼすんと顔からダイブし、暫し顔の熱が下がるのを待つ。その横でプルルルルと着信音が鳴り響き、シズちゃんが携帯で誰かに電話をかけているようであったが、肝心の相手は不明である。



ーーどうしよう……こんなことで緊張するなんて、先が思いやられる。

ーー確かに両腕は痛むけど、痛みなんて少し経てばそのうち引くだろうし……



悶々とする中、突然シズちゃんに携帯電話を押し付けられ、画面に『新羅』と表示されているのを確認してから電話に応じる。それから大して言葉も交わさないうちに私は新羅さんとの会話を終了させられ、その後両腕を見事に手厚く手当てしてもらった。ぐるぐると包帯を巻きながら、彼は「巻くのだけは任せろ」とやけに自信満々だった。なんでも、高校時代に嫌という程新羅さんに怪我を診てもらっていた為、簡単な手当てなら見慣れていると言う。その割には随分と巻き過ぎな気もするが、彼の包帯を巻く手は一向に止まる気配を見せない。そしてようやく長い長い治療を終え、極め付けに「俺が全部世話してやる」とか言うものだから、私の頭痛は治まらない。

恥ずかしいからという理由もあるが、それだけではない。恐らく今の私の身体には臨也さんの残した痕が残っている。上書きされたと言うのが正しいが、彼に身体を許してしまったことに変わりはない。どうしたって拭いきれない罪悪感が私の心を貪る。胸元でギュッと服を掴み俯く私に、シズちゃんは不思議そうに首を傾げた。



「何も今更恥ずかしがることもねぇだろ。裸の付き合いなんだからよぉ」

「シズちゃんがそれ言うとなんだかやらしく聞こえる……ていうか、普通裸の付き合いっていうのは、何でも気兼ねなく言い合える男の人同士のことを言うんじゃないのかな……」

「? そうなのか……って、なに誤魔化してんだよ。いいから怪我人は黙って言うこと聞けっての」

「ちょ……ッ!だからって無理矢理脱がせようとしない!!」



激しさを増した攻防戦の末、粘りある防御の甲斐あって、今回は私が勝利を収めた。というより、シズちゃんが仕方なしに諦めてくれた。ひとまず今日のところは。正直、湯船には浸かりたい。身体を綺麗に洗いたい。様々な葛藤を経て、それでも私は羞恥心を捨て切れずにいた。一緒にお風呂だなんて恋人同士なら普通ではないか。そんなことよりももっと恥ずかしいことを体験してきたにも関わらず、それらの経験1つひとつが何処か他人事のように思えてならない。更には他の男の人に触られてしまったという事実が上乗せされ、羞恥と罪悪感が入り混じった何とも言えない感情に押し潰されそうになった。

私はシズちゃんと共に歩んでいくことを心に決めた。その気持ちが揺らぐことはもうない。しかし、その為の心構えが出来ていないのも事実でーー自分の信念を貫き通すには、多少の図太さも必要なのかもしれないとつくづく思う。



「それじゃあ、俺入ってくるわ」



そう言ってバスタオル片手に浴室へと向かう彼の背中を見送ると、私は肺の中の空気全てを吐き出すかのような盛大な溜め息を吐いた。これからの生活にもはや不安しか感じられない。お風呂で洗ってもらうことからは何とか回避したものの、他にやらなくてはならないことがまだまだたくさんある。寝る前の着替え、歯磨き、寝床の支度、明日の為の準備その他諸々。これらを両手なしにどうこなせばいいものか。とりあえず着替えだけはシズちゃんがシャワーを浴びている間に何としてでも済ませたいと考えた私は、着ていた服を形振り構わず脱ぎ取る作業へと取り掛かった。これが想像を絶するかなりの重労働で、その様は色気も何もない。人は必死になればなる程、見た目など気にしてはいられなくなるものだ。こうして私は通常の倍以上の時間を費やし、無事着替えを終えたのだった。シャツを脱ぐ時あまりにも無理があった為、首元の繊維が若干裂けた(ような音がした)り、全体的に縒れてしまった気もするのだが、この際放っておくことにする。

そうこうしているうちに暑がりなシズちゃんは早々と風呂から上がり、まるで茹でたての饅頭のように身体中からほかほかと湯気を立てながら、腰にタオル1枚巻き付けただけの無防備な姿で帰ってきた。右手に何故か私専用の歯ブラシを握り締めて。



「おかえり……それで、なにその歯ブラシ」

「みさきの歯ブラシに決まってんだろ。お前さっきから妙に質問多過ぎやしねぇか」

「分かるよ!それが歯ブラシだってことくらい!私が聞いてるのは、どうしてシズちゃんが私の歯ブラシを持っているのかってこと!!」

「あぁ、磨いてやろうかなって」

「……」

「昔、親に口煩く言われなかったか?寝る前にちゃんと磨かないと虫歯になるって」



そこでふと脳裏に浮かんだのは、まだ幼かった頃の懐かしき思い出。仰向けになってあんぐりと口を大きく開き、仕上げの歯磨きを母親にしてもらっていたっけ。しかしそれはあくまで子どもの頃の話。それを今、彼にやってもらうとなると訳が違う。全力で首をぶんぶんと振る私の片頬を摘み上げ「遠慮するなって」と言いながら、容赦無く歯ブラシを突っ込もうとしてくるシズちゃん。頑なに口を閉じていてもぐいぐいと歯ブラシでこじ開けようとしてくるものだから、諦めた私はとうとう口内への侵入を許してしまった。

僅かな隙間から歯ブラシを滑り込ませ、時折下から口の中を覗き込みつつ奥歯から順に磨いてゆく。ほぼ強制的に始まった歯磨きであったが、始まりが強引だったことに対し、その手付きは意外にも優しい。くすぐったいようなむず痒いような、だが決して嫌な感じはしない。



「そういや新しい歯磨き粉買ったんだっけな……いちごとメロン、どっちがいい?みさきが選んでいいぞ」

「……」



別に歯磨き粉を食べる訳ではないので、正直どちらでもいい。しかし口に歯ブラシを突っ込まれたままの状態であったが故にまともに喋ることが出来ず、とりあえずの反応としては口に咥えた歯ブラシをもがもがと上下に揺らしてみせた。それにしても、歯磨き粉のフレーバーのセレクトが何ともシズちゃんらしい。取り出された2つの歯磨き粉には可愛らしいイラストと「いちご」「めろん」其々ピンクと緑色で平仮名表記されており、明らかに子ども向けである。個人的に人工的な果物の味付けはあまり好きではないので、ここは無難にミントを選びたいところだが、そもそもの選択肢に含まれてなどいない。結局歯磨き粉はシズちゃんの独断でいちご味が先に封を開けられることとなり、一旦引き抜かれた歯ブラシが再び突っ込まれた瞬間、あの人工的ないちご味特有の香りがすぅ、と鼻を突き抜けていった。

再びシズちゃんは真剣な面持ちで私の口の中を覗き込み、シャカシャカと歯が磨かれてゆく音だけがテンポ良く辺りに響き渡る。こうも真面目な表情で(口の中を)見つめられる側としては、妙に意識せずにはいられない。何処を見ていたらいいのかすら分からず視線を泳がせていると、それに気付いたシズちゃんがフッと小さく笑ったような気がした。



「これでも歳下の弟を持つ兄貴だからな、たまにこうやって仕上げの歯磨きしてやったんだよ」

「ふぇ、ほーはっはんは(へぇ、そうだったんだ)」

「もう随分と前の話だけど、結構慣れてるだろ?」



口の中は泡立った歯磨き粉だらけ。とりあえず喋ってはみたものの、自分ですら何を言っているのか分からなかったが、何故かシズちゃんとは意思疎通が出来ているようなので良しとする。しかし、その拍子に口端からツツ……、と唾液が溢れ出てしまい、慌てた私は咄嗟に口を閉じてしまった。それでも1度溢れてしまった唾液はそのまま顎へと伝い、自分の目で見ずとも感触だけで下へと伝ってゆく様が理解出来る。



「むぐっ」

「ほら、まだ終わってねぇだろ?ちゃんと最後まで見せろって」

「んぐ……ひゃ、へ……」

「……なんつーだらしない顔してんだよ。もしかして誘ってんのか?」

「むうう!!?」



ーーそんなことはない!断じてない!



あらぬ誤解を受けるも、全力で否定。変なスイッチが入りかけたシズちゃんを掻い潜り、私は洗面台へと向かうと口内の泡を吐き出した。それから数回水で濯ぎ、濡れた唇を服の裾で拭う。それを見たシズちゃんが「あ、こら。服の裾で拭くな。ちゃんとタオルがあるだろーが」と言って、改めて口を拭ってくれる。それからじっ、と暫くこちらを見つめていたかと思えば、突然前触れなく唇にキスをしてきた。不意打ちのキスに驚く私に、彼は舌を見せて悪戯っぽく笑う。



「……いちご味」

「!」

「エロいみさきが悪いんだからな」

「な……ッ、何言って……!ただ歯磨いてもらってただけだもん!」

「それにしても、随分と気持ち良さそうな顔してたよなぁ?」

「違……!ち、ちょっとくすぐったかっただけだし!ちょっとくすぐったかっただけだし!」

「はいはい。2度も言わなくていいっての」



他人の生活の面倒を見るなんて大変なことばかりだろうに、それに反してシズちゃんはいつも以上に生き生きとしていた。介護のやり甲斐に目覚めたのか、単に私の反応を見て楽しんでいるのか。どちらにせよ、ふとしたきっかけで突然スイッチが入ることだけは何としても避けたい。まずはそのきっかけと成り得るものを先に想定しておくことが不可欠であるが、正直、歯磨きを終えるまでの一連の流れの中にムラッとする瞬間があったとは思えない。

私と彼の認識は違い過ぎる。だからこそ理解するのが難しい。これから先が思いやられるーーそう実感した、1日目の夜。

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