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「まぁ、今回もどうにかなるだろ」ーーそう言ったのはシズちゃん。根拠なんて何もない何気ない一言。それでも私は信じられた。その責任を一方的に押し付けている訳ではない、ただ彼の言葉は信じられた。だからこれから起こりうる困難も適当にあしらって、軽く受け流せるであろうと甘く考えていた。そんな甘い考えがいけなかった。私はいつだって自分のことに楽観的なのだ。「きっとどうにかなる」「何とかなる」そんな考えが罷り通るほど世の中は甘くないというのに。
罪歌の声はもう聞こえなかった。前触れなく突如訪れる静寂ほど恐ろしいものはない。臨也はというと私が達してしまってから一言も喋らず、それもまた不審感を煽るものとなっていた。こうも何も反応がないと、恥ずかしいところを見られてしまった手前、こちら側から話を振りにくい。沈黙が続く中ぐるぐると同じことばかり考えていると、後からとめどなく込み上げてくるものは罪悪感。
「……うぅ……〜〜っ!」
「もしかして……泣いてる?」
「だって……だって……!私は嫌だって言ったのに……い、臨也が……強引に……!!」
「あーもう、ごめん。ごめんってば」
「全然感情が込もってない!」
「そりゃあ心の底から悪いとは思ってないからねぇ」
「!? (あっさりと認めた!?)」
「じゃあ、なに。今からイかせますって言えばよかった訳?」
「そっ……、そういう意味じゃあ……ない……」
語尾に近付くほど徐々に小さくなる声。恥ずかしさに思わず顔を両手で覆うと、見えずとも臨也がため息を吐いたのが分かった。
「みさきはさぁ、ほんと甘いよね。それが君の可愛いところでもあるんだけど、だからこそ俺は心配なんだ。社会の荒波に呑まれてもみくちゃにされるんじゃないかってさ」
まるで親のようなことを口にし出す臨也に対し、私は「今そんなことは関係ないでしょ」と即座に反抗する。人の意見を聞かない輩の言葉など素直に聞き入れるつもりはない。
「関係大有りだよ。強引にこんなことしといてなんだけど、俺がいなかったらみさきはとっくにもう何十人にも襲われていたかもしれないんだよ?」
「……は?」
「君さぁ、少しは自分の魅力に気付いた方が身の為だよ。無自覚ってのが1番恐ろしいよ……みさきの場合」
「はぁ……ちょっと何言ってるのか分かりません」
「だから、みさきはそれだけ世の男たちに魅力的に想われてるってこと。みさきは本当に綺麗だよ。身も、心も。それを汚したいって奴は俺含めたくさんいるのさ。……まぁ、その他大勢にそれができないのは俺が裏で色々
小細工しているおかげだってことにもそろそろ気付いて欲しいかな」
「???」
どうやら私の知らない水面下で様々な火種が燻っており、その小さな火種が炎となって燃え上がる前に彼がそれを鎮火していたという。初めて耳にする事実はあまりにも現実味がなく、しかし今日までをそれなりに平和に過ごせたのは臨也のおかげだったのだと判明した。だからといってそれを鵜呑みにできる証拠としては不十分であったが、かといってこんな時に嘘を吐いているとも思えない。
「という訳で、少しくらい見返りを求めてもいいんじゃないかな?お金はいいから身体で払ってよ。それとも、不特定多数に狙われるスリリングな日常を選ぶ?」
「ま、またそういう変なこと言って!」
「変?違う、これは事実さ。中にはみさきを利用してシズちゃんを倒そうって考える輩もたくさんいる。身に覚えがあるだろう?2年前のあの事件だって……」
「!! そ、それは……!」
1度思い出すと記憶の断片が連なるように次々と蘇ってくる。忘れもしない、”あの”事件。私を守る為に傷付くシズちゃんの姿はもう見たくない。
「言い方を変えよう。君がシズちゃんを守りたいと思うのなら……多少なりとも犠牲を払う必要があるってことさ。そうでもしないとフェアじゃないだろう?何1つ失わずに済む甘い世の中じゃないんだから」
だからお前はいつまで経っても甘いのだと、遠回しにそう告げられているような気がして、悔しくて思わず唇を噛んだ。改めて己の無力さを噛み締める。こうでもしないと大切な人1人守れない、何も救えない不甲斐なさ。もう何度も何度もこうして悩み、苦悩した結果ーーそれでも人間には各々できることに限度があり、どんなに悔やんでも過去や事実は覆せないものなのだと悟った。ただシズちゃんが異常に強く、臨也が異常に情報力や話術に長けているだけだと言い聞かせるしか他なかった。ここで屈する訳にはいかない。力で敵わなくとも心まで折れてしまったら、もう私には何も残らなくなってしまう。
「臨也。それでも私は……」
言い終える前に口を塞がれ、残りは言葉として発されることなく喉の奥へと追いやられた。まるで臨也は私の答えを知っていて、それを聞きたくもないというような複雑な表情を浮かべていた。だから嫌なのだ。自分の意思を貫こうとすると、誰か他の人を傷付けてしまう。それが嫌だと善人顔するつもりではないが、この表情を自分がさせたのだと実感した瞬間に感じる、心臓を抉られるような感覚が何よりも嫌いだった。例えそれが彼に指摘された『甘さ』だとしても、人の感性なんてそうそう変えられるものではない。
ーーあぁもう、やめてよそんな顔。
ーーどうしてそんな傷付いたような顔をするの?
ーーいつもみたいに軽く笑い流してくれたなら、少しは気が楽になるのに。
♂♀
そんなこと、本人の口から聞かなくたって十分理解してる。だから聞かずにその口を塞いだ。言葉などいらない。聞く気もない。無駄に口を動かすくらいならそれに伴った態度で示してみせろ。例えばーー罪歌で斬りかかるくらいの勢いを。
「……っつ!」
次の瞬間、手のひらに走る激痛。日本刀で斬られたかと思いきや、みさきのいう罪歌の『愛の言葉』とやらも聞こえなければ大した痛みでもない。少し考え、どうやら噛み付かれたらしいことを理解すると、込み上げてきたものは昂揚感。まるで飼い慣らしたと油断した一瞬を突いて反抗された飼い主の気分だ。俺としてはこのまま無理矢理にでも犯してしまうか、罪歌の何らかの情報を得られればそれでいいと思っていたが、どうやら彼女はそのどちらも素直に聞き受けるつもりがないらしい。その鋭い視線からは、まさしく毛を逆立てて威嚇する子猫の姿を連想させた。
「まったく、酷いなぁ噛み付くなんて。どうやら躾がなっていないようだ」
「わ、私は……誰にも飼われてない……!」
「……みさきは色々と誤解しているんだよ。あんな化け物を愛しちゃってる時点でもう十分異常な訳だけどさぁ……」
「臨也」
ピリリ、と凍り付くような空気。肌にチクチクと突き刺さる視線。どうやら俺のいらない一言が彼女の逆鱗に触れてしまったらしい。「おっと失礼」なんて冗談ぽく笑ってみせるが、そんな小細工は通用しないようで、みさきの目は確かに怒りの感情を剥き出しにしていた。
ーーへぇ、あいつの為ならこんなにも怒りを露わにすることができるのか。
ーー正直、驚いた。
羨望、ほんのちょっとの嫉妬。てっきり俺は彼女のことを穏やかな何かと勘違いしていたようだが、それは違う。みさきは確かに人間だった。基本的な性格がどうであれ、喜びも怒りも泣きもするれっきとした人間だ。ならば感情の操作(コントロール)など容易い。今まで他の人間相手にやってきたように誘導できるはず。相手が感情を乱した瞬間ーーその一瞬こそが心につけ込む最高のタイミング。どうせならぐちゃぐちゃにしてしまおう。その隙に入り込み、抉って、掻き乱して、あいつのことなんて忘れ去ってしまうほどに。
「勘違いといえば……みさきは随分とシズちゃんを信じきっているようだけど、あいつは果たしてどうだろうか」「!?」
「ぶっちゃけ、信用なんてできないよねぇ。もし信用できる相手なら監禁なんて考えもしないし、そもそも俺との関係を断ち切らない時点で気持ちは休まらないだろうね。俺としては有難いことだけど、もし俺がシズちゃんの立場なら、きっとみさきを縛ってでも他の奴らとは会わせない。だって、そうでもしないと危ないだろう?なんせ、現にみさきはこうして彼氏でもない俺に犯されかけてる訳だし」
「わ、私はそんな気なんてなかった……!それに、そんなのおかしいよ!人を縛り付けるなんて酷いこと……」
「酷い?どっちが?シズちゃんを縛っているのはみさきだろう?」
「!!!」
「もちろん物理的な意味じゃない。縄で縛るなんて、そんなものよりもっと強力な……」
「違う!」
「何が違うものか。そうやって声を荒げているのは、何か思い当たる節があるから。……そうだろう?みさきはシズちゃんからの愛を絶対的なものだと安心しきっている。例え自分がどんな無茶をしようと……結果的に他の男に”抱かれてしまった”としても、きっと許してくれるはずだ、と。だって、あいつは確かにみさきを心から愛してる。だけど、その愛は包み込むだけの生温いものではないよ。相手を深く愛しているほど、裏切られた時の絶望はとてつもなく大きいだろうねぇ……?」
「……」
さて、もうお気付きだろうか。俺が今も尚、玄関の防犯カメラの電源を切っていないということに。消してしまうのは簡単。ただ手元のスイッチをポチッと押してしまえばいいだけのこと。いち早く勘付いたみさきがそれを懇願するが、だからといってこの俺が見返りもなく、素直に従う訳がないではないか。
「どうせなら激しく乱れてみせてよ。いずれみさきの愛しのシズちゃんにも見てもらうんだからさぁ……!」
「!!?」
大きく見開かれた瞳。目尻の涙。どんなに嫌だやめてと喚こうが、そのどれも俺の心には届かない響かない。今から俺は非常な情報屋。心を閉ざし、いつものように冷たい笑みを口元に張り付かせ、目的遂行の為だけに動く。淡々と、テンポ良く。
