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着いた場所はいつもの見慣れた事務所ではなく、全く別物の事務所のようだった。彼曰く都内にいくつかマンションを所有しており、情報屋という職業柄必要に応じて拠点を変えているという。相変わらず上層階の部屋を借りているあたりが高所好きの臨也さんらしい。高いマンションを見上げてはきょろきょろと落ち着かない私の手を取り、連れられた先は大理石の浴室。ほとんど使われていないであろう水垢1つない真っ白な床に、真っ白な壁、真っ白な天井ーーあまりに全てが真っ白過ぎるものだから、その眩しさに思わず目がチカチカしてしまった。



「うわぁ、すごい」

「何処ぞの浴室なんかより、よっぽど上等だろう?ほとんど使ったことはないんだけど」

「そうでしょうね……見るからに」



それでは、どうぞごゆっくり。そう言って臨也さんはまるで執事のように仰々しく頭を下げ、ご丁寧にもクリーニング仕立ての上質なタオルを用意してくれた。ここまで来てしまった訳だし、せっかくだからその好意に甘えるとしよう。わざわざアパートに帰るまでの距離を考えれば、ここでシャワーを浴びてしまった方が時間を短縮出来るのも確実。下着は途中、適当な店で買えばいいーーというのも表向きの動機付けな訳で、実はというと、この広くて豪華な浴室がとても魅力的だったのだ。磨き上げられた浴槽は所謂猫脚の洒落たもので、常備されたソープやシャンプーは普段使えないような高価なブランド物で統一されている。持ち主が留守の間は管理人がそういった周辺の管理をしてくれるらしく、月額料金がそれなりの高値であることも頷ける。

服の裾に手を掛けたまさにその時、確かに閉めたはずの扉が背後でガチャリと音を立てた。不審に思い、振り向いた私の視線の先には、何食わぬ顔してその場に立つ臨也さんの姿。その笑顔からは厭らしさなんてものは微塵も感じられず、だからこそまさかそんなことはと心の中で思いつつも、私は確認も兼ねて恐る恐る彼に問い掛ける。



「あ、あの……私、シャワーをお借りしようかと……」

「うん。知ってるよ?そう勧めたのは俺なんだから」

「そ、そうですよね……?えと、じゃあ、今から脱ぐので……、って」



ここで言葉が切れてしまうのも無理はない。それだけの衝撃的過ぎる出来事が、今、目前で起こったのだから。臨也さんは私が言い終えるよりも早く、自らその場で上着を脱ぎ捨てたのだ。いやいや、脱ぐのは貴方じゃなくて私でしょうと心の中でよく分からないことを突っ込むと同時に、この場合どういった反応を返すべきか頭の中で模索し始める。これはきっと、臨也さんが先にシャワーを浴びたいという言葉足らずの意思表示なのだろう。咄嗟にそう解釈した私は、出来るだけ彼を見ないように視線をやや下へと傾けた。一見細身に見える臨也さんの身体は意外にも逞しく、真正面から直視するにはあまりに刺激的過ぎる。



「あっ、……そうですよね。まずは持ち主優先ですよね。それじゃあ私はリビングにいるので、上がったら教え……」

「ちょっと待ってよ」



そそくさと部屋を去ろうとする私の腕を掴み、それを引き止める臨也さん。待ってよと言われ、待てる訳がない。私は今すぐここを立ち去るべきだ。なんたって相手は上半身裸。この状況から推測するに、これから起こり得る事態なんてロクでもないことに決まってる。今まで培ってきた経験がその根拠だ。



「彼氏じゃないのに、なーんて思ってない?そういえば俺たち、恋愛ごっこ継続中だったよね。俺、やめるなんて言ってないし」

「……」

「あのさ、こういうシチュエーションなんてどう?一緒にお風呂、とかさ。別に可笑しなことじゃあないよね。恋人同士なんだから」

「い、臨也……」



動揺を隠し切れず、声が上擦る。何も言えない。言えるわけがない。事の始まりを承諾したのは確かに私自身だ。今思い返せば期限を始めから設けるべきだったと、今更後悔してももう遅い。心拍数が跳ね上がるのは、危機的状況を感知した本能が警告を鳴らすサイン。逆らえず、抵抗も出来ず、私は腕を引かれるがままに大理石の床へととうとう足を踏み入れてしまった。



