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ええと、今は何時だっけ……?

むくりと起き上がり、時計を見る。すぐ隣で眠る彼を起こさないようそっとベッドを抜け出して、カーテンの隙間から空の様子をちらりと覗き見た。ぼんやりと光る月が浮かぶ夜空には無数の星たちが散らばり、その輝きは儚くも美しい。昼間の騒々しい街並みからは想像もつかないーーとはいうものの、今の私はそんな都会の喧騒からもう3日も離れている。何重もの包帯に包まれた自分の手のひらも同様に、その面影すら目にしていないような気がしてならない。肝心の痛みは引いてるし、そろそろ包帯を解いてもいい頃合いだと個人的には思うのだが。そんなことを考えながらまじまじと包帯の塊を見つめていると、肩をぽんと叩かれると同時に突然背後から声を掛けられた。



「おい」

「!! び、びっくりした……驚かせないでよ、シズちゃん」



彼ーーシズちゃんは「別にそんなつもりはなかったんだけどな」と言いながら申し訳なさそうに頬をぽりぽりと掻き、ゆっくりとした動作で隣に腰掛ける。こんな真夜中に目を覚ますなんて珍しい。眠れないのかと問えば、寝起きのしょぼしょぼとした目を何度か瞬かせながら「いや、まだ眠い」の一言。



「みさきが隣にいないと、落ち着いて眠れねぇ」



そう言ってコテッ、と頭を私の肩へと預けてきた。どうやら甘えたがりなシズちゃんがあまりにも可愛らしくて、思わずくすりと笑ってしまう。そんなやり取りを見る限りだと私たちはどこにでもいるような仲良しこよしのカップルに違いない。だが、私たちの関係は「普通」とは程遠い。では普通とは何かと問われれば上手く答えられる自信もないのだけれど、この普通ではない関係が私にとっては妙に心地良い。

私”たち”は既に歪んでいた。何時からだなんて時を遡るのも馬鹿らしい。ただそこに相手への愛情があることだけは確かで、その繋がりこそが何よりも大切だった。だからこそ大抵のことは受け入れてきたつもりであったがーー「みさき」耳元で名前を呼ばれたかと思えば、そのまま雪崩れ込むかのように押し倒される。どさり、と2人崩れ落ちる音を最後に訪れた静寂。そう長くはない沈黙を破ったのはやけに艶っぽい彼の声だった。



「なぁ、シたい」

「……」



あぁ、これで何度目だろう。もう何日もこの部屋から出られぬまま、ただ求められる度に幾度も身体を重ね合う。タイミングはいつだってシズちゃんの気紛れで、時間も何も関係ない。それは朝食を終えてすぐだったり、湯上がりの髪を乾かしてもらっている最中だったり。そして今、こんな真夜中の時間であるにも関わらずこうして彼の気紛れは訪れる。



「眠いんじゃなかったの?」

「もう覚めた」

「で、でも、もうこれで何度目だと……!」

「日付が変わればカウント的にはもう0だろ?」



なんだその自分勝手なルールは、と反論する間もなく唇を塞がれる。押し返そうにも挿入してきた舌がそれを許さない。徐々に力を奪われ、結局はされるがままに流されてしまう。

名前を呼ばれ、好きだと言われ、それだけで「嬉しい」と感じてしまう私はとても単純者なのかもしれない。だけどそれは広い外の世界に目を向けていないから。この閉ざされた部屋で彼と2人きりの世界なら、他のことなんて何も考えなくていい。嫌なことも、面倒なことも、全て頭の中から追いやってしまえばいい。これが単なる現実逃避なのだと分かっていても、保守的な私は内側の弱い部分を守ることにただ必死過ぎたのかもしれない。こうして自分が守りの姿勢に入っている間にも、池袋の街は今日も変わりゆく。新たな旋風を巻き起こしながらーー



♂♀



池袋某所


「最近もまた物騒な世の中になってきたもんだよなぁ」



仕事を終え、会社へと報告に向かう途中トムさんがそうぼやく。俺はその横で煙草に火を点け、ふぅ、と一服。ほんの少し間を置いてから「そうなんすか」と返した。世の中が物騒なのはいつの世も変わらず、特に池袋に関しては日常茶飯事といったところか。なんたって自分よりひとまわりも歳下の少年少女が個々にチームをつくり、抗争を起こすような時代だ。確かに物騒ではある。きっと池袋という一括りの街中で起こった騒動だけで、1日のテレビ報道時間枠なんてとうに埋め尽くしてしまうのだろう。そんなことを考えている最中にも、現行犯逮捕されそうなギリギリのスピードでタクシーが真横を通り過ぎていった。何かが起きたのだろうけれど、俺には関係のないことだ。



