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「お疲れ様」



私の頭を引き離すと身なりを整え始める臨也さん。ジジ…と音を立てて閉まるチャックを私は名残惜しげな瞳で見つめていた。別に初めから期待なんてしちゃいなかったけど、今更見返りなんて求めちゃいないし。

本来飲むべきものではないそれは普通の味覚では到底好きになれそうもなく、口内に後引いて残る苦味に思わず片手で口を覆う。未だに痰が詰まったような違和感の残る喉。目尻にじわりと涙を浮かべる私の頬に臨也さんがそっと手を差し伸べた。また何か無茶な事を言われるんじゃないかと無意識に身構えた矢先、引き寄せられた先は温かな彼の胸の中。まるで泣きじゃくる子供をあやすように優しく頭を撫でられ、あまりの激変振りに言葉が出ない。



「よく頑張ったね。偉い偉い」



そう言って微笑み掛ける彼の表情は先程までと大きく違い、人を上から嘲笑うようなものではなかった。同等のものを愛でるその優しい眼差しが奴隷という立場の私には苦しい。これが一瞬の気の迷いだと言うのなら中途半端な優しさなんていらない、優しくなんてされたくない。本気で愛される事など絶対にあり得ないと十二分に理解しているつもりなのに、それでもありもしない未来を期待してしまうくらいならいっそ――



「……離して」



震える声で、そう呟く。同時に臨也さんの手の動きがピタリと止まった。彼の本音をずっとずっと聞きたかったのだ。聞きたくても躊躇していた。もしその理由を聞いてしまったら、偽りの愛さえも与えて貰えなくなるような気がして。

ストレート過ぎる拒絶の言葉に臨也さんは特に気を悪くした風でもなく、ただ無言のまま私の顔をじっと見つめている。目を合わせたら何も言えなくなってしまいそうで、敢えて下を向いたまま言葉を続けた。ずっとずっと考えていた事を初めてありのまま口にした。



「どうして臨也さんは、私にそうやって優しくするんですか……?いつもみたいに、酷く扱ってくれればいいのに……そうしたら私は臨也さんの事……嫌いになれるのに」

「へぇ。なまえは俺を嫌いになりたいのかい?」

「そ、そういう訳では……ないですけど……」



誰だって嫌いな人は少ない方がいい。私は何も彼の事を嫌いになりたい訳ではないのだ。寧ろ彼へと抱く感情の名をここ最近ずっと模索し続けている。本当は薄々気付いてはいるのに立場上なかなか認める事が出来ずにいるのもまた事実で。



「簡単な話さ、人を嫌うなんて。寧ろ好きになる方が難しいと思うね、俺は」



それは全人類を愛してると高らかに公言する彼の思考からは少しズレているような気がした。彼は以前、人間である以上老若男女問わず愛せる自信があると私に話した事がある。しかしそのカテゴリーの中に『奴隷』は含まれていない。愛すべき人間には出来ない事をする為に存在するのが彼にとっての奴隷であり、所謂私という存在なのだから。

人を好きになる事と愛する事は似ているようで根本的には別種のものなのかもしれない。彼の持つ特有の人間学に思いを寄せてみる。



「何なら今から適当な連中を呼んで……勿論シズちゃんでもいいんだけど、君の事を強引に犯せと命じたとしよう。君は望まぬ性行為を強要される訳だから、きっと心置きなく俺の事を憎めるよ。試してみる?」

「!?」



一瞬身体を強張せる私に臨也さんが冗談だよと言って笑った。正直、全然冗談には聞こえなかったが。限り無くそれに近い仕打ちを受けたのは事実だし、仮にそんな事がもし現実にあったとして私はどうなってしまうのだろう。本当に彼を嫌う事が出来るのか?それ以前に今の時点で臨也さんを嫌いになれない私は一体?

私が今まで考えていた『人を好きになるという事』とは。相手のちょっとした優しさにキュンとしたり、一緒にいるだけで幸せな気持ちになれたり――そんな日々日常の中にありふれた小さな幸せを積み重ねていくうちに自然と好意を寄せていくものだと思っていた。



――私は臨也さんの事をどう思っているんだろう。

――好き、なのかな……?



もし本当に臨也さんの事が好きだったとしたら、私は今までに培ってきた恋愛に関する知識や経験をほぼ全て裏切る事になる。しかしよく分からないのが正直なところ。嫌いになれないからと言って好きだと言える人でもない。普段の扱いが酷い上に、それこそ今まで培ってきた常識を引っくり返す事になるだろうから。

ただし、これだけははっきりと断言出来る。私は臨也さんを嫌いにはなれない。



「そうだ。駆けの件だけど……今回は素直に俺の負けを認めてあげる」

「! それって」



もし君が俺を"その気"にする事が出来たら、ご褒美をあげる。これは臨也さんが私に提案した1つの駆けのルール。臨也さんが負けを認めたという事はつまり彼を"その気"にする事が出来た私の勝利を暗に意味する事になる。その気、という敢えて曖昧な言葉を選んだ彼も随分と意地が悪い。それも今に始まった事ではないのだけれど。彼の言葉をどう捉えたらいいか、またそれは何を意味しているのか――再び巡るたくさんの疑問が私の思考を途切らす。言葉にしない、出来ないというのは実に面倒だ。もし私が奴隷でなかったらありのままの気持ちを言葉にする事が出来ただろうに。

本能が面倒だと告げたのか一旦考える事を放置した脳が、彼の衝撃的な一言を機に再び機能を取り戻す。



「5分、時間をあげる。その間俺は如何なる行動も目を瞑っててあげるよ。つまり君がこの部屋から逃げ出して元の日常を取り戻そうが、或いは俺の事を憎しみのあまり刺そうが……それは君の自由だ」



ま、好きにすればいいさとまるで他人事のように片手をヒラヒラとさせる臨也さん。特にこれといった変化は見せない。彼がまた私の事を試しているとするとやはり臨也さんの望む通りの選択をすべきか。しかし例に挙げられた2つの選択はどちらも臨也さんのメリットに成り得ない。ならば私はどうしたら――迷いはすれど、どの選択肢が最も自分を安全圏に運ぶのか今の私には見当すらつかない。



「……それ、本気で言ってるんですか……?」

「勿論。こんな時にまで冗談は言わないよ」



突きつけられた選択に狼狽える私。その間にも臨也さんはゆっくりとその瞳を閉じてしまった。口元に薄く笑みを貼り付かせたまま。

今、私を監視する眼はどこにもない。目の前にいる臨也さんは確かに両目を閉じているし、場所が場所なだけあって部屋のセキュリティーは万全だ。監視カメラも見当たらない。この部屋から一歩足を踏み出せば私は人間に戻れるのだ。突然舞い降りてきた解放のチャンスを素直に喜べばいいものの、あまりに突拍子過ぎた為か大した現実味を感じられない。例えるならばまるで夢を見ているような感覚、膜が張ったみたいに意識が二重になっている。夢と現実の狭間はいつだって蕩けるように曖昧で、そんな意識を突然何かが踏み入るように邪魔をした。



――もう、会えなくなる?



何度も何度も夢想した自由を取り戻し得た生活。それは臨也さんと出会う前までの日常を指していた。そこに従うべき者の姿は何処にもない。主人と奴隷の主従関係が途切れてしまっては彼との唯一の繋がりは脆くも途絶えてしまうだろう。



「……それはつまり、この5分内であれば私は何をしてもいいって事ですよね」



念入りに確認するように何度言葉を反復させても、少なからず殺される可能性があるにせよ、それでも臨也さんは自分の発言を取り消そうとはしなかった。この5分の間は何をしても無条件に全てが許される。しかしいかに有効活用すべきか考える有余も皆無。そこで私が最も望んだ1つの選択肢とは――奴隷からの永遠的解放ではなく、たった一時限りの彼からの"愛情"。

首やら鎖骨には紅い痕を容赦無く残す癖して、いつだって臨也さんは唇にキスをしてくれなかった。それが何だか焦らされているようで、気付いたら自分からそれを望むようになっていた。偽りでもいい、少しでも愛されている錯覚が欲しい。そう願ってしまうあたり私は既に堕ちてしまっていたのかもしれない。互いの唇の距離をぐんと縮め、彼のその端正な顔立ちを至近距離でじっと見つめる。出会った時から思っていたがまさに眉目秀麗という褒め言葉を見事に具体化したような精悍な顔立ちだ。なかなか行動に移せぬまま、暫しの間見とれてしまう。



「3分」

「!」

「あと、3分だよ?」

「え、……あっ」



彼の閉じた唇が突然タイムリミットを告げた瞬間ハッと我に帰る。壁に掛かった時計へ視線を向けると時間は確かにぴったり2分進んでおり、もしかしたら彼は目を瞑っていないのではないかと僅かな疑心が頭を過るが、どう見たって双方の瞼は完全に閉じきっていたし恐らく彼は己の中で培ってきた時間の感覚だけでそう告げたのだろう。それも秒単位でかなり正確に。

意を決し、ぐっと固く結んだ己の唇を臨也さんのそれに押し付ける。想像していたよりも柔らかな感触に胸の鼓動が格段に高鳴る。



「……! ッ!?」



ほんの一瞬、

臨也さんの目が、口が、

にんまりと笑った気がした。



「  !」



彼の腕が腰へと回りきつく絡み付く。ほんの一瞬の隙を突かれ、目を丸くさせる私の唇からぬるりとした異物が入り込んでくる。予想外な展開に驚いた私は密着した彼の身体を思わず――固く拘束されたままの両手で思い切り突き飛ばしてしまったのだ。


「まっ、待って下さい臨也さん!」

自分から仕掛けておいてあまりにも矛盾していると思う。反射的に突き飛ばしてしまった己の両腕が恨めしい。何とか弁解すべくも言葉が出ず、気まずさから視線を逸らす。同時に今の行動に疑問を抱いた。これじゃあまるで好きな相手に照れ隠しをしているみたいではないか。行き場を失った私の両手を臨也さんは無言のままパシリと捕らえ、再び身体を引き寄せる。そして――また"あの感触"。

あれだけ避け続けられてきた唇へのキスを、私達は今交わしている。呼吸がままならない程に激しく濃厚に絡み合い、今まで焦らしてきた分を補うかのように。



「ふぁ、……い、いざやさ……ァ」



やがてこれからの事だとか互いの立場だとか、正直どうでもよくなってきてしまった。思考はチーズのようにとろんと蕩け、もはや修復不可能。臨也さんとのキスがこんなにも気持ち良いものだったなんて今まで知る由もなかった。1度知ってしまった味は簡単に忘れ去る事など出来やしない。

ただ、ひたすら私は求め続けた。何度も何度も角度を変えて、時間がそれを許す限り。これが主人である臨也さんとの初めて交わしたキスだった――

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