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そして私はこちら側を選んだ。やけにあっさりとした決断だった。彼は驚きも批判もせず、まるでもともと私の答えを知っていたかのように小さく笑った。憂いを帯びたその表情に、心の奥をキュッと掴まれるような感覚を覚える。
ーーあぁ……嫌だな、この表情。
ーー後ろめたい気持ちになってしまう。
また一歩踏み込んだ話題を口にしようとした瞬間、タイミング悪くも突然臨也の携帯の受信音が鳴り響く。彼はメールの文面にやや顔を引きつらせると「そろそろ行かなくちゃ」と席を立った。そして懐から紅茶2人分の料金にしては多過ぎるだけの額の札を取り出し、すっとテーブル脇に置く。私が慌てて突き返そうとするも、彼は「いいからいいから」の一点張りでそそくさと店を出て行ってしまった。以前にも似たようなことがあった手前、こうも毎度毎度奢られてしまっていては申し訳がない。
「もうっ!せめて自分の分くらいは払わせて下さいよ!」
「だから、いいって。なんなら身体で払ってもらおうかな」
「!!!?」
咄嗟に辺りを見渡すも、どうやら誰にも聞かれずに済んだ模様。場所を弁えない言動に冷や汗をかく一方で、彼は楽しそうに笑っていた。人を小馬鹿にしたようなその笑みは正直腹が立つけれど、私としてはつい先ほど見た寂しげな表情よりかは遥かにマシだ。見ていて安心感が齎されるとまではいかなくても、臨也には如何なる時でも飄々としていて欲しかった。それこそが私の知る『折原臨也』という名の人間そのものだったから。
ひらひらと手を振りつつその場を後にする彼の背中を最後まで見届け、私は暫しその場を動かずにいた。上手く言葉に出来ないが、何かが引っ掛かる。それが気になって仕方がない。思い悩むその表情がよほど深刻なものだったのか、気を利かせた店員が紅茶のお代わりを注いでくれた。ふわあと茶葉の香りが鼻いっぱいに広がり、気持ちが幾分か安らぐ。受け皿に添えられた茶菓子のクッキーがあまりに美味しかったものだから、シズちゃんへのお土産にと同じものを買って帰ることにした。
ーー……そうだ、病院。
ーーやっぱり、念の為に行っておいた方がいいのかな。
来良総合病院 待合室
とりあえず念には念を入れ、腕の具合を診てもらいに馴染み深いこの病院へとやって来た。ほんの少し前まで沙樹が入院していたというのに、今や彼女のいた形跡すら何処にも残されていない。それもそうだ。当たり前の話ではあるのだけれど、寂しくないと言ったら嘘になる。ただ私が過去ばかり振り返っていても時間は待ってはくれない。確実に時を刻み、過去はやがて思い出へと変わりゆく。
「……さん、苗字さん!」
「! あっ、はい!すみません……少しぼーっとしてたみたいで……」
「いえいえ、大丈夫ですよ。これ、診察書とお薬。腫れてから時間が経っていたようだから、次からはもっと早く来てくださいね。大したことがなかったから良かったはものの……」
「はぁ、すみません……」
「ところで、生活に支障はありませんでした?初日はお茶碗を持つのも痛かったでしょう?時間がなくて病院へ行くのを後回しにする人は多いですけど、あまりにも痛いから止むを得ず仕事を休む方もいらっしゃいますから」
「身の回りのことは手伝ってもらってたので、なんとかなりました。すごく、大変でしたけど」
色々な意味で、と付け足そうとして口を噤む。まさかこの歳にもなって「歯磨きを手伝ってもらいました」だとか「お風呂で身体を洗ってもらいました」だなんて、事実であったとしても恥ずかし過ぎる。
支払いを終え、受付に背を向けた瞬間、くるりと振り返った視線の先に見たのは見覚えのある少女の顔。沙樹の見舞いに来る回数も多かった為、看護師や他の患者の顔馴染みは比較的多かった。きっとそのうちの1人だろうと思ったものの、やはりそうではないことに気が付く。彼女と会ったのは此処(病院)ではない。あれは確か今よりも寒く、丁度切り裂き魔の被害が多発していた夕暮れ時ーー
「……杏里、ちゃん?」
「!」
「あぁ、やっぱり!すごく久しぶり。元気?……ではないよね。病院にいるってことは」