「なぁ、静雄。ハリウッドって知ってるか?」

「ハリウッドって……あれっすよね。よく海外映画の撮影とかしてる……えっと、確かロサンゼウスでしたっけ」

「あぁ、違う違う。いや、違わなくもねぇが、ハリウッド違い。俺が言ってるのは殺人鬼のことさ」

「殺人鬼……」

「なんでも、出没する度に映画のモンスターの姿をしてるんだとよ。その殺人犯ってのがな。だから『ハリウッド』なんだってさ。最近のテレビじゃあ持ちきりだぞ?それと、ロサンゼ”ウ”スじゃなくてロサンゼ”ル”スな」



妖刀に抗争、次は殺人鬼。近頃の日本の治安も危うい。



「ウチでテレビなんて点けねぇもんで、最近何が起こってるのかよく分からないんすよね」

「へぇ、寂しい独り暮らしにテレビは必需品……っとと、そうだったそうだった忘れてた。なんたってお前には可愛い彼女が……なぁ?」



急にニヤニヤし出したかと思えば、ちょいちょいと肘で突いてくる上司に俺は首を傾げつつ、宙を漂う煙草の煙をただぼんやりと眺めていた。ふいに視線をそのまま景色へと巡らすと、公園に植えられた桜の木々には蕾がちらほらと出始めている。ふわぁ、と優しく前髪を揺らす風も心なしか暖かい。気付けば季節はもうじき春を迎えようとしていた。トムさんが羽織っている茶色のジャケットも冬物の厚手のものではなく、いつの間にか春物の薄手のものに代わっている。年がら年中バーテン服を着て過ごす俺にはそういった面(例えば衣替え)で季節を感じる機会がない為、いつだって季節の変わり目には疎かった。冬が終わって、気付いたら夏ーーなんてこともそう珍しくはない。

そもそも社会人になってからというものの、変わりゆく季節を実感できるものが減ってきたように感じる。学生時代にはたくさんあった。春には卒業式や入学式、出会いと別れの季節である。とはいえ高校時代の入学式では人生最大にして最悪な出会いを遂げ、そして卒業式ーーいや、そもそも俺は式自体に参加すらしていないんだっけ。懐かしさよりも苛立ちが勝り始めてきた頃に一旦思考を停止し、俺は自分の学生時代を振り返るのを止めた。どうせ思い出したところで「あの頃は良かった」なんて酒でも飲み交わしながら語れるような昔話など何1つない。



「あーあ、俺もいい加減彼女でもつくるかなぁ」

「え、トムさんまだいなかったんすか。てっきりいるもんだと」

「あのなぁ、そりゃあ俺だって欲しいけどよぉ……なかなかドンピシャッて子はそうそういないべ?別にそこまで高望みする訳じゃねぇけど、やっぱこの歳にもなるとなぁ……手当たり次第に付き合えばいいって問題じゃないっていうか、そろそろ結婚を意識したお付き合いをしたいっていうか」



それからトムさんの結婚相手に対する理想像を延々と聞かされた後、会社への報告を終えた俺たちはその場で別れ、それぞれの帰路へと着いた。それからはというものの『結婚』というワードが頭に染み付いて離れない。そもそも結婚とは何かという根本的な疑問に、携帯の検索機能は素っ気なく『夫婦になること』とだけ教えてくれた。そもそも男女間においての恋愛関係とは何なのだろう。俺とみさきの間柄を何と表現すべきなのかと考えてみたところ、正直カップルなんて可愛らしい言葉は似合わないし、かといって正式的に結婚していないのだから夫婦とも呼べない。友達以上恋人未満なんて言葉はよく耳にするが、俺たちの場合カップル以上夫婦未満といったところか。

1度足を止め、考え直す。いや、そもそもそんな既存する言葉では生温いのではないか。きっと俺とみさきは普通とは違う。もっと色濃く、そして生きていく上で互いになくてはならないような存在ーー少なくとも俺はそう思っている。そんな時、向かいから歩いてくる1組の男女。互いの腕を絡め笑い合うその様からは、親密な間柄であることだけは一目瞭然。男女は俺のすぐ隣を通り過ぎ、ふと振り返った頃にはその姿を消していた。あれが一般的な男女の付き合いなのだろうと思うと、やはり疑問に思う自分がいる。何かが違う。だけど、その何かが何なのかは分からない。何処か違和感を拭いきれず、俺は釈然としないまま再び歩き始めた。そんなことを考えたところで意味などないのだけれど。



「ただいま」



アパートに着くなり蝶ネクタイの留め具をパチンと外し、シャツの首元を緩める。リビングへと向かうと、そこにはぐでんと上半身をテーブルに突っ伏したまま眠るみさきの姿。一体何をしていたらこんな格好で寝落ちしてしまうのだろうと思い、屈み込んでよく見ると、みさきの突っ伏した腕の下には畳まれたノートパソコンが敷かれていた。テーブルの上に散乱しているのはホチキス留めされた数々の資料。その中から1枚だけ手に取ってみるものの、小難しい内容の文章ばかりで俺の頭では理解し難い。