♂♀



「……あのさぁ、いつまでそうしてるつもり?」



ため息混じりにそう言うと、みさきが俯いたままびくりとその肩を震わせる。それは明らかに俺を恐れているという確かな証拠であった。



ーーこんな反応されちゃうと、さすがに俺もお手上げだなぁ。

ーーまるで狼を目の前にした子兎じゃないか。


首の背に手を当て、ふぅ、と息を吐く。浴室に連れ込んだはいいものの、みさきが脱ぐ気配は一向にない。俺としては無理矢理脱がすというのも品がないし、やはり抵抗がある訳で、出来るだけ事は穏便に済ませたいというのが正直なところ。とはいえ、こうして突拍子のないことを始めたのは紛れもなく俺なのだけれど。

始めからこんなことをするつもりはなかった。ただの、ちょっとした出来心。電話越しであったとは言えど、みさきのあんな声を聞いてしまった後にいざ本人を目の当たりにすると、確かな感情のグラつきを心の何処かで察知してしまった。心臓はいつだって正直で、当然俺も例外ではない。わざとらしく「みさきちゃん?」とちゃん付けて呼ぶと、彼女は真っ赤に染まった顔でこちらを見上げ、無言のまま何かを訴えるのだった。大方、シズちゃんのことを理由に言い返したいのだろうけれど、今ここでヤツの名前を出してしまったらあの電話の件を深く追求されてしまうのではないかと躊躇している、といったところか。



「ほら、俺の目を見て」



先ほどとは打って変わって、子どもを嗜めるような声音で囁きかける。耳元にかかっていた髪を柔らかく掻き上げ、鼓膜に直接流し込むように甘く、優しく。その声に促されるように、みさきは伏せていた目線をおずおずと持ち上げた。



「大丈夫。痛いことはしないから」



彼女を安心させようと、俺は極力、それこそ割れ物を扱うような優しい手つきでその肩に触れる。そしてにっこりと笑い掛けてみせると、みさきはほんの少し安心したのか強張らせた肩をすとんと落とした。しかし、決して完全に身を委ねた訳ではない。ここが彼女の強情なところで、頑なに気を許そうとはしないのだ。そうこうしているうちに無情にも時間だけが刻一刻と進み、彼女の中で焦燥感が募ってゆくのを俺は感じ取っていた。

何かを言い掛けた彼女の唇に人差し指を押し当て、言葉を遮る。みさきが何を言いたいのかは手に取るように分かってしまうので、敢えてそれを本人の口から聞こうとは思わなかった。ふにふにとその柔らかい唇の感触を指先で弄び、思わずくすりと笑う。されるがまま、何処か複雑な表情を見せるみさきの顔がなんだかおかしかったから。きっと心の中で凄まじい葛藤を続けているのだろう。



「じゃあさ、こういうのはどう?恥ずかしいのならシャワー室の電気を消せばいい。このくらいなら譲歩するよ」



そんな俺の提案に彼女は暫し悩み込んでいたが、やがて「わかりました」と遠慮がちに頷く。どうせこのままでは両者一向に引かず、時間の無駄だと理解したのだろう。賢明な判断だ。

腕を伸ばし、シャワー室の電気をパチリと切ると、途端に辺りは真っ暗になった。窓1つない、外の世界から完全に遮断されたこの部屋は、時間問わず電気なしでは夜も同然。それでもみさきの気配だけを頼りに、俺は早速彼女の服を脱がしにかかった。見えずとも、みさきの明らかな動揺が空気を通じて感じ取ることができる。服の裾を掴んだ瞬間、強張る身体。張り詰めたような空気がピリピリと肌に突き刺さる。警戒しているのだろう。



「腕、あげて」



俺の言葉に従い、両腕を挙げるみさき。シャツをすぽんと脱がしてやるが、残念なことに真っ暗で何も見えない。ぱさり、脱がした衣服が床へと落ちる乾いた音だけがやけに響き渡る暗闇の中、手に触れる感触だけがみさきの反応を知る唯一の術だった。それにしても、面白いくらