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シズちゃんと別れ、1人アパートへと向かう帰り道。馴染みのある猫が目の前を通り、私はそれがすぐに『みさき』であることに気付く。自分の名前で呼ぶことに躊躇いはあったが、名付け親があのシズちゃんなのだから仕方がない。猫の方もすっかりその名で呼ばれることに慣れてしまったようで、私の呼ぶ声にぴくりと耳を反応させた。しかし、時に『たま』だったり『ミケ』だったりと場所や相手により呼ばれ方は異なるようで、きっと1通りのみならず様々な名前を持つ野良猫なのだろうと思う。
とてとてと軽い足取りでこちらへと向かって歩くその猫をひょいと抱え、やんわりと頭を撫でてやる。気持ちよさそうに眼を細めるその表情は本当に愛くるしい。暫しごろごろと喉を鳴らしていた猫のみさきであったが、突然ぴたりと動きを止めると、まるで警戒するかのように小さな身体を強張らせる。視界には映らずとも肌で感じる”彼”の気配ーー初めはカラスか何かかと思われたが、すぐにその正体に気が付いた。
「……臨也」
「へぇ、よく分かったね。気配は消していたつもりだったんだけど」
気付かれたかといって逃げも隠れもせず、彼ーー臨也はやはり飄々とした態度で私たちの前へと躍り出る。「やっほー」なんて言って片手をひらひらとさせちゃって。頭に深く被っているフードから察するに、表沙汰にはしたくない話をしに来たのだろう。姿を眩ますと聞いてからもう何日も顔を合わせていなかったが、それでも不思議と久しぶりだとは感じなかった。だから大して驚きもせず。
「元気だった?調子はどう?」
「悪くはないかな。決して良くもないけど」
「臨也は仕事に没頭し過ぎると他が疎かになりがちだから、ちゃんと食べてるのか心配だよ」
「ふぅん。俺のこと、気に掛けてくれてるんだ」
臨也は心なしか嬉しそうにそう言って笑うと、両腕で抱き抱えられた猫の顔を覗き込んだ。
「この猫……みさきだっけ?これで会うのは2度目かな。前は君の頭の上に乗っていたっけ」
「あの時の話はよしてくださいよ……なんか、色々と恥ずかしい」
「はは、まぁ確かに、こんな暗い夜道で話すような話ではないな。本当はゆっくりとくつろぎながら談笑でもしたいところだけど……」
ちらりと腕時計を気にするような素振りを見せたかと思えば、小さく舌打ちをする臨也。「ちょっとこっち来て」と私の肩を掴むと、やや強引に壁際へと引き寄せられた。反動で背中を打ち、遅れてじわりと痛みが伴う。
「ちょっ、痛い!なんなの急に!!」
「……単刀直入に聞くよ。どうして俺の忠告を無視した?」
「は……、忠告?」
思い当たる節はただ1つ。差出人不明の”あの”謎のメールだ。送り主の正体が臨也だと判明した今、では何故彼がそれを隠そうとしたのかが疑問に浮かぶことは必然的であって、当然私はそのことを問い詰めた。差出人不明のメールを鵜呑みにする人はそういないし、もしいたのならきっと身に覚えのない架空請求ですら間に受けてしまうような輩だろう。
「もしかしてあのメール、差出人臨也だったの……?」
「何もなかったから良かったものの、何があってもおかしくない状況に置かれていたんだよ君は」
「はぁ。でも、あんな短い文章を鵜呑みにする方が難しいんじゃあ」
「……まさか知らないとは言わないよね?今日、池袋で何が起きていたか」
「?」
「その顔……はぁ、どうやらみさきは俺が思っていたよりもずっと鈍感だったようだ。あのシズちゃんと一緒にいちゃあこう感化されても仕方ないか」
「あの、ちょっと、さっきから意味分からないです。確かに今日はやけに騒がしいなぁとは思ったけれど、何があったの?脱獄犯が逃走したとか」
私の言葉に臨也は深い深い溜息を盛大に吐き、何やら携帯を操作し始める。10秒足らずで「はい」と目の前に突き出されたその画面には、本人の写真と共に大きな文字でこう掲載されていた。
「『首無しライダーに懸賞金』……え、これってセルティのこと……だよね?懸賞金って、何か悪いことでもした……?いやいや、セルティに限ってそんなことは……」
「問題はそこじゃない。この事件の裏側では君たちの知り得ない数々の出来事が同時に起きていて、少なからずシズちゃんも関わったりしちゃってたんだけど……みさきは何も知らされてないか」
「シズちゃんが!?私、何も聞いてない!」
「おやおや、信用されてない証拠かな?……はは、そんな分かりやすく不機嫌そうな顔をしないでおくれよ。まぁ、シズちゃんにとっては大したことじゃあなかったって話だろ」
「……」
「ともかく、だ。今回はまぁ、色々とヤバい。若いチンピラが殴り合いの喧嘩して済む話じゃあないんだよ。裏の世界に精通した大人たちがごまんといる。俺なんてまだ青いものさ。そういった連中を相手にするってことは……」
「ええと、話がよく見えないんだけど……とりあえず、心配してくれてるってこと?」
「!!」
すると臨也は口元を手の甲で隠し、何故か顔を真っ赤に染める。
「べ、別に……ただ、よくも知らずに下手に掻き回されちゃあ俺が困るっていうか……!」
柄にもなく慌てふためくその様子が彼にしてはあまりに珍しく、私はぽかんと口を開いたまま何も言えなくなってしまった。まるで無理矢理言い訳を捻り出す子どものようで、普段の余裕ある態度からは想像もつかない。内心可愛いなんて思ってしまったことは口が裂けても言えないが、漏れてしまった笑みまでは隠し通すことができなかった。
「……糞、俺は釘を刺すつもりで来たんだけど。ほんと、みさきは俺の思い通りにいかないねぇ」
「それは良い意味で?それとも……?」
「どっちもだよ。だから俺はそんなみさきが好きなんだ」
「ッ! よ、よくもそんな台詞を恥ずかしがりもせず……ふぁッ!?」
次の瞬間、思わず変な悲鳴があがる。彼が腰に手を回してきたかと思うと、そのまま抱き締めてきたのだ。その力に加減はない。ぎゅう、と入れんばかりの力で。
「いっ、臨也!みさきが、潰れちゃう……!あっ、みさきっていうのは私のことじゃあなくて、猫の……ああっ!!」
腕に抱き抱えていた猫の心配はどうやら無用だったようで、猫のみさきは私の腕からするりと抜け出ると地面へと着地し、茂みの中へと消えてしまった。果たして空気を読んだのか単に苦しくて逃げただけなのかは定かでないが、とにかく今はこの状況をどうすべきか模索し続けていた。つまり、私はパニクっていた。
「こ、こんな道端で駄目だよ!」
「駄目って、何が?ていうか、みさきのその声の大きさの方が十分目立つと思うけど?」
「ッ……!み、見られちゃうよ……ご近所さんに。もしバレたら私……困る。物凄く困る」
「へぇ、ご近所付き合いなんてもの気にするんだ。このご時世、人間関係なんて浅はかなものだと思ってたよ」
「そりゃあ臨也みたいにセキュリティ完備された高級マンションに住んでいたら、そこまで気にする必要もないだろうね……もうっ、いいからほら、離してってば」
「なら俺のとこに来なよ。前みたいに」
「冗談よしてよ」
「冗談なんか言わないさ。俺は本気だよ」
「……」
ぐらり、何かが大きく揺れる。楽をしたいと思えば思うほどに、覚束ない足元はいとも簡単に崩れ去った。いつだって彼はまるで悪魔のように甘い言葉を耳元で囁き、ぬるま湯へと誘う。だが、それが結果的に良かったかと問われればそれもまた曖昧で、自分が良かれと思っていたことが必ずしもそうとは限らない。少なくとも、臨也の言うことは全て事実である。確かな情報であるが故に扱いが厄介なのは皮肉な話だが。
「諦めは悪い方なんだ」
そう言ってにっこり笑う彼になんて返せばいいのかも分からず、私は唇をぎゅっと噛んだ。
どうしてこんな時に笑えるのだろう。言葉と表情が噛み合っていない。もし自分が臨也の立場だったらーー想いの伝わらない相手を抱き締めて、諦められるものかと泣いて、どうしようもない現実に嗚咽を吐く。そんな子供じみたことしかできないだろう。あるいは、”何もしない”。傷付くのが怖い。ならばいっそこの気持ちを伝えることなく蓋をしてしまえばいい。誰しもが漫画の主人公のように勇気ある人間でなければ、何事も上手くいくようなレールなど用意されていないのだから。
「何度も言うけど……私、臨也の気持ちには……」
「知ってる」
「え?」
「俺はね、別に両想いになってハッピーエンドを迎えなくたっていいんだ。ただみさきの人生に深い深い爪痕を……一生忘れられないような記憶を残したいだけなんだ」
「……正直、臨也との出会いはもう忘れられないくらい印象強いよ」
「はは、それは光栄。けど……うーん、そうだなぁ。そんなんじゃ足りない。その他大勢で終わる気はないよ」
「???」
「どうせなら俺を思うと同時に強い強い感情が湧き上がるくらいの……それは愛情だったり憤怒だったり、あとは……そうだなぁ。憎悪、だとか。なんだっていい。寧ろ好かれるよりも憎まれた方が人の記憶に残りやすいんだってさ」
「い、言われてみれば……」
確かに、と頷いてしまうのは心当たりがあったから。憎しみが愛情を上回るかは別として、罪歌との件をずるずると引きずっていたのはやはり気持ちの問題ではないか。あの時の光景は夢にまで見るほど。
「俺、思ったんだよね。みさきに怖がられるのも悪くないかなって」
「……それは遠慮願います。人を嫌うのって案外体力使うんですよ……」