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彼女は知っているだろうか?かつて人間が行ったという、こんな実験の存在を。



ーー人間の複雑な心理状態を意味付けた、こんな実験結果がある。

ーー継続的に優しく餌を与える者と、鞭などによって心身共に痛みを与える者。犬は一体どちらに懐くだろう。



結果は意外や意外。犬がしっぽを振って懐いたのは、なんと後者の方だったのだ。実際に犬に対して心身的苦痛を与えたとして動物愛好家の間でこの話題はタブーとなっており、俺はこの実験そのものが問題だったのではないかと内心思ったりもしたものだ。まあ、今の時代考えられないことを平気な顔でしでかしてきたのがかつての愛すべき人間たちであった訳で、語り継がれることのない非道な実験が数多く存在していたであろうことは明白だ。それもまた興味深いが、記されてないことを知るというのにはやはり限界がある。

だから、俺は実証したかったのだ。正直快くは思えない実験の被験対象が昔は犬だったのに対し、俺は奴隷という名の人間を使って。犬も人間も同じ生物、生物皆兄弟と言えど、どう考えたって能力や知能に大きな差があるのは明白だ。そして人間の心理はあらゆる他の生物と比べ、優秀であるが故に更に複雑である。なまえに深く同情し、救いの手を差し伸べたシズちゃんと、心身共に苦痛を与え続けてきた俺。さて、なまえの場合はどちらに傾くだろう……?



ーー期待などしていなかった。

ーー断じて、愛なんてものを求めた訳ではない。



繰り返し繰り返し、そればかり考えた。まるで自分自身に言い聞かせるかのように。まるで滑稽ではないか。使役し、やがては捨ててしまえばいいとさえ思っていた研究対象に特別な感情を抱いてしまうなんて、殺すつもりでいたモルモットに情が湧いてしまった哀れな研究者と同類ではないか。

己の探究心を満たすために始めたことが結果、更なる疑問を生んでしまった。あぁ、俺は一体何を知りたかったのだろう。目的すらままならない実験に何の価値もないーーそう思って、放棄した。あまりにも身勝手だと言うのならそう罵ればいい。なまえならきっと大丈夫だ。あそこにはシズちゃんがいるんだし、彼女は俺が思っていた以上に芯の強い人間だった。正直、もっと早い段階で心が壊れると思っていた。その予想が覆られた時点で、もう俺の負けだったのかもしれない。



「(今日であと10日、か)」



それは、俺と彼女の賭けのタイムリミット。もし期間中忠実な奴隷を演じ切れたら解放すると約束した。その先生きようが死のうが知ったこっちゃない。俺への恨みを糧に生きるもよし、屈辱感に死を選ぶもよし。そういえばーー殺してやるとも言ったっけ?彼女がそれを望むなら。



ーー違う。俺は逃げてなどいない。

ーー俺は……










「臨也さん?」



なまえの声ではっとする。窓の外へ向けていた視線を声のした方向へと戻し、今現在自分の置かれた状況を再確認する。簡素なホテルの部屋になまえと2人きり。耳障りな雨音がやけに響く。ーーそうだ。突然雨が降ってきたんだっけ。外にいた俺たちは当然雨宿りするしか術はなく、近くの適当なホテルの一室に慌てて駆け込んだ。我ながらなんて阿呆みたいな話。



「て……天気予報だと、雨が降るのは明日からだったはずなんですけど……ずれ込んじゃったんですかね……?」

「へぇ、明日雨の予報だったんだ。天気予報なんて見てなかった」

「……外れちゃいましたね」

「……」

「……」



沈黙。あんなことがあった直後だ。彼女がそわそわと落ち着かないのも、気まずく感じるのも頷ける。俺は特に気にしてなどいないのだがーーまぁ、確かに。こんな時どういう言葉を口にしたらいいのかよく分からない。それにしてもあのタイミングで雨が降るとは恐れ入った。これは天から俺への当てつけだろうか?神様なんて信じちゃいないけど。



ーーこの流れで彼女を犯すってのも、なんだかなぁ。

ーーとはいえ、こんな狭苦しい部屋で朝までどうしてろっていうのさ。



仕事をするのに必要なパソコンも手段も何もない。正真正銘手ブラである。持ち合わせているものといえば、プライベート用の携帯1台に仕事用の携帯2台。本当はもっとあるのだけれど、まさかこんなことになるなんて想像だにしていなかったから。天候の気まぐれとは本当に傍迷惑な話だ。



「あのさ」

「!!」

「はは、そんなあからさまに怯えなくても……すぐに取って食う訳じゃああるまいし」

「す、すみません……」

「まぁ、なんにせよ俺たちはここから動けない訳だし、とりあえず寝たら?ベッドだけは豪華だからさぁ、ここ」

「あ、あの」

「あぁ、いいよ。俺はソファで寝るから」

「そっ、そういう訳にはいきません!私なら床でもいいですから!」

「いやいや。ていうか、普通に考えてみてよ。あんなことがあった直後に、男がすぐに眠れると思う?」

「へっ……?」



やはり彼女は天然だったらしい。暫し沈黙の後、やがて全てを悟ったのであろうなまえの顔が突然ボッと赤く染まった。それこそまるで文字通り、顔から炎が吹き出るかのように。頭から湯気を出しながら俯き、必死にそれを悟られまいと慌てる姿が何だか可笑しい。



