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ある朝、目覚めたら主人の姿がなかった。いつもの如く弄ばれた身体を無理矢理引きずり、のそのそと身なりの支度を始める。私が初めて此処を訪れた際に着ていた服は既に主人の手によってビリビリに引き裂かれてしまっていた。そこで代わりに着るよう用意されたものが彼のシャツ。多少ぶかぶかではあるが、裸にタオル1枚巻いているよりかは何倍もマシだ。何しろ私は奴隷であるが故、文句も言えず、寧ろ感謝しなければならない。しかし当然男である臨也さんが女物の下着を持ち合わせているはずがない。そこで外出を許可されていない私は仕方なく素肌にシャツ1枚という無防備な格好でいる訳だが。

彼に言わせてもらえばどうせ脱がすのだから格好なんてどうでもいい、と。下着についても以下同文。今が肌寒い時期でなくて本当に良かった。冬に年中この格好でいたら間違いなく風邪を引いてしまうだろう。病気で弱った身体を主人に弄ばれたりなんかしたら堪ったものじゃあない。例え私がどんな状況であろうと彼はお遊びを実行するのだから。ただ用意されるシャツはきちんと日替わりで変えられ、清潔である事は保証されている。一体誰が洗ってくれているのかという事はとりあえず置いといて。



「(……あれ?)」



繰り返す日常の中、いつもと違う状況に戸惑う。なんと部屋の扉の鍵が締まっていないではないか。いつも臨也さんは必ず鍵を締めてから出掛ける。私には此処から逃げる覚悟も勇気もないし、わざわざ鍵を抉じ開けるような技術も残念ながら備わっていないから、どちらにせよどうでもいい事だ。ただ彼がそうする事によって籠の中の鳥でいざるを得ないだけ。しかし今の私には逃げられる条件が上手い具合に揃ってる。ここまで完璧だと逆に罠ではないかと疑ってしまう程に。

赤い首輪は付いているものの、それを繋ぎ止める鎖が存在しない。あぁ、これは完全に罠なのだとすぐに理解した。ここまで分かりやすいのもきっと彼なりに考えがあるからだろう。臨也さんは考えなしには行動しない。全てに意味がある。



「(どうしよう……)」



危険を承知の上で此処から逃げ出す?この事がバレてしまえばタダじゃあ済まないだろう。それでも目の前に吊るされた絶好の獲物にありつかない理由が見つからない。もしかしたらこれが一生に1度のチャンスなのかもしれないのだから。

今朝も用意されていたシワ1つない白いシャツに腕を通し、私には少し長過ぎる黒ズボンを拝借する。下着なんて自由の身になれさえすればいくらだって買えるもの。若干違和感が下半身に残るものの今は妥協するしかない。まさか男物の下着を借りる訳にもいかないし、そもそも下着が何処にしまわれているかなんてそこまで私は知り尽くしていなかった。不自然でない具合にズボンの裾をいくつか折り曲げ、丁度良い長さまでシャツを捲り、髪型を整えた私はとうとう部屋から一歩踏み出した。途端にざわざわと胸を支配する罪悪感。それに負けてしまわぬようにここ最近で1番の勇気を振り絞る。今や私にとってこの部屋から出るという行為は、まるでこの地球を旅立ち未知の星に向かう探検家の旅に相等するくらいにドキドキするものだ。



――約束守れなくてごめんなさい、臨也さん。

――それでも私、今すぐにでも"日常"に帰りたい……



そう、最初から私の日常に『主人』なんて絶対的な存在はいなかったんだ。自分の思うがままに生き、自分で道を決めてゆくもの。今までだって大抵の事は自分自身で決めてきた。そしてこれからだって誰の力にも頼らず、自らの手で進むべき道を切り開いていかなくてはならない。

胸に吸い込んだ息を全て吐き出し、私は更に歩みを進める。後悔なんてないし未練もない、この部屋では惨めな思いしかしていないのだから。もう玩具のような扱いを受けるのは嫌、私は正真正銘『人間』だ。人間に出来て奴隷には出来ない事をやってのけ、もう2度と会う事のないであろう主人にそれを証明してやれ。



♂♀



「わ……ぁ」



外に出て初めて気が付いたのだが、どうやら此処は新宿らしい。久方ぶりに見る人の群れに、がやがやと騒がしい耳障りな騒音。思わず感嘆の声が漏れる。それは自分が初めて東京に上京してきた時の衝撃にとてもよく似ていた。あの時は今以上に世間知らずで楽観的で――まぁ今も大して変わっちゃいない気もするが。

まるで見た事も聞いた事もない未知の土地に放り出された気分。当然新宿には何度か来た経験あり。私が奴隷としての生活を強いられ始め恐らく1週間程が経つが、果たしてその間に変わってしまったのはこの街なのか私なのか。いや、もしかしたら1週間というのが間違っているのかもしれない。カーテンで締め切られた部屋にその身を置いていれば自ずと時間の感覚は鈍ってゆく。だから実際はそれ以上の月日が経っているのかもしれないしもしかしたらそれ以下なのかもしれない。もはや確かめる術のない私は一旦思考する事を止め、とりあえず情報収集が効率良く出来るような場所へと移動する事にした。



《池袋ー池袋ー》



続いて英語のアナウンスが響き渡り、ゆっくりと動きを止めた電車から降りる。

ここを選んだ理由はいくつかあるが、自分の使っていた定期券の範囲内で1番便利且つより適当だと判断した。池袋ではお馴染みイケフクロウのある東口はたくさんの待ち合わせる人々で埋まっており、息苦しさを覚えた私はすぐに階段を登った。そこから大きな横断歩道を駆け足で渡り、信号機が赤になるギリギリ手前で渡りきる。にも関わらず人々は動揺せず優雅に白線上を歩いている訳で、大型車が苛立ったようにクラクションを幾らか鳴らした。



「(なんだか、懐かしい)」



サンシャイン通りは特に馴染みのある場所だった。友人とカラオケや漫画喫茶に行ったり、新しくオープンしたお店をいち早くチェックしに行ったり。あの頃の私はそれなりに人生を謳歌し、それなりに楽しく暮らしていた。今とはまるで雲泥の差、過去の自分が別人のようにも感じる。ふいに振り向いた視線の先にはガラス製の自動ドア、そこに映る自分の姿。大きめサイズのYシャツにぶかぶかズボン、そして首元には燃えるように真っ赤な首輪――

すぐに視線を逸らし、身を潜めるように裏通りへと入る。急に現実を突き付けられた気分になった。こんな事したって臨也さんから逃げられない事は始めから分かっている。だってこれは罠なのだから。きっと臨也さんは自由に目が眩んだ私を何処かで嘲笑っているに違いない。それを知っていても尚私は逃げる。彼の掌の上で好き勝手に転がされ続けながら、何処までも。



――……何の、為に?



「ぅわあああああああ!」

「!!」



純粋な恐怖への悲鳴を耳にしたのはこれが初めての事だった。次いで何かが落下する爆音、音はすぐ近くから聞こえてきた。途端に周りは人のざわめきに包まれる。まるで逃げるように速足になるサラリーマン、音のする方向へと面白半分で向かう若者の集団。



「おい!この音って、もしかして……」

「やべぇよ。俺生で見るの初めてなんだけど」

「早く逃げた方がいい」

「行ってみよーぜ」

そして最後に皆が揃って口にした名、それは過去に1度だけ耳にした事のある人物だった。記憶の整理がつかないうちに、脅威は此方へ向かってくる。まず視界に映ったのが情けない姿で逃げ惑う男、次に投げ付けられた自動販売機……ん?

そうだ、思い出した。彼の名は平和島静雄。金髪にサングラス、おまけに常時バーテン服といういかにも目立つ危険人物。噂には聞いていたが、まさかこのタイミングで都市伝説にお目にかかれるとは。何でも人外並の馬鹿力の持ち主で、話を聞く限りだと実在するのかさえ実のところ怪しんでいた。しかしこうも見せ付けられてしまえば認めざるを得ない。彼が姿を表した途端、対象への怒りのオーラがビリビリと此方まで伝わってきた。



「す、すすすすすみません!いつか必ず払いますから……!だから、今だけはまじで勘弁してくださ……」

「手前、それが何度目だと思ってんだ?ぁあ!?しかも水商売の女に全額貢いだだと!?いい加減目ぇ覚ましやがれ!!」



やり方は物騒だが随分とまともな事を言う。なかなかの正論ではないか。内心そんな事を考えながら人混みに紛れて行方を見守る。しかしそれも一瞬だけ、平和島静雄は突然顔をしかめると勢い良く此方を向く。射るような鋭い視線――その先には何故か"私"がいる。

くせぇ。そう吐き捨てると彼は手元の道路標識を引っこ抜き、ごきりと首を大きく鳴らした。異変に気付いた野次馬たちが一目散に逃げ出す。やばいやばい。早く早く、今すぐにでも此処を離れなければ――そう思っているのに両足が動いてくれようとはしないのだ。



「人混みに紛れ込んでいるつもりか……?生憎、俺には手前のにおいで分かっちまうんだよ。何のつもりかは知らねぇが……黙ってそこに突っ立ってるって事は、俺に殺される覚悟で来たって事だよなぁ……?」



――あれ……『私』?

――この人、『私』に言ってる?



嬢ちゃん、あんたも今すぐ此処を離れなさい。隣に立っていた親切なおじさんが去り際にそれだけ言い残して行ってしまった。私だってそうしたいのは山々だけど、やっぱり私には恨みを買われるような事を彼にした覚えは一切ないし、相変わらず足は動かないから根本的に無理な話だ。

気付いたら周りには誰もいなくなっていた。ここには私と彼の2人しか残っていない。初めて平和島静雄と目が合った。しかし平和島静雄は私を見てきょとんとするとキョロキョロと辺りを見回す。時折鼻をひくひくとさせながら、やがて諦めたようにため息を吐く。



「えーと……あんた、誰だ?」



その時だった。あの嫌な感覚が身体を襲ったのは。

身体の中に埋め込まれた異物が突然激しく振動を始める。何故、どうしてこんな時に。考える暇も与えてもらえない程にそれは繰り返し動き出した。スイッチを握るのはたった1人――彼の仕業以外に原因は見つからない。もしかしたら私がいない事に気付き、お仕置きのつもりなのかもしれない。それにしてはタイミングが悪過ぎる気もするが。


「おい!あんた、大丈夫か!?」



突然しゃがみ込む私に、平和島静雄が心配そうな表情で駆け寄ってくる。原因を説明出来る訳もなく、私はただ黙って衝動に耐えた。

直感で思う。これこそが主人である彼の意図的な行動なのではないかと。

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