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――一体、何が……

――今、何が、起きた?



それからはスローモーションのようだった。突如ぐらりと傾く大きな身体、どさりと倒れ込んだ静雄さんの脇腹もやはり赤く染まっている。視界を覆った赤色の液体は顔に掛かるとぬるりとしており、暫し動揺した後彼の血液だと判明した。

どうやら人間の脳は重度のパニック状態を引き起こす程上手く回ってはくれないらしい。無事か否か確かめようにも彼を助け起こすのに必要な手足も拘束されている為動かせない。……いや、もし万全な状態でこの状況に直面したとして、やはり私は何も出来ない無意味な存在であっただろう。



「し、静雄さん!!?」



今は無事を確認せよと、硬直していた脳回路がようやく私にそう命じる。何度も何度も名前を呼んだ。それでも静雄さんは呻き声を上げるだけで私の声に応えてくれない。こんな場面に直面して尚何も出来ない無力な自分を純粋に憎いと思った。助け起こす事も、それどころか手を差し伸べる事さえ出来ない。彼の血を浴びる程私はこんなにも近くにいるのに、彼はこうも目の前で苦しそうに呻いているというのに。

助けようともがく度に身体中に巻き付いた縄が徐々に肌へと食い込む。痛い。それでももがき続けた。縄から逃れられたとして、今の自分に何が出来るのかと問われれば何1つ思い浮かばなかったけれど、例えそうであっても何もせずにはいられない。医学に疎い私でもこれだけは分かる。この出血は尋常じゃない……!



「あーあ、なまえのせいだね」



尚も動じぬ透き通るような声。反射的に声のした方向を向くと、右手に小型ナイフを握り締めて肩を竦める臨也さんが立っていた。己の視界に捉え、そこでようやく刃物の存在に気付く。



「わ…、私の……せい?」

「そ、君だよ。君」

「な……んで」

「なんでって、平然と俺との約束を破っている事?それ、契約違反じゃない?」

「ぁ……」



あの日提示されたルールなどもはや記憶しきれてはいないが、確かに彼は口にした。何があろうと主人に逆らってはいけない事や、主人以外の人間と深く関わってはいけない事。例え逆らう意思がなかろうと彼なら問答無用に切り捨てるだろうし、静雄さんを連れてきたのが臨也さんだとはいえそれがルールを破る理由にはならない。それを私はほんの数十時間前に彼の口から直接聞いたではないか。



「だ、だからって!静雄さんを刺すなんて……!」

「あー大丈夫。こいつ、化け物だから。そう簡単には死なないよ」



チラリとだけ視線を向けケロリと話す臨也さんの瞳は酷く冷たい。例えその対象が自分以外であったとしてもぞくりと背中を駆け上がる何かを感じた。多分『背筋が凍る』というのはこういう事を言うのだと思う。

ふいに臨也さんがナイフを握っていた方の手をパッと開く。指と指の間をすり抜け、重力に従って落下したナイフは乾いた音を立てて床へと落ちた。からん、と虚しい音だけが耳に響く。



「ねぇ、なまえ」



端正な顔が至近距離にまで迫り、か細い指が私の顎を持ち上げた。まるで三日月のように口端をにんまりと歪ませながら。どうせ私に拒否権などないくせに。静雄さんが脇腹を抑えながら彼の名を恨めしげに口にするが、やはり臨也さんは全く動じる事などなかった。



「イイコトしよっか。なまえのだぁいすきなやつ」



誰かの言うイイコトが自分にとってのイイコトとは限らない。少なくとも臨也さんにとってのイイコトが私にとってのイイコトではなかった。ただ、人それぞれの価値観が違うだけ。しかし臨也さんは自分の価値観を相手に押し付けるのではなく、巧妙に言葉を使って有無言わせずそれを受け入れさせる力を持っている。

強制させるのは簡単。支配者は時に財産、時に暴力を使って屈伏させればいいのだから。そのどちらにも当てはまらない臨也さんは他人の精神へ訴え掛けるのに特に長けているのだろう。





「……まじかよ」



静雄さんが肩で荒い呼吸を繰り返しながら小さく言葉を漏らす。その横で臨也さんがまじだよ、なんてにっこりと笑いながらあっさりと答えた。例え嘘みたいな話でも臨也さんの言う事はいつだって"まじ"なのだ。



「昨日の今日でまだロクに練習出来てないけど、まぁそこそこの刺激にはなるだろうからさ。ヘタに動かないでね」



やはり脇腹を抑えたままの静雄さんがベッド脇に腰掛け、両足を広げて出来たスペースに私が四つん這いになって顔を埋める。ここまで来ると言わずとも臨也さんの意図は理解出来た。身体を縛っていた赤い縄はようやく解いてもらえたものの、長い間同じ体制でいた為か身体の節々がズキズキと痛い。回らない頭でも痛みだけは鮮明に感知した。

