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「惚れた」



このたった3文字の言葉が罪歌を酷く動揺させた。それが何故かは分からない。ただこの感覚が何処か懐かしくも感じ、思わず泣いてしまった。この懐かしさはきっと罪歌の持つ記憶がそう感じさせているのであって、私のものではないのだろう。どんなに記憶の糸を辿ろうと「惚れた」と言われこんなにも心揺すられた経験は身に覚えがない。おかげで罪歌の暗示から逃れることには成功するも、なんとも複雑な気持ちだった。自分はこんなにも罪歌から知らず知らずのうち影響を受けており、そのせいで意味もなく涙を流す羽目になっているのだから。



♂♀



時同じくして全く違う場所。目の傷が妙に疼くのを感じ、彼は色眼鏡を外すと指の腹で瞼にそっと触れた。義眼が嵌め込まれたそこは普段使うことなく閉ざされており、昔ほど無茶をしなくなった今は十分それでも事足りている。

思い出されるのはーー忘れもしない、あの夜のこと。1人の女に魅了され、初めて一目惚れし、恋に落ちた。だが当時の思い出は甘酸っぱいなどと言えるほど美しくもなければ、誰かに語れるものでもない。まさか初対面の女に斬りつけられ、結果として片目を失ったとは口が裂けても部下には言えまい。更に言わせてもらうと、この時のことは誰にも言いたくなかったのだ。独占し、心に留めておきたかった。あの斬り裂き魔だった彼女の美しさを形容できる語彙力が自分にはない。



「……この感じ……」



彼ーー赤林はポツリとそう呟くと、気配のする方角へと顔を向ける。かつて斬られたからこそ、分かる。この言葉にできない禍々しい感じといい、明らかに人間の放つものではない。視覚が他人より頼りない分、神経の鋭さには自信があった。その証拠に古傷の痛みは更に増し、思わず眉間に皺を寄せる。



「ちょいとお客さん、どうしました?もしかして車酔いですかねぇ。窓、開けましょうか」



鏡越しにチラリと視線を向けてきたタクシーの運転手に、赤林は苦笑いで返した。



「いんや、ご心配なく。……悪いが、ここいらで止めてくれねぇかな」

「?この辺って……お客さん、駅まで歩いては遠いですよ?」

「いいからいいから。ごめんねえ、大した距離でもないのに」



予定していた目的地までまだ距離のある時点でタクシーを止め、赤林は杖と同時に地に足を着ける。走り去るタクシーを見送った後、目を瞑り、すぐ近くに潜む気配を察知した。人間でない、何者かの。



ーーもしかすると……いや、だからといって彼女であるはずがない。

ーーあの女は確かに死んだ。もう何度もそれを確認したではないか。

ーーならば、この気配の元を辿った先には一体なにが……?



もう二度と感じることもないと思われていた胸の鼓動を再び感じ、無意識のうちに口角が上がる。もしかしたらと淡い期待を込めつつ、それでも愛しい彼女が死んだという事実が覆ることは決してない。だが、ここまで気配が似ているとなると全くの無関係でもないだろう。



ーーこの際、何だっていい。

ーー今更幽霊なんてモンでもビビらないさ。



息を呑む。徐々に縮まる距離間。目標まであと僅かの位置で、赤林は一旦歩みを止めた。人の気配は2つ。物陰に隠れ、何やらコソコソと”コト”を成しているらしい。僅かではあるが、女の甘い息遣いも聞こえてくる。



ーー……参ったな。

ーー今時の若いモンは場所も気にしねぇのかい。



この歳にもなってたかだかそんなことで若者に口出しするつもりなどない。赤林は肩で大きく息を吐くと、くるりと身を翻し、元来た道を帰っていった。思わぬ遭遇に気が削がれたというのもあるが、今でも一目惚れした女のことをネチネチと考えている自分自身に嫌気がさしたのだ。

彼女はもういない。例え地球上のどこを捜そうと存在するはずがない。何故なら彼女は己の手で、自らの生を絶ったのだから。それを分かっていても尚、赤林は無意識のうちに求めていた。仮にもう1度会えたとしてーーそれからどうする?泣いて喚かれてでも無理矢理に夫から引き剥がしただろうか、と問われればそれはイエスとは限らない。彼女の決意を目の当たりにしてしまった以上、自分には何もできなかっただろう。だから未練などない。ただ、無知で無力だった己に対しての怒りだけをそこに残したまま、彼は年を経て今に至る。



♂♀



ーー【あぁ、やっと現れた】

ーー【貴方が私を終わらせてくれるの?】



その声は、今まで聞いたこともない女の声だった。罪歌の声は老若男女問わず様々だが、1度聞いた声は何となくだが記憶に残っていた。しかし、やけにはっきりとしたこの声を私は初めて耳にする。とても悲しげな声だ。



「……みさき?」

「!! ご、ごめん……なんか、よく分からないけど……悲しいのか、それとも嬉しいのかな……?」

「俺には今の状況が上手く呑み込めないけど、とりあえず殺されずには済んだってことかな?」

「……」



床に転がり落ちた刀を拾う気力もなく、力を失った右手は僅かに震えていた。目の前の人を斬らずに済んだことへの安堵、自分が自分でなくなってしまうような恐怖、ただ無性に込み上げてくる涙。何をどう解釈したらいいのか分からず、頭の中はぐちゃぐちゃだ。それでも彼女は静かに言葉を紡ぐ。私にしか聞こえない声で。



ーー【誰も、止めてくれる人なんていないと思ってたけど……】

ーー【こんなになっちゃった私を好きって言ってくれた……ねぇ、あの人なんでしょう?】



罪歌が何を言っているのかさっぱりだが、身体の主導権は完全に私へと返された。これで勝手な行動を起こす心配もない。私はひとまず安堵のため息を吐くと、溢れた涙を拭い、臨也の顔を見上げる。彼は一連の流れを見ていたにも関わらず、怯えも動じもせず、ただ静かに私を見つめていた。



「どうやら落ち着いたようだね」
「……ごめんね。もう大丈夫……多分」「そんな泣きべそかいた顔で言われても説得力ないよ。まぁ、俺は斬られることを覚悟していた訳なんだけど……罪歌は余程俺を嫌っているらしい」

「どうして……臨也は斬られたいの?」

「違うよ。ただみさきに愛されたかったのさ。斬ることが君の愛情表現ならば、そうなっても構わないって意味」

「だから……ッ、私は好きで斬らないってば!」

「はは、ごめんごめん。でも、みさきが罪歌を完全に制御出来ないと、いつ暴走するか分からないよ?今だって、一体何が罪歌のブレーキになったのか分からないままだ」

「……多分、臨也の言葉に何かあったんだと思う。その……ほ、惚れた……て言われた瞬間、身体が突然動かなくなって……」

「? それだけ?そんなんで罪歌が動揺したって訳?」

「う、うん……」

「……」



臨也は暫し首を捻って考え込んでいたが、やがて降参とでも言いたげに両手を頭上高く挙げた。



「わっかんないなぁー。生憎、刀は俺の専門外なもんでね。まぁ……うん、どうでもいいや。俺は人間が好きなんだ」



まるで自分に言い聞かせるように、無理矢理そう結論付けたようで。



「なんだかなぁ、また刀如きに邪魔されちゃった。みさきの中から追い出せないの?それ」

「さぁ……私だって罪歌のこと、よく分からないし……」

「でもさ、みさきが拾わない限り、罪歌は日本刀のまま床に転がり続けてるんじゃない?」



そう臨也が指差しながら言った直後、罪歌はそれを否定するかのように日本刀としての姿を消した。赤い螺旋のような光を放ち、再びするすると私の中へと戻ってゆく。熱い感触が指先から入り込み、何事もなく消え去ったのだ。



「あらら、残念」

「……」

「そこで提案。君は罪歌を抑え込む訓練をすべきだ」

「訓練?そんなもの、一体どうしろと……」

「どうにでもなると思うよ。気持ちの持ち様さ、何事も。例えば……何が起きても動じない心構えだとか、そんなの。みさきは少し敏感過ぎるのさ。見てる分には面白いんだけど」

「はぁ……なんだかまるで悟りを開けとでも言われてるみたい」

「はは、いいねそれ。そんな感じ。目を閉じて、無にするんだ。心をカラッポにして……」



なんだか臨也が言うと胡散臭いなぁと思いながら、私は言われた通りに両目を閉じる。何も見ない、感じない。鼻から息を吸い、肩を大きく下げながら一気に口から吐き出した。そっと両肩に手を置かれた感触にほんの少し動揺するも、大して気にはならなかった。何故だろう。酷く安心する。



「いいね、その調子」

「……」

「いいかい?今から何が起ころうと、君は決して目を開けちゃあいけないよ」



それをいいことに何か良からぬことを考えてやしないだろうか、この輩は。しかしこのタイミングで目を開けてしまうのはなんだか悔しかったので、目を閉じ俯いたまま少し様子を伺ってみることにした。もし疚しいことをされようになったら、その時は一発蹴りを入れてやろう。心の中でぐっと握り拳をつくると、自然と目を瞑る力が込もった。

肩に置かれた手がゆっくりと離れ、すっと頬に触れる。まるで壊れ物を扱うような手つきに、彼の慎重さが伺える。手のひらから伝わる体温に包み込まれ、人肌の齎す安心感に心が安らいだ。視界が無い故、それはより鮮明に感じられた。



「ええと、『惚れた』……だっけ?罪歌が反応した言葉ってのは。まさかこんな単純な言葉に……ねぇ。もしかしたら罪歌も、1人の人間相手に特別な感情を抱いたことがあったのかな」

「……そうだね。私には罪歌の思い出まで見ることは出来ないけれど……、ッ!!」



するりと頬を撫で下ろした手はいつの間にか移動し、私の二の腕をがっちりと掴んだ。これでは押し返せない、拒絶出来ない。思わず目を開こうとした途端、何が起ころうと決して動じてはならぬと言われた言葉が脳裏に浮かんだ。



ーー危ない危ない。思わず目を開いてしまうところだった。

ーーさすがに早過ぎるよね。まだ変なことされた訳じゃあないのに……



「そう、いい子だ。そのまま……俺に全てを委ねて」



耳元で囁かれ、力がスゥッと抜けてゆく。私は何をそんなに意識して気張っていたのだろうとさえ感じる。



ーー……?おかしい。

ーーよく分からないけど、何かがおかしい。



臨也がその巧みな話術で幾人もの人々を意のままに操ってきたことは知っていた。だからもし彼の策略に掛かってしまいそうな時は耳を塞げばよかったのだ。物理的には無理でも、耳を傾けなければいい。受け入れなければいい。だがーー今はそれが出来ない。頭が痛い。クラクラする。いくら頭で理解していようと、彼の言葉をすんなりと聞き入れてしまう自分がいる。これは明らかにおかしいと危険を察知した瞬間、私はこの部屋に漂う独特な臭いに気が付いた。だが、もう時すでに遅し。



「はは、やっと気付いた?けど、遅かったね。この部屋に足を踏み入れたその瞬間から、このお香は君の身体を内側から蝕んでいた訳だけど……もうそろそろ、意識を手放してもいい頃かな」

「でもまぁ、保った方だとは思うよ?単純なやつほどすぐにコロッといっちゃうからさ。さすがみさきだよ。ただ……もう少し用心すべきだったね。なーんて、無理矢理連れて来た俺が言えた口じゃあないか」

「さぁ、おやすみ。君はもう随分と頑張り過ぎた。だからもう……いいんだよ。何も考えなくていい。これ以上頑張ったって、ただ辛いだけだろう……?」



私の苦労を労うその言葉たちは、例え表面上だけのものだとしても、疲労しきった心を癒すには十分過ぎた。

きっと私はこう言われることを何処かで望んでいたのだ。誰でもいい。ただ、私の代わりに私のしていることを肯定して欲しかったのだろう。

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