「ま、そういう訳だから」

「……に」

「?」

「い……っ、一緒に!一緒に寝ませんか!!?」



何を言い出すかと思いきや、とんでもないことを言ってきた。



「……いや、だからさぁ。なまえちゃん、ちゃんと理解してる?俺、さっき言ったよねぇ。あんなことがあった直後に、男が……」

「ええと、そ、そういう意味では……!ただ、さすがにソファじゃあ寒いんじゃないかなって!か……風邪、ひきますよ……?」



同じベッドの中に入る時点で、そういう意味合いになるんじゃあ……とか何とか思ったりもしたが、だんだんと考えることすら馬鹿らしくなってやめた。このままの流れでは「じゃあ私もソファで寝ます」と言いかねない。ソファで2人寝るのはいくら何でも無理があるし、安眠の保証は限りなくゼロに等しかった。ただーー必死になって言葉を紡ぐ彼女の姿が純粋に可愛らしくて、つい「いいよ」と了解してしまった自分自身に驚いた。思えば、こうしてすぐ側に他人の温もりを感じながら床に就くこと自体久方ぶりだ。そもそも仕事柄、ベッドで横になることすらままならない。大抵デスク上に突っ伏して寝るか、仮眠を摂る程度でしか忙しさ故に眠ることが出来ないのだ。



「話が戻るけどさ」

「はい」

「本当にこれが君の望んだことなのかい?今更後悔しても、もう遅いけど」

「いいんです。私が望んだことですから」

「……あっそ」



無駄に広いベッドに寝転がり、暫し2人並んで天井を仰ぐ。ややぼんやりと薄暗く照らす程度にベッド脇のランプを点け、残りの灯りは消してしまった。かろうじてなまえの表情を認知出来るくらい。だが、強いてそちら側を見ようとはしなかった。なまえが一体何を思い何を見ているのかは定かでないが、何となく目を合わせてはいけないような気がした。ぐらぐらと覚束ない天秤がいとも簡単に崩れてしまいそうでーー今まで必死になって守り通してきた『何か』が変わってしまうのが怖かった。潔く認めよう。俺は怖い。知りたいと思うことは多々あるが、その逆に無知であることをこんなにも望む自分がいるなんて。

なまえは俺を好きだと言った。本当に?果たしてそれは正常な恋愛感情なのだろうか。今までの自分の行動が恋慕を募らせるものとは考えにくい。大抵、恨まれるか憎まれるかーーそのどちらかだ。だが、なまえだけは違った。なまえ以外の人間で同じことをした試しがないのだから比較しようもないのだけれど、大概のことは知り尽くしていると自負していた俺にとって、この異例の結果はかなりの衝撃であった。



ーー……少し、試してみようか。



未だ暗闇に慣れない視界の中、なまえの名前を呼ぶ。突然名前を呼ばれたことに驚いたのか、「ふ、ふぁい!?」となんとも間抜けな返事が返ってきた。思わず笑ってしまいそうになるのを堪え、なるべく平静さを繕って言葉を続ける。



「あんなことがあった直後、男が簡単に寝付けない理由……君は本当に理解しているのかな」

「そ、それは……」

「仕方ないよねぇ、心理現象なんだから。……さて、ここで問題です。奴隷であることを選んだなまえちゃんは、どうするべきでしょうか……?」



ちなみにこの問題に選択肢はないことを付け足し、相手の出方を待つ。何故なら、この問いに正解と言い切れる答えは存在しないからだ。強いて強要するつもりもないし、実のところ、俺は既に心身共に冷静である。何処ぞの誰かと違い、1度発情してしまったらどうにもならない訳ではない。



「勿論、これは自由解答だよ。君が思うように答えればいい」

「……」



無言。それも想定内。ある意味これは誘導尋問に近いものがあるし、どうすべきか分かっていても、そう簡単に実行できることでもない。要するに「慰めろ」と無言のプレッシャーを掛けてみた訳だが、先程言ったように俺はそれを求めている訳じゃあない。一時的に興奮したのは否めないがーー今のなまえの答えに関しては、至って一般的なものではないか。

期待などしていない。するはずもない、この俺が。なまえに何かを求めてなどーー



「 ……なまえ?」



違和感に思わず視線を向けると、なまえの姿は消えていた。すぐ隣にいたというのに、気配が消えたことにさえ俺は気付けなかったというのか。馬鹿馬鹿しい。俺はいつからそんなに感覚が鈍った?鈍感な自分を内心自嘲する。

問題はなまえだ。彼女は一体何処へ?一緒逃げ出したことを想定するが、瞬時にそうではないことを確認する。なまえはいた。この部屋に。そして驚くべきことにーー布団の中に。



「(……冗談じゃあない)」



そうか、それが君の答えか。そう悟ってしまった途端、身体の異変は突然訪れた。

たった今分かったことがある。俺は自分が思っていた以上に単純で、実は性欲がそれなりに強いということ。波が去れば自然と欲も失せるだろうと思っていたが、なかなかそうもいかないこと。我ながら笑える。寧ろこんな俺を誰か嗤ってくれ。

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