後ろから片手でぐいっと後頭部を掴まれ、必然的に目線が上がる。視界端には赤く染まった部位を押さえ付ける静雄さんの左手がチラリと映った。しかし確かにざっくりと斬り付けられて傷を負った筈のそこは今や出血などしていない。まさかあれほどの大怪我が一瞬にして完治する訳もなく。



「ね?だから言ったじゃない。化け物だって」

「……手前、いちいちペラペラうっせぇんだよ」

「せっかちだなぁシズちゃんは。そんなに早く気持ち良くなりたい訳?」

「ッ、だからそういう意味じゃあ……!」

「ムキになるところが怪しいよ、ね」



この時点で、既に普通じゃない事には気付いていた。

臨也さんはクツクツと小さく笑うとたった一言だけ私に告げる。それはどんな言葉よりも確かで、拒む事など出来やしない絶対的なルールが伴う。悪い夢のようで、だけど夢じゃない残酷な現実を突き付けられた。



「今、何をすべきか……もう分かるよね」

「……はい」



顔も見ぬまま最も短い二文字(返事)を返し、昨日臨也さんから教わったように動かない腕の代わりに顔を寄せる。そんな私を静雄さんは暫しポカンとした表情で見ていたけれど、ズボンのチャックまであと数センチというところでようやく異変に気付き声を荒げた。



「ま…ッ、待てって!!」

「……何。もしかして怖じ気付いちゃった?」

「そういうんじゃねぇよ!俺は……ただ、なまえの本音が聞きたかっただけだ」



静雄さんが物凄い力で私の右手首を取り、顔を目前にまで近付ける。突如豹変したその剣幕に私は暫し呼吸する事さえ忘れていた。



「あんた、本当にあのノミ蟲野郎なんかの奴隷に成り下がる気か!?」

「ッ それ、は……」



一瞬、言葉に詰まる。私は何も始めから奴隷願望があった訳ではない。借りや財産、そしてプライド――その他とにかくたくさんを引っくるめ熟考した結果、今は期間付きでなりたくもない奴隷になった。ただそれだけの話"だった"、のに。

チラリとだけ臨也さんの顔色を伺う、しかし彼は一度たりとも動じていない。そんな臨也さんの表情を目にした途端、私は即座に試されているのだと頭の片隅で冷静に分析した。私の答え方次第で凶にも吉にも成りうるであろう選択の時――臨也さんの反応を気にしつつも、小さな声で事実だけを紡ぐ。下手に助けを請うたところで裏目に出るだけだろうし、我が主人の前では嘘や戯言も通用しない。



「1ヶ月後、それまでの私の頑張り次第で解放してくれるって、臨也さんが」

「そんな軽い口約束守るタマかよこいつが」

「そ、それに!私、臨也さんにはたくさんの借りがあるんです!」

「借り?」

「……命の、恩人なんです……」



命あってこその生だ。そう自分に言い聞かせてしまえば、どんな理不尽でも受け入れる事が出来る。もしあの時死んでいたら悩む事も苦しむ事もなかった。その先に自由の光を見出す事も――主人に認められたいと願う事も、ほんの小さな喜びを噛み締める事さえも。

しかし、静雄さんはそれら全てを容赦無くも切り捨てる。それもたった一言で。



「それ、本当か?」

「……」



――落ち着け、私。

――臨也さんが嘘を吐く訳がないじゃないか。



少しでも疑心を抱いてしまいそうになった自分を恨めしく思う。一体彼は何を言っているのだろう。静雄さんが私の話の何処を疑っているのかは定かでない。臨也さんが私の恩人である事か、1ヶ月後の約束の件か――いや、そもそもこの話自体を疑っている?静雄さんは私を信じていない?



「酷い……」

「! いや、だから俺が言いてぇのは……」

「私が嘘つきだって事ですか?嘘なんか吐いて、私に何のメリットが?」

「違ぇって。だから俺の話を最後までちゃんと……」

「私の事なんて、なんにも知らないくせに……ッ!」



あぁ、これは完全なるただの八つ当たりだ。双方の瞳からポロポロと涙が溢れ出るのは、身勝手な自分への憤りがそうさせていた。静雄さんは悪くない。ただ臨也さんの気まぐれに巻き込まれただけなのだ。だけど私には主人を冒涜する事が出来ない、そして許されない。普段吐き出す事の出来ない弱音や本音が今、ピークを迎え爆発した。例えその矛先が無関係な人間であろうと誰であろうと、勢い良く流れ出た感情に再び蓋を被せる事など一体誰が出来ようか。

これまでの様々な重みに今にも押し潰されそうな私の心は、ほぼ情緒不安定とまで言ってもおかしくない程に追い詰められていたらしい。涙が止まらない、寧ろ勢いは次第に増すばかり。



「これ以上考えるのは、もう嫌」

「……なまえ」

「気に掛けてくれた事は感謝します。……悪いようには、しませんから……」



何も考えずに済むのならどんな事だってこなしてみせる。全ては主人の仰せのままに――逆に言えば、自分が傷付きたくないが故に。

私は、考える事をやめたのだ。

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