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ごうごうと乾燥機が音を立てる中、何故か私は臨也さんと1つの浴槽で密着しているという摩訶不思議な状況に陥っている。



「たまには朝風呂ってのもいいもんだよね」

「はあ……そうですね」



湯船に張られた湯は濃いピンク色に染まっており、ピンクローズの甘い香りが鼻を掠める。必然的に臨也さんの胸に背を預ける形で湯に浸かった私は、このどうしようもない状況をいかに脱するべきか考えていた。しかし、そう簡単に打開策が思い付く訳もない。なにしろ、着る服がないのだ。

少しでも片腕を振り上げれば、じゃば、と小さな飛沫が上がる。湯特有の浮遊感に身体を丸ごと包まれながら、私はやり場のない視線を真っ白な天井へと向けていた。湯気で満たされた浴室は白み、瞼を擦る。絶妙な湯加減があまりに心地よく、少しでも気を抜けば今にも眠りへと誘われてしまいそうだった。



ーーそうだよ。私、昨夜シズちゃんと……

ーーなるほど、どうりでこんなに眠い訳だ。



酷く気怠い身体は正常な思考能力さえも奪い去る。それ故、ツッコミどころ満載の今の状況を上手く客観視できていないのかもしれない。



「おっと、危ない」

「!!」



耳元に息を吹きかけるようにして、艶を含んだ声がそっと囁く。思わずずるりと傾いた身体を後ろから支えられ、どこか夢心地でぬるま湯に漂っていた私は直ぐさま現実世界へと引き戻された。咄嗟に振り返ればその拍子に浴槽の底で足を滑らせ、鼻先までどぷりと湯に沈み込んでしまう。転んだ際に湯を飲み込んだのか、げほげほと咽せる私を指差し、またも彼はケラケラと笑った。まるで子どものように無邪気な笑顔で。



「あっははははは!」

「いっ、いくらなんでも笑い過ぎ!」



口から入り込んだ湯を全て吐き出し切ったところで反論すると、その声は喚き声のようにわんわんと大きく響き渡る。それでも笑うことをやめない臨也さんに対し、私は渋々と肩まで浸かり直すのだった。

私は一体何をしているのだろう。やらなければならないことがたくさんあるというのに、すっかりこの男のペースに呑まれてしまっている。しかし彼は決して強引に迫ろうという気はないらしく、無理に何かを強要しようともせず。なら、一体何の目的があってこんなことをしているのか。



「そんなに警戒しなくても、今は何もしないよ」

「!」

「そりゃあ俺だって男だし、色々したいって思うのもあるけど」



臨也さんはそう言うと私の身体を包み込むようにして抱き締め、肩に顔を埋める。



「こういうのも悪くないなって」

「……ッ!」

「あ、今すごい心臓脈打ってる」

「そっ、そりゃあ、こんなことされたら……!」

「アイツともしてるの?」

「……アイツ?シズちゃんのことですか?」

「こうやって一緒に、色々さ」

「色々……って。まぁ、そりゃあ一緒に暮らしていれば……彼氏、ですし」



それからも臨也さんは様々なことを聞いてきた。それはどれも他愛のないもので、例えば夕飯に何を作るのか、だとか、普段何を話すのか、だとか。そしてシズちゃんが人並みの生活を営んでいることがよほど想像もつかないようで、私の言うことに一々驚いているようだった。

彼らは互いに嫌い合っているが、その理由はいまいちピンとこない。話を聞いても筋が通っていないというか、ただ本能的に気に食わないのだと口を揃えて言う。もし互いに相手のことを知ろうと歩み寄れたなら少しずつ誤解も解けていくのではと思うのだが、きっとそれが実現することはないだろうし、両者の反応を見る限りだと歩み寄ろうとする意思さえ感じられない。今となってはもはや顔を合わせることすら滅多にないというのに、特定の人物を意味もなく嫌い続けることができるというのもまた違った意味ですごいと思う。普通なら嫌なことは忘れたいし、それこそ本能的に頭の外へと追いやってしまうのが普通ではないか。私がかつて嫌な過去から逃げたいが為に、そうしてきたように。



「きっと『嫌い』と『好き』は人間の持つ感情の中で最も強いものなんだよ。切り離そうにも切り離せない。特定の人物を嫌い続けるのも、無謀な恋心を馬鹿みたいに抱き続けるのも、それが頭では無意味だと分かっていても……人間ってのは、そういう意味のないことをする生き物なんだよ。きっとこの地球上に住む生物の中で、何よりも無駄な時間と労力を費やしているんだろうねぇ。寿命が短ろうと個々のすべきことを全うしている虫なんかの方が、長生きする割に自分の存在意義を何1つ分かっちゃいない輩よりもよっぽど賢明だね」

「でも……臨也はそんな人間を愛しているんでしょう?」

「あぁ、そうさ。愛してるよ。……ほんと、それこそ馬鹿みたいに」

「……臨也?」

「分かってる。人間は弱くて、儚くて……けど、それだけ意思の強い生き物なんだ。そして君がどれだけ芯の強い子かってことも、知ってる。俺が何を言ったって、きっと何も変わらないんだろう」

「……何を、言ってるんですか?」

「さぁ、俺にもよく分からない。ただ、俺は自分がえらく卑怯な奴だってことは知っている。だから例え誰にそう言われようと『あぁ、そうさ』と言って笑うだけさ」



彼が何を言っているのか理解出来ず、ただ背中に密着した彼の胸の鼓動も大きく脈打っていることに気付く。薔薇色に色付いた湯には彼の影のようなものが確かに映り、ゆらゆらと揺れていたが、その表情を伺い知れるほど鮮明なものではなかった。しかし、浴槽の中で大の大人がこんなにも密着しーーおまけに互いに裸であることを考えると、この状況はさすがにまずい。彼との間には衣類分の布1枚の隔たりすらないのだ。

直接触れ合った部分が熱を帯び、それとはまた別の熱が身体中を巡る。まるで血液の流れの如く、至るところ隅々まで。



「俺はいつの間にこんな優柔不断な人間になったんだか」



何かを諦めたような、気怠い声と共に吐き出された溜息。その溜息の意味を私が知る由もなく。

その時、強烈な目眩が全身を襲う。暗闇の中でも確かに色彩のあった世界が、白と黒だけに切り離されて色をなくしていく。体勢を立て直す余裕などなかった。不可視の力に押さえられるように肩の力が抜けた私は、完全に臨也さんの方へと寄り掛かる。体温の低い彼の身体は湯船の湯よりも心なしか冷たく感じられ、何処か心地良い。すでに意識を保つのは諦めていた。「みさき?」名前を呼ばれているのは分かっている。なのに、すぐに声と人物の顔が結びつかない。



「……シズちゃん……」



それは、ほぼ無意識のうちに出た言葉だった。何故、今このタイミングでその名を呼んだのかは分からない。



「……逆上せたのかな。身体がやけに熱いし、心拍数も高い」

「のぼ、せ……?……あぁ、そうだ。私、逆上せやすい体質で……あの時も、シズちゃんに助けてもらって……」

「あの時?」



駄目だ、どうしようもなくクラクラする。臨也さんの言葉がもはや何1つ頭に入ってこない。単色に色褪せた世界の中で、私は遠のいて行く己の意識を素直に手放すことしか出来なかった。




「ずっとこのまま目覚めなければいいのにね」



そう言ったのは誰だろう。声の主が男なのか女なのか、それさえも分からず。導かれるように瞼を開けた視界の先に見えたのは、浴室ではない別の部屋の高い天井だった。未だに意識の覚束ない中、火照った身体を横たわらせたまま、視線だけを動かす。脳から身体の各部位へと動くよう指令を送るが、どうやらその神経は鈍っているらしく、思い通りに動かすことができない。僅かながらピクリと反応を示した右手も、ほんの少し持ち上げるだけで精一杯だった。



「お目覚めかい?」



突然掛けられたその声にも驚くことなく、私は声のした方へと顔を向ける。灰色のパーカーに半ズボンといった普段見ることのないラフな格好に身を包んだ臨也さんは、私が目を覚ましたことに気付くなり、コップ一杯に注がれた水をこちらに差し出した。しかし、起き上がることすらままならない今の私の状況をすぐに察すると、一旦そのコップをテーブルへと置き、こちらに向かって手を伸ばす。額に当てられたその手はひんやりと冷たく、そして優しい。

一体どのくらいの時間が経ったのだろう。壁に掛けられた時計に目をやると、針は朝の8時を指していた。思っていたよりも大して時間が経っていないことに安堵し、どうにか起き上がろうと力を込めるも、上半身を持ち上げることだけで今は限界のようだ。深く考え過ぎたあまりに酷使された脳は考えることを放置し、若干思考が鈍っている。だからこそ、なのだろうけど、自分が裸であることを思い出すのもそれから数十分後のことで。



「……あの、服……」

「あぁ、今そこに干してるけど、まだ乾ききってないよ?とはいえその格好では寒いだろうから、これでも着ているといい」



そう言って手渡されたバスローブをどうにか身に纏うと、それだけで力尽きてしまった身体は再びベッドへと深く沈み込んだ。

お風呂で逆上せてーーそれから?それからどうしたんだっけ。記憶がないということは、恐らく彼が意識のない私をここまで運んでくれたのだろう。よくよく考えてみるとそれはあまりに恥ずかしい出来事なのだが、この時ばかりは普通の解釈には至らず、襲い来る気怠さに頭がどうにかなってしまったようだ。



「まだ本調子って訳にはいかないようだね。具合はどう?熱はまだ下がっていないようだけど」

「大丈夫……です。ちょっとクラクラしますけど……だいぶ楽になりました」

「それはよかった。ところで、君をここに運ぶ際、見てしまった訳だけど……その身体の傷、もしかしてシズちゃん?」

「傷……ですか?」

「自分でも気付いてない?ほら、その首筋にも。キスマークにしてはやけにどす黒いし、もしかしたら時間が経って痣になったのかもしれないね。正直、その痣を見る限りだと尋常じゃないよ。虐待だって思われてもおかしくない」



そう言って訝しげな表情を見せる彼の表情を見る限りだと、どうやらその傷の具合はかなり酷いようで、その視線を辿った先に触れてみると、確かにピリッと電流のような鋭い痛みが首筋を走った。若干膨れているように感じるのはミミズ腫れだろうか。確かに、1度傷を認知してしまうと痛みが際立ってしまうものだ。身体の節々が痛むのもそのせいなのかもしれない。



「みさきは痛いのが好きなのかな」

「そんな趣味はありません」

「でもさ、あの化け物を相手にする訳だから、その程度で済むのが逆に奇跡なのかもしれないね。今まで死人が出ていないってのも驚きだけど、もしかしたらアイツなりに自制しているのかな。今後のために、そのあたりは是非とも詳しくお聞かせ願いたい」

「臨也に話したら、きっとロクでもないことを考えるんでしょう?」



いずれにせよ、例え相手が臨也さん以外の誰であろうと、シズちゃんのことを口外するつもりは毛頭ない。彼の生活に何らかの支障を齎すと判断した時点で口を噤むと決めている。



「正直、アイツのことなんて知りたくもないけどね。ただ俺は自分の身を守る為に知りたいだけさ。自衛本能だよ」

「なら、どうして臨也は……いえ、やっぱりやめておきます」

「いいの?聞かなくて」

「聞いたところで、私が今やるべきことは決まっていますから」

「その身体でまだ動こうと言うのかい?やめときなよ。君は確かに普通じゃないけど、所詮ただの”人”だよ。特別じゃない。銃で撃たれたら簡単に死ぬ、か弱い人間さ。アイツと違ってね」

「……それでも、」

「いいかい?みさき。ただ俺は君を心配して言ってるんだ。今回の件で俺が絡んでいることはお察しの通りさ。けど、俺はみさきがボロボロになるところを見たい訳じゃあない。俺が見たいのは……」



