>00
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



それは、逃れられぬ契約。





ここは――何処?目の覚めた私はゆっくりと上半身だけ起こすと、見に覚えのない部屋の中を見回した。かなり広いこの部屋には大きな窓があり、しかしここからじゃあ外の様子はよく見えない。その手前にある立派なデスクに、部屋を囲うように立ち並ぶのはたくさんの本棚。図書館とまではいかないが尋常じゃないその本の数に圧倒感すらをも感じる。そこで私はようやく己の身体に掛かっているブランケットの存在に気が付いた。一体誰が掛けてくれたのだろうか。外の景色を一望出来る、肘掛け付きの立派な椅子――そこに座る人物こそがこの部屋の主人であり、私を救ってくれた"命の恩人"なのだろう。

まだ見ぬ恩人に一言お礼を告げたくて、未だに気だるい身体を起こすと柔らかいカーペットに足を降ろす。瞬間強烈な痛みが関節を走り、私は嫌でもあの時の記憶を思い出してしまった。



「生きた若い女は高くつくって話だぜ!」



鮮明に脳裏に蘇るのは、男達の下品な笑い声。あの言葉の意味を深くは考えたくなくて、私は気を紛らわせるように小さく頭を振る。

あれは、現在東京のとあるアパートで独り暮らしをしている私が、大学帰りの帰宅途中のこと。暗い路地裏に怪しげなワゴン。不審に思いつつも変わらずその道を選んだのは、この道がアパートまでの唯一の近道だという事を知っていたから。とにかく疲れた身体を1秒でも早く休めたくて、温かいお湯に浸かりたかったのだ。その怠慢こそが、後々自分の首を絞める事になるのだと知る由もなく。



――……そうだ。ワゴンから突然男達が降りて来て、

――それで……私……



そこからの記憶はかなり覚束無い。口と鼻を布のようなもので覆われて、鼻がツンとした事だけは覚えている。それだけ、後の事はほぼ覚えていないに等しいのだ。ただ車に連れ込まれる際に痛めたであろう足の関節はズキズキと痛くて、なかなか和らいでくれない傷に思わず眉を潜める。とにかく今は誰でもいい、人の顔を見て安心したかった。

それなのに私は見てしまった。それは決して意図的なものではない、本当にたまたま視界に映ってしまったのだ。視線を巡らせ、その先にあったのはガラス張りのケース。中にはまるで人形のような、美しい女性の生首が――


「……ッ!!?」



眠っていた恐怖が目を覚ます。じりじりと後退りした先の壁に背中を預け、私はその場にぺたりと座り込んでしまった。違う、私はまだ助かってなどいなかったのだ。記憶に残る男達の会話――断片的ではあるが「実験」だとか「報酬」だとか。ただ1つ確信を持って言える事は、今すぐこの部屋を出て逃げなくてはならないという事。状況の分からない今、生首という異様な存在は私を更に追い詰めた。『死』という概念が嫌でも頭を過る。しかし冷静さを失った人間に限って必ずトラブルはついて回るものだ。例えば犯人に追い詰められて転んでしまうヒロインなんて、映画なんかじゃあよく見るお約束のシーン。勿論現実にそんなお約束はいらない訳で、ピンチな時に助けてくれるお助けキャラも此処にはいない。

身を翻す際に腕が当たってしまったのだろう、ガラス製のテーブルの上から山積みになったたくさんの資料が音を立てて崩れる。そこには新聞や、かなり昔のものとも思われる雑誌の記事が貼り付けられており、ついまじまじと見てしまったのがいけなかった。私は気付けなかったのだ、すぐ背後にまで迫る影の存在に。



「あーあ、片付けるの大変だったのに。それ」

「! だ、誰ですか!?」

「酷いなあ、俺は君の恩人だよ?そんなに怯えるなんてさ」



そう言って男は苦笑いすると、先程まで私の寝ていたソファへと身を沈める。私がぽかんとしてなかなか立ち上がる事が出来ずにいると、男は小さく溜め息を吐き、そっと手を差し伸べてくれた。私は言うべきお礼すら言えない状態で男の手を静かに取り、促されるがままに男の隣に腰掛ける。


「あ、あの……貴方は?」

「俺?俺の名前は折原臨也。情報屋さ」

「じょうほうや?」



聞き慣れない単語を繰り返してみる。情報屋と言えばもっと年のいった人物を想像していた。しかし目の前の男は二十代前半、もしかしたらそれよりも若く見える。きっと私と然程離れてはいないだろう。



「その、折原さん。此処は一体何処なんですか?私、確か変なワゴンに連れ込まれて……それで、」

「安心しなよ、此処は俺のマンション兼仕事場さ。気分はどう?」

「大丈夫、です。お陰様で……だけど、あの人達は一体……」

「分からない?人拐いだよ。研究材料の為の、ね」
「!?」



またも聞き慣れない単語に耳を疑う。研究材料と言うのは、所謂人体実験の事だろうか。勿論そんな事が認められて良い筈がない。しかし嘘を吐いているようにも見えなくて、もしあのまま連れて行かれていたら私はどうなっていたのだろうと想像するだけでおぞましい。それこそ目覚めないうちに死んでしまっていたのではないか。つまり、経緯はどうであれ折原臨也というこの男は、そんな状況から私を救ってくれた恩人だという事に変わりはない。

ふいに今朝のニュースを思い出す。最近家出をする若者が次々と姿を眩ましている、と。テレビの向こうのお偉い専門家は『親と子のすれ違い』を深刻化した問題点として重要視していたけれど、また一方で、そういう若者をターゲットにした誘拐犯グループがいるのではないかという意見も少なくはなかった。もしかしたら私は巻き込まれ掛けたのではないかと思うと、身の毛のよだつ思いがした。



「そ、そうだったんですか……本当にありがとう御座いました。折原さんがいなかったら、私……どうなっていたことか」



是非何かお礼をさせてください、と。言い掛けてすぐに口を紡いだ。じゃあ、あの首は?何故こんなところに?疑問の視線を投げ掛けた途端に、彼の瞳の色が変わる。あの好青年を思わせる笑みは既に消え失せ、彼はそれでもニヤリと怪しげな笑みを浮かべていた。

次の瞬間、私の世界が暗転する。頭上で両手を押し付けられ、気付いたら私は押し倒されていた。両手を縛るのは彼の腕1本のみ、こんなに細身であるにも関わらず、想像以上に腕の力は強い。それは相手を男だと身を持って思い知らされると同時に、脳が身の危険を訴え始めた。冷たい汗が頬を伝う。彼は怯える私を見て、すうっと瞳を薄めて笑うと、耳元に唇を寄せた。



「うんそうだね。もし俺が君を"買わなかったら"、今頃怪しい薬の被験者になっていたのかもしれないね」

「"買う"……?それ、どういう意味ですか!?」

「あの男達も相当渋ってねえ……大変だったんだよ?何たって君みたいな良質な素材は、結構な値で買い取ってもらえるらしいし。だからまぁ、俺はその取引値に0をいくつか付け加えただけなんだけど。……分かる?俺は君を手に入れる為に、かなりの手間暇と金を費やしたって訳」



信じられなかった。この男が口にする事全て。何よりも『人間は皆平等』と唱われている現代の日本で、私という人間が物扱いされているという残酷な事実。この男の知る世界は何?私の知る世界とは違う、こんなにも世界は違い過ぎる――