名前を呼ぶ声に反応した少女ーー杏里ちゃんは、私の顔を確認するなり眼鏡の奥の瞳を大きく見開いた。ほんの一瞬、ぼんやりと赤い光がその瞳に灯ったようにも見えたが、恐らく私の見間違いだろう。まるで罪歌を身に宿したかつての贄川春奈のようだった、なんて口が裂けても言えやしない。
♂♀
「……まぁ、想像はしてたんだけどね」
みさきと別れた後も、俺は彼女の尾行を続けていた。別に深い意味はない。ただ、彼女がきちんと病院へ向かうのをこの目で見届けておきたかった。みさきは変に強がりだから、特に自分のこととなると何でも大丈夫だと片付けてしまう。他人のことばかり興味がある癖、反面、自分のこととなると非常に疎い。それはみさきだけに言えたことではなかったが、彼女は特にそういう傾向にあった。自分の身を顧みず、すぐに他人を助けたがる『お人好し』。この部類の人間は大抵損をする。俺はこの人種をあまり賢いとは思わないがーー「ま、馬鹿な子ほど可愛いってやつかなぁ」と心の中でそう結論付けた。
みさきが病院の中へと姿を消し、ようやく本来の目的へと頭を切り替える。カラーギャング間のいざこざに決着が着いたとはいえ、俺の計画が終焉を迎えた訳ではない。寧ろ、これからが本番である。
『想像?』
「みさきが保身に走るような子じゃあないってことは、今まで散々見てきたからさ。守ってあげるなんて言われてホイホイ付いて来る訳ないよなあ」
『つまり、彼女に選んでもらえなかったことがそんなに悔しいのね』
「……いや、寧ろこれで良かったのかもしれないね。正直、俺と一緒にいることが1番安全であるとは言い切れない」
『なら、私も降ろさせてもらっていいかしら?私、貴方と心中する気はないの』
「不吉なこと言わないでくれる?俺だって死ぬつもりは毛頭ないさ。あぁ、それと、もし俺を裏切ろうって言うのなら、君の情報を矢霧製薬か警察にでも流すとしよう」
『ほんと嫌な男』
冗談のようで割と本気の脅し台詞をさらりと口にし、何事もなかったかのように本題へと入る。
『それで?わざわざそんなことを言う為に電話して来た訳じゃあないんでしょう?』
「あぁ、そうそう。少し頼みたいことがあって。俺の机に3台パソコンがあるだろう?向かって左の……そう、黒いやつ」
『貴方の所有物は大抵黒いわよ。で、これをどうしろっていうの』
「そのパソコンだけ予めパスワード解除してあると思うんだけど、メールボックスに保存されているメール、俺の携帯に全文転送してくれないかな。あとはこっちで処理するから」
『いいけど……なによこれ。この如何にも胡散臭いメールのタイトル。まるで詐欺紛いの出会い系ね』
「カモフラージュさ。センスの無さを言うのなら、それを送りつけてきたヤツに言ってくれ」
程無くして届いたメールの数々。片手で携帯を操作しつつ、俺は波江に一言礼を告げると早々に通話を切った。
今しがた送られてきた情報を知り得るのは恐らく、ヤツと俺のみ。決して漏らしてはならない貴重なものだ。にも関わらず波江にこの仕事を頼んだのは人間的に信頼しているからというより、彼女自身が弟以外にさして興味がないということを知っていたから。もし”うっかり”メールの中身を見てしまうようなことがあったとして、仮に世界を揺らがすようなことが書かれていたとしても「ふぅん」程度にしか思わないのだろう。それよりも、愛する弟の食事内容の方がよほど彼女にとって価値ある情報に違いない。そういった意味で信用できる秘書であることは確かだ。
ーーアイツの言う通り、きっとみさきを巻き込まずに済みそうにはないな。
ーー……まぁ、今更だけど。
みさきは渦中の真ん中に位置した、もはや外しようにない駒の1つ。彼女は盤上の駒たちとあまりに深く関わり過ぎた。出来上がった相関図を断つことは容易ではないし、故に切り離すという選択肢はあまり賢明ではない。ならば逆に利用してしまえばいい。彼女がみさきでなかったら、躊躇なくそうしていただろう。
ーー”一緒にいた方が守りやすいから”だって?いや、そんなの違うだろ。
そんなものはただの建前。取って付けたような言い訳。ただ格好が付かないからと見栄を張っているのであって、ただ単純に俺がみさきを連れて行きたかっただけなのだ。
俺はこれから暫し表舞台から姿を消すことになるだろう。完全に裏方ーーいや、もはや蚊帳の外で、ただ盤上の駒たちが翻弄される様を高見から見物するに徹する。様々な糸(意図)が絡み合って、それが縺れ、物語の進行を妨げぬよう見張っていなければ。全てを知り得るたった1人の神に近い存在ーー俺はそれになろうとしていた。そして『神』という名の絶対的な存在だからこそ所謂贔屓というものが出来る訳で、俺の意思ではどうにもならない危険や危機から身を守ってやりたかった。それを理由に、ただみさきを側に置いておきたかっただけ。まるで、自分の所有物であるかのように。
ーー彼女はモノではないのだから、そう上手くいく訳がないか。
ーー身も心も空っぽになった少女たちのように、みさきもああなってくれたなら……いとも簡単に操れるのになあ。
♂♀
来良総合病院 待合室
一応、彼女にとって私は恩人だった。杏里ちゃんが切り裂き魔に襲われている最中、絶妙なタイミングで出くわした私。咄嗟に彼女を助けたはものの、他に女子高生が3人も斬られてしまったようで、当時はそれなりに大きなニュースにもなった。その後怪我を負った杏里ちゃんは短期間この病院に入院していたようで、あれから数ヶ月が経った今日、怪我の具合を見る為に精密検査へと訪れたらしい。
自動販売機にお金を投入し、2本のペットボトル飲料を購入。ベンチに座った杏里ちゃんに1本差し出すと、彼女は「ありがとう御座います」と律儀に頭を下げてそれを受け取った。
「それで、どうだった?怪我の具合」
「お陰様で、特に異常もありませんでした。……あの、あの時は本当にありがとう御座いました」
「いやいや、本当に私は何もしてないよ?それより、杏里ちゃんが元気そうで何より……」
と言い掛けて、ちらりと彼女の表情を伺う。確かに表面上笑ってはいるが、何処か無理をしているようにも捉えられる。それはきっと相手を心配させまいと気遣っているからなのだろうけれど、表情の変化に敏感な私はすぐに見抜いてしまった。
「……何かあった?」
「えっ?……あの、どうして分かったんですか?私、まだ何も言ってないのに……」
「うーん、なんとなく。ただ、杏里ちゃん元気なさそうに見えたから」
「……怪我の方は本当に何ともなかったんです。ただ……その、個人的な悩みになってしまうんですけど……」
初めはオドオドとしたまま俯いていた杏里ちゃんが、暫し間を置いた後、ゆっくりとその口を開く。
「……聞いて頂けますか?」
「私で良ければ。寧ろ、私なんかが聞いちゃってもいいのかな?なんだか深刻そうだけど」
「いえ、苗字さんだから聞いて欲しいんです。初めて会った時から、私……苗字さんが他人には思えなくて。すごく、親近感を覚えたというか……あっ、その、迷惑だったらごめんなさい」
「ううん、そう言ってもらえると嬉しいよ。で、その悩みっていうのは……」
ここで再び間が空く。どうやら彼女なりに頭の中を整理しているようで、戸惑ったり躊躇っているというよりは、どう切り出したらいいのか悩んでいるようだった。
彼女の身形は制服で、懐かしの来良学園のもの。時間帯的に恐らく学校帰りなのだろう。かつて自分が着ていたものだっただけに、昔の自分の姿と重ねて見てしまう。思い返せばあの頃もそれはそれは色々とあった。シズちゃんや臨也と出逢った当時、私はまだ高校生だったという事実を振り返る。今だから思うこと、言えることーー数え切れない程たくさんあるが、決して無駄ではなかったと胸を張って言える。だからこそ、こうして苦悩する高校生の姿を見ると手を差し伸べてしまいたくもなるのだ。これも経験を重ね、大人になったというこ
となのだろう。とはいえ、まだまだ色々な面に関して未熟ではあるし、周りの大人たちを見ていると尚更、自分の子ども染みた部分を再認識する部分が多々あるのだけれど。
「苗字さんは……いますか?恋人」
「へっ!?」
自分に出来ることなら何だってしてあげようーー私は確かにそう思った。その気持ちに嘘偽りなどない。ただ、初っ端から恋愛相談というのは些か難易度が高過ぎやしないか。