そこまで言うと臨也さんはハッと我に返り「とにかく、だ」と話を括ってしまう。



「ここから出たいと言うのなら、俺はそれを阻止するよ。どんなに汚い手を使ってでも」

「で、でも、私……ッ、 !?」



その時、言葉を遮るように唇へと何かを押し当てられる。それはとても柔らかくて、彼の唇であることに気付くまでそう時間はかからなかった。触れていただけのそれは急に激しさを増し、にゅるりと侵入した熱い舌によって口内を犯されてゆく。まるで呼吸を奪われるようなキスに、ただでさえ気怠い身体からは奪われる体力すら残されておらず、抵抗しようにも掴んだ肩に縋ることしかできなかった。ただ押し倒されぬよう体勢を保つことしか頭にない。他のことを考える余裕など皆無。



「ふぅ、……ン、む……ッ!」

「……みさき」



ようやく唇が離れ、臨也さんは諭すように私の名前をはっきりと呼ぶと、見据えるように真っ直ぐな目でこちらを見つめた。真剣なその眼差しにはいつになく鋭い光が灯り、いかに彼が真剣であるかを物語っていた。こんなにも鬼気迫るものを感じたのはこれが初めてだ。普段見せないような表情を目の当たりにし、動揺してしまったのかもしれない。心臓がうるさいくらいに早鐘を鳴らすのも、きっとキスだけが原因じゃないはず。

理屈ではない。本能が告げる。彼が言っていることは”正しい”。



「……8時過ぎ、か。まだ時間はあるな」



彼が今から何をしようとしているのか、それは身を持って理解することとなる。臨也さんは私に馬乗りになったかと思えば、強引にバスローブを脱がしにかかったのだ。「待って」の声もお構いなしに、明るい部屋で露わにされてゆく肌。当然、恥ずかしいに決まっている。シズちゃんの前でさえこんなにも明るい中、堂々と裸になったことがあっただろうか。一糸纏わぬ姿を見られたくないが故に必死になって制止の声を上げるも虚しく、それこそ文字通りみぐるみ全部剥がされてしまった。バスローブなんてバスタオルも同然。簡単に脱がされてしまう。羞恥のあまり思わず両目を瞑る私に、臨也さんは「ちゃんと見て」と諭すように言った。

恐る恐る、堅く閉ざしていた瞼をゆっくりと開ける。光を放つ豪華なシャンデリアがやけに眩しい。



「ほら、君の身体。こんなにもボロボロなんだよ?」

「あ……」


確かに、私の身体には痛々しい無数の傷痕が残されていた。腰には掴まれた際に食い込んだであろう爪痕や、指の腹の指圧による黒い痣。行為中は部屋が暗かったことに加え、傷みよりも快感が強かったのだろう。だが、こうして今改めて事後の身体を見てみると、どれだけの痛みが伴った行為であったかを冷静に客観視することができる。痛みつけられたという実感はない。シズちゃんにそのような意思があったとも思えない。少なくとも、彼は彼なりに私を愛してくれた。それだけは確かだ。

不思議なことにこの酷い有り様を見ても尚、やけに頭の中は冷静だった。他人事のように「確かに痛そうだ」と思うだけで、この傷が自分のものだと思えないのだ。痛くないと言ったら嘘になるが、だからといってシズちゃんに対する気持ちが揺らぐこともない。



「……もう、分かりましたから……服、返してください」

「やけに冷静だね。おまけにこの状況で、俺がただ傷が酷いねだけで済ませると?」

「できれば済ませてもらいたいです」

「……はは。こんなもの見せつけられて、無理に決まってる。俺には分かるよ。この痛々しい傷痕も全部、アイツからの愛の証だと言いたいんだろう?普通じゃないけどね」

「……」

「はは、……あっはは!君は本当に寛大な人間だ!こんなにも歪んだ愛の形も受け入れることができるなんてね!」



彼は笑う。お気に入りの玩具で遊ぶ子どものように、どこまでも純粋な好奇の目をギラギラと輝かせながら。



「それじゃあさ、受け取ってくれる?」

「俺の、愛の形」

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