「私は……物じゃない……」

「そりゃ正論だ。だけど俺に買われた以上、君にはそれ相当の事をしてもらうつもりだよ?」

「た、助けてくれた事は本当に感謝してます!お金なら返しますから!毎月バイト代から少しずつ……」

「へぇ、返してくれるの?これ」

「……!」



人生どうにかなるものだと思っていた。だけど今回ばかりはどうにもならないらしい。目の前に突き付けられた数字は、私が一生懸命働いたって到底返せそうにない高額の金額。お金は返せない、でも研究材料に逆戻りは嫌だ。そんな私に他の選択肢なんて残されていないのかもしれない。これほどの大金を惜しみ無く使うこの男の神経も理解出来ないが、私は藁をも掴む思いで必死に懇願し続けた。

すると彼は、迷いなく1つの提案をする。まるで始めから答えは決まっていたと言わんばかりに、さも当たり前であるかのように。



「君さ、俺の奴隷になりなよ」

「……は?」

「君も聞いた事くらいはあるだろう?かつて世界……勿論日本にも、奴隷制度というものが確かに存在したんだ。皆愛すべき存在であるにも関わらず、人間が人間に仕える時代が」



勿論そんな事は知っている。事実、世界には残酷な制度が存在した。それは今を生きる私達にとって想像しがたい世界――かつて大学受験を経験した私は、知識として頭に残っていた。しかしそれを今再現しようというのだから、やはりこの男の神経を疑ってしまう。

嘆かわしいよねえ、なんて口では言っているけど、きっと心にもない言葉ってやつだ。私の反応を楽しんでいるようにしか見えない。



「でも安心して。俺はなにも君に重労働をさせたい訳じゃあない。ただ……知りたいんだ。かつて人間達が同等であるはずの人間を服従させ、その中で彼等はどんな感情を見出だしていたのか……俺はそれに興味がある」

「……」

「極限酷い事はしたくないからね。大丈夫、君が俺に従ってくれるのなら、そう悪いようにはしないよ。ただし、言う事を聞けないような事があれば、その時にはそれなりの罰を用意しているから。そのつもりで」

「わ、たしは……」

「君に拒否権はないよ?つまり、単純に俺が何を言いたいのかと言うと……君はただ、黙って俺に従えばいい。それ以外は許さない」

「……ッ」



冷たい声。あの透き通るような声から温もりは消え去り、代わりに残されたものは無感情な声だった。そして私は実感するのだ、もう後戻りは出来ないのだと。

帰り道、あの近道を通る事を選んだ己の怠慢さを恨むべきか、とにもかくにも今を生きている現状に喜んでおくべきか。勿論男に感謝はしてる。いくらお金を積まれようと、自殺願望者でない限り、命の価値に勝るものは何もないだろう。しかし多額の借金を返す為のタダ働き、と言った方がまだ聞こえは良い。奴隷――つまり主人の言いなり。これが一体何を意味しているのか、私には分からない。



「……あの、とりあえず今日は帰っても……」

「? どうして?」

「そ、その……お風呂にも入っていないですし……」

「此処のを使うといいよ。……ていうか、帰す気なんてさらさらないし。逃げられちゃあ困るもんね」



掴まれた腕がズキズキと痛い。彼の瞳は何処までも暗くて、見る者に己の感情をさらけ出さない。だから私には彼の考えなど分かる筈もなくて、寧ろ理解なんてしたくもなかった。



「ま、俺も鬼じゃあないから。そうだなぁ、期間は30日。期間中の君の態度次第で、1ヶ月後には解放してあげる。ただし、もし君が俺の言う事が聞けないような悪い子だった場合、その時は……分かるよね?」



――……あぁ、そうか。



彼にとって、これは単なるゲーム。そして今の私が生きているのはこの男のお陰だというのも事実。それを無償で、しかもたった1ヶ月で恩を返せるのだと言うのだから、前向きに考えればある意味良い条件なのかもしれない。どの道、今の私に選択肢など他には存在しないのだから。早く、今すぐ受理しなくては――

この時の私は、彼の言葉の真の意味をちっとも理解していなかったのだ。『折原臨也』という名の情報屋相手に、中途半端な甘い考えは一切通用しない。それは後々嫌でも知る事となる。それも、今から数時間後に。

「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -