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人間としての権利や自由を一切認められず、他人の支配の下に様々な労務に服す者――それが奴隷。彼が無邪気な笑みを浮かべながら私に手渡したそれは当に服従を意味するものだった。

確かに私は1ヶ月間奴隷でいる事を承諾した。ただ私の乏しい想像力では現代の奴隷が如何なる事を課されるのだろうという事までは想像に至らなかった。働かせたい訳ではないと彼は言った。それじゃあ奴隷は何の為に?答えは自ずと見えてくる、例えそれが受け入れがたいものだとしても。



「そ、それって、」



首輪だよ、と臨也さんは何でもないような顔をして言う。そんな事は見れば分かる。問題はどうしてこんなものを強要されるのか、これだ。犬や猫が付けるものと何ら代わり無い赤い首輪は、人間の首回りにも合わせられるようにやや大きめに作られている。どうしてこんなものが此処に、出来過ぎてはいないだろうか。

無言のまま受け取り、両手で持ったそれをまじまじと見つめる。これを付けてしまったら何かが変わってしまうようで怖くて、なかなか付けるに至らない。自分が人間として扱われなくなる事を、身体が拒否しているのかもしれない。確かに私はこの男によって生かされているというのに、もしかしたらあの時死んでいたかもしれないのに、この場から今すぐ逃げてしまいたくて。しかし直面した残酷な現実はそれを許さない。



「そうそう。俺が今から言う事、きちんと全部覚えてね」



そう言って臨也さんが告げたのは、服従する上での守らなければならない"掟"。



「ルール1、俺の言う事は何でも聞くこと。……返事は?」

「は、はい」

「ルール2、勝手に外へは出ないこと。勝手な真似をされちゃあ困るからねえ」

「……はい」



1つ1つ指折り数えて彼は続ける。自分以外の人間との関わりを持ってはいけないことや、主人の言葉には必ず返事を返すこと。その他いくつもの約束事を突き付けられ、私はただただ受け入れることしか出来ずにいた。奴隷に拒否権など存在しない、奴隷は主人に忠実でなければならない。何度も何度も繰り返し強調され続けたのがこれだ、嫌でも記憶に刻み込まれる。

すると臨也さんが私の手から首輪を取り上げ、突然強く背中を押す。半分上の空だった私はされるがままにソファへと押し倒され、どさりとうつ向きに倒れた。



「それじゃあいい加減付けようか、首輪」

「ま、待って下さ……!」

「あッはは。ねえ、俺の話聞いてなかったの?言ったよねえ、口答えはするなって。それとも君はそんなにお仕置きして欲しいのかな?苗字なまえさん?」

「!」



――私の……名前。この男は私の名前を知っている。

――まだ自分から名乗っていないというのに……



「俺を誰だと思ってるの?言っておくけど、知っているのは名前だけじゃないよ。君の住所、経歴、家族構成……とまぁ、ある程度の事はとっくに調査済みさ」

「ッ」



臨也さんが私の身体をひれ伏すように、背中に掌を押し付けてくる。逃げたいのに逃れられない。その力は細身であるにも関わらず力強くて、私は剥き出しの首もとを無防備にさらけ出すしかなかった。細長い指先が触れ、指の腹でつつ……と背中に向かって水滴が伝うように撫でる。それが何だかくすぐったくて、身体の中心がぞわぞわとする。



「君の肌、白くて綺麗だね。赤い首輪がとっても栄えそうだ」

「ひッ ……あ!」



首もとに熱い吐息が掛かり、透き通るような声が鼓膜を小刻みに震わせた。堪らずにぎゅっと両目を瞑る。

出会ったばかりの男に背中を見せ、今や主導権を握られている。それが屈辱でもあり情けなくもあり。昨日までの生活は決して全てが恵まれているとは言えなかった。何度も様々な困難の壁に直面し、それでもその度に頑張って乗り越えてきた。それが人間の生というものではないか。しかし今の私はそれが失われつつある。私の喜びや悲しみはこの男の手の中に、そして先に見えぬ運命でさえも全て臨也さんの意のまま。彼は楽しいのだろう。私という奴隷の運命を、まるで神様のように好き勝手弄れて。



「楽しい……ですか?こんな事して……」

「うん、すっごく楽しいよ?人が懸命になっているところを見るのってさ」



冷たい水が目一杯に入った容器、そこに1枚の小さな葉を浮かべる。男はおもむろに地を這っていた一匹の蟻を摘まみ上げ、無情にも水の中へと放り投げた。蟻は突然の生死を賭けた事態にただただ必死に、生き残る唯一の術である葉に向かって懸命に泳ぐ。その様子を見た男はまるで滑稽なものを見るような目をして笑うのだ。さも楽しそうに。

肩を引かれ、今度は無理矢理仰向けにされる。臨也さんはやはり笑っていて、目が合った瞬間に視線を反らした。此方の感情を読み取られぬよう、出来るだけ平然とした態度で。人間としての自分を保っていたくて、何事にも従順にはなりたくなかった。ほんの少し反抗してみたかった。その態度こそが彼の関心を更に高めてしまうとは知らずに。



「いいねえ、その反抗的な目……初めから従順ってのもつまらないからねえ。屈伏させ甲斐がある」

「わ、私は心から屈伏なんて絶対にしません!」

「ははッ、言うねえ。ますます気に入ったよ」



そう言うと臨也さんは、私の両手首を掴み――



「調教次第で愉しい玩具になりそうだ」



懐から銀色に光る何かを取り出し、両手首を拘束した状態で鍵を掛けた。動かしようにもガチャガチャと音を立てるだけで手首同士が離れる事はない。その両手首を縛る、視界に入らぬ何かが手錠だと気付くのに時間はそうかからなかった。

外そうとする度に金属が手首に食い込み、その痛みに小さく悲鳴を上げる。どうやらキツく拘束されているようで当然ながら自力で外せそうもない。臨也さんは私の目の前で手錠のものであろう鍵をちらつかせ、そして笑う。臨也さんの笑みはまるで子供のように無邪気で、それが逆に不気味にも見えてしまう。どうしていつまでも笑っていられるのだろう、相手の感情を読み取る事が全く出来ない。



「無理はしない方がいいよ?怪我するかもね」

「い、今すぐ外して下さい!」

「俺が奴隷の言う事を聞くと思う?ご主人様にそんな口をきくなんて、悪い子だねえ。やっぱり君には早速お仕置きが必要かな?」

「そんなの ……ッ!?」



次の瞬間臨也さんが取り出したものを見て、私は思わず息を飲む。それは小さなナイフ――小型ではあるが殺傷力には申し分ない、恐るべき凶器だった。臨也さんはナイフの握られている手を高々と振り上げ、そのまま真っ直ぐ振り下ろす。

ぐさり、ナイフが突き刺さったのは、私の顔のすぐ真横。反射的に瞑った目を見開くと、切れ味の良さそうな鈍い光が視界の端で走っていた。それでも臨也さんは少しも表情を変えずに、



「黙れ ……と言いたいのが分からない?君はまだ何も分かっちゃいないね。このまま1ヶ月をやり過ごせるとでも思ってた?残念だけど、そんな事させるつもりは毛頭ないから。今のうちに諦めておいて」



淡々と、そう告げた。

「……ッ」

「そうそう、いい子」



私が唇をきゅっと噛み締め言葉を発さなくなった途端、優しく頭を撫でてくる臨也さん。同時に片手に掴んだナイフを離そうともしない。1度直面したはずの死がこんなにも恐ろしいものだったなんて。小さく震える私の身体を、彼は微笑み抱き締めた。まるで小さな子供をあやすかのように。

胸の中はこんなにも温かいのに、彼の吐き出す言葉は氷のように冷たい。粉々に砕けた氷の破片は容赦なく心に突き刺さる。少しずつ侵食し、蝕まれてゆく。



「いい子にはご褒美をあげる」

「……ごほうび?」

「そう、ご褒美」



優しい声。さっきまでの扱いは確かに酷いものだったはずなのに、与えられた甘い言葉はこんなにも手放しがたい。私だって人間なのだから優しくされると嬉しい。例えそれが奴隷と主人の関係に成り立つ、あやふやなものだったとしても。

臨也さんはゆっくりと私の首元へ唇を寄せ、鎖骨のあたりをペロリと舐める。そしてやんわりと柔らかな唇を押し付けると、次の瞬間そこを中心に鋭い痛みが身体を走った。初めはチクリと大した事のない痛みではあったが、じんわりと遅れて伝わる痛みに思わず顔をしかめる。痛いようでくすぐったいような不思議な感覚。暫しリップ音を発しながら、臨也さんは次第に上へ上へと口づけてゆく。順々に喉元、頬、そして――



「……なまえ」



私を呼んだ臨也さんは――とても優しげな顔をしていた。あの少しも微動だにしないわざとらしい笑みではなくて、様々な感情が混ざりあった複雑な表情。それこそが正に人間らしい、本当の彼なのだと直感で思う。その表情を見た途端、胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちになった。



「俺の名前、呼んで?」

「……折原、さん」

「下の名前で呼んで」

「臨也さん」

「呼び捨てでいいよ」

「……」



彼は、奴隷に何を求めているのだろう。奴隷というのは気安く主人の名を呼んではならない、それはとても図々しい事だから。それなりに臨也さんは私に名前を呼ばせた。その上、呼び捨てでいいと要求する。しかしいざ口にしようとする前にどうしても躊躇してしまう。主人の絶対命令とはいえ、私にとってそれは罪深き行為に思えてしまった。

戸惑う私の横で、臨也さんの手がゆっくりとナイフから離れる。ソファに深々と突き刺さったままのナイフはやはり恐怖の対象ではあったけれど、内心ほっとしていたのだ。出来る事なら怖い思いは二度としたくない、そう思っていたのに。



「……!!?」



臨也さんの両手は、ゆっくりと私の喉元に。絡み付いた細い指は爪を立てて肉に食い込んだ。その手に持っていたのは、あの赤い首輪。奴隷である事の証明。これを付けられた途端、私はもう人ではいられない――



「い……嫌……」

「嫌?どうして?だって君は……奴隷、だろう?」



首との隙間なくキツく縛られた赤い首輪は、ほんの少し窮屈であった。改めて突き付けられた『奴隷』という言葉。それは確かに私の目を見て告げられ、私という存在の代名詞となった。

どうしたらこの運命から逃れる事が出来ただろう、その答えは至って単純。あの時死んでいればよかったのだ。それは自身の終わりを意味する。決して死にたい訳じゃないし、1ヶ月後の希望を見出だそうと必死に手を伸ばしてみる。だけど、それさえも儚い夢物語ではないかと絶望したくもなる。それほどにまでに『奴隷』という現実は苦しい。



「それにしてもご主人様からの有難い贈り物を嫌だと言って拒否するなんて、随分と我が侭な奴隷だよねえ?やっぱり今はご褒美の前に、調教が必要のようだ」

「時間はまだ……たっぷりとあるしね」

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