「ん……あれ、シズちゃん。いつの間に帰ってきてたの?」

「今さっきな。疲れてるならそのままでいろよ」

「んー……大丈、夫……」


とは言いつつも、包帯の巻かれた手で眼を擦るその様子からはとても大丈夫そうには思えない。その原因は他ならぬ俺自身にあるのだろうけど。



「もしかして昨夜、無理させちまったか?」

「……そう思うのなら多少は手加減してくれないかなぁ」

「なんだよ。別に嫌いじゃねぇんだろ?」



そう言って意地悪くニヤリと笑うと、みさきからは相変わらずのソフトタッチなパンチをお見舞いされた。



「もう、今日だけは絶対に邪魔しないでよね!私、今すっごく忙しいんだから!」

「あー、これ?この資料、みさきがつくったのか?」

「うん。大学の課題」

「……」

「もしかしたらシズちゃん忘れてるかもしれないから一応言っておくけど、私、現役大学生だよ?」

「……忘れてた」

「はぁ……やっぱり。私の大学、無駄に学生数が多いマンモス大学で本当に良かった。出席しなくても課題や試験の結果だけで成績つけてくれるから」



誰かさんのせいでここから出られないしね、と最後に付け加えられた嫌味に動じることなく、俺は心の中で「そうか」と1人納得していた。年齢的にはもう立派な大人だが、みさきはまだ学生という立場にある。今のみさきの年齢といえば、俺が様々な職を転々としていた頃である。それからもロクでもないような思い出ばかりで、それもこれも皆ノミ蟲野郎の仕業な訳でーーまぁ、みさきとこうして出逢えたことだけが唯一「あの頃は良かった」と振り返ることのできる過去の産物なのかもしれない。

思い返せば、色々あった。だけどそれらは全て俺にとっては『必要のあるもの』か『割とどうでもいいもの』の両極端などちらかで、前者の方はほぼみさきに関わる事だと言い切ってもいい。だからこそみさきと出会ってからのここ数年はそれなりに充実していたのだと思う。「人生に無駄などない」とどこかの偉い人が言っていたが、みさきのいない色褪せた世界こそがまさに「無駄」に値する。どんなに綺麗事を並べたって、人は誰しもが無駄なく過ごすことなど出来やしないのではないか。それは実際に色褪せた世界をこの目で見たからこそはっきりと断言できる。つまり、俺が何を言いたいのかというとーー俺はもう2度とみさきを離さないと心に決めた。例えこの先何が起ころうとも。これ以上無駄に生きたくはないのだ。



ーーなぁ、みさき。

ーーお前は正直、こんな俺をどう思う?



言葉には出来ないまま、心の中で何度もその質問を反復させる。返事を聞くのが怖かった。自分で異常だとは分かっているが、それをみさきの口から聞いてしまうのを長いこと避け続けている。うじうじと、まるで自分の名前すら明かすことのできなかったあの頃の弱虫な俺のように。今が幸せだからこそ、壊したくないと願うことが当たり前ではないか。このぬるま湯に浸かったような心地いい感覚を失いたくはない。



「……ちゃん、シズちゃん!」

「! わ、悪ぃ。どうした?」

「どうしたって、私の台詞。突然無口になってぼーっとして。きっとシズちゃんのことだから何か変なこと考えてたんでしょ」

「変なことって……いや、割と真剣な話……」

「なに?真剣な話って」

「あ?あー……、えーっと……」



ーーしまった。何か適当なこと言って誤魔化しておけばよかった。



首に手を当て、視線を泳がせる。まさに言い訳を必死に考えている輩のすることだ。



「は……ハリウッドって、知ってるか!?」

「なにそれ。海外映画の撮影場所?」

「……」



そこで咄嗟に上司との会話ネタを捻り出したところ、どうやらみさきは俺と同じ発想だったらしい。そんな些細なことに内心喜んだりもしつつ、俺はトムさんに教えてもらったことをそのまま伝えた。



「へぇ、物騒な世の中だね。なんだか自分のいるところとは別世界の話みたい。まぁ、シズちゃんなんて非日常の塊みたいなものだけど」



そう言ってみさきが視線を向けた先には、ついこの間寝惚けた俺が叩き壊した悲惨な姿の目覚まし時計。もはや原型すら止めていない”それ”から知らん顔で視線を逸らしつつ、殺人なんてものに極限関わりたくはないものだと心から思った。言っておくが、俺は人を殺したことはない。殺したいほど嫌いなヤツはいるが。

ハリウッドだか何だか知らないが、そんなものは俺とみさきには関係のないものだ。そうやって都合の悪いものばかり切り離して、見たくないものから目を背けて。彼女を閉じ込め、外部から遮断されたこの空間は俺の理想郷そのものだった。無駄なものなど何1つない、夢のような世界。そんな世界がいつまでも続くはずがないと知っていながら、それでも俺は幸せだった。



無知であるが故に、幸せだった。

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