まずはこの邪魔な服を全て脱がせてしまおう。シャツを無理に引っ張り、その勢いでボタンは簡単に弾き飛んだ。露わになった綺麗な肌に唇を押し当て、そのまま下へ下へと移動する。単に寒いのか触れられることへの嫌悪感か、ぞわわと泡立つ肌は舌の表面のザラつきとよく似ていた。
「ぁ……っ!!」
一際高い声がみさきの口から零れた時、俺はその一瞬を聞き逃さなかった。なるほどここがイイのかと脳に刻み込み、記憶する。こうして少しずつ彼女の身体を知り尽くしてゆくのだ。職業柄、物覚えには自信がある。
一方、下半身へと伸ばした両手は確実に相手をイかせる部分ばかりを攻めていた。肉食獣が獲物を狙うように、まずは徐々に追い詰め、逃げられぬよう端へと追い込む。要は簡単に逃げられない環境を作ってしまえばいいのだ。下着は全て脱がさず、敢えて履いた状態のまま指先だけを挿入する。まるで見えない壺の中を手で探るようなーーどこに何があるのか分からない緊張感、見えないからこそ掻き立てられる想像(イメージ)、そして嬉しいくらいに素直な反応を見せるみさきの身体、変化する表情ーーその全てが堪らない。気分が上がると自然と行動にも反映し、より大胆なものへとなってゆく。指先で触れ、目に映らぬそこが濡れていると分かった途端、どうしようもない興奮に満ち溢れ、今すぐにでもぐちゃぐちゃにしてしまいたいと本能が告げた。どんなに冷静に取り繕おうとしても、所詮俺もただの男。抗えぬ性というものがある。そして彼女もまた、所詮ただの女。相手が誰であろうと感じてしまうし、身体はこんなにも悦んでいる。
ーーそうだよ。だって、そういう風にできてるんだから人間の身体は。
ーーだからもういいじゃん。諦めて本能のままに、快楽に身を委ねちゃえばさ。
ーー感情があるから面倒なんだよ。罪悪感だとか背徳感なんて、そんなものがあるから……
ーーだから君は”そんな顔”をするのだろう?
ならば何も考えられぬよう乱してやろう。そんな顔もできないくらい、快楽に悶え喘ぐことしかできないように。
拒絶の言葉なんて聞かない。耳を塞ぐ必要もなく、激しく指で掻き乱す。卑劣な水音が部屋中に響き渡り始め、耳から侵されていった脳髄はただならぬ快楽に満ち溢れていた。彼女が堕ちるのも時間の問題ーーそう思っていた矢先のこと。
ぐるりっ
世界が暗転。気付くと俺はみさきに組み敷かれ、鋭い刃先を首元に押し付けられていた。俺の身体に跨ったみさきの格好は着衣が乱れているせいか、はだけたシャツから溢れる胸の膨らみや剥き出しになった太ももが実にいやらしい。形勢逆転。ほんの一瞬の出来事。驚きを通り越し、この場に及んで俺は至って冷静だった。それはみさきの表情から殺意がないことを汲み取り、そう確信したから。なんせ、明らかに絶対的有利な立場である当の本人が誰よりも1番驚いている。どうして自分がこのようなことになっているのか、何故人に刃物を向けているのか。下手をすれば人命に関わる故、単に自己防衛本能が働いたとは説明しにくいのが現状であろう。
「驚いたよ。何が起こったのか全然だ」
「……正直、私も理解に苦しんでいます。一体何が起こったのか……ただ、頭の中で罪歌が何か叫んだってことくらい……」
さて、俺はとうとう斬られるのだろうか。他人事のように身を案じつつ、実のところ本心は全く別のところにある。目の前にいる得体の知れない”赤い眼の女性”は紛れもなく罪歌を身に宿した異端であり、触れた喉から伝わる刀の感触はひんやりと冷たい。もし俺が何か機嫌を損ねることを口にしたとして、彼女は簡単に俺を殺せるだろう。そんな命に瀕した状況であるにも関わらず、俺はそんな彼女をとても美しいと思った。やはり俺はみさきを愛しているのだ。その身に宿した化け物も含め、そんな彼女を俺は好きになった。生まれて初めて、そんな彼女を抱き締めたいと思った。自分のものにしたいと願った。
「 」
ある言葉を口にした途端、目の前の赤い眼が驚愕のあまり大きく見開かれた。それはみさき自身の意思によるものなのか、それともーー?おかしなことを言ったつもりはない。ただ心の中で思ったことをそのまま口にしただけ。すると喉に突き付けられた刃先から罪歌の声がまるで振動のように伝わってきた。直に鼓膜を震わせるような声で「そんなこと言ったの、貴方で2人目よ」、と。肝心の1人目とはシズちゃんのことか、はたまた全く別の誰かか。いずれにせよ、自分が初めてでないことが気に食わないがーー
彼女の腕にぐっと力が入り、斬られることを予感し目を閉じる。しかし次の瞬間刀はその手を離れ、カランと音を立てて床に落ちた。みさきは何も口にせず、ただ瞳から大粒の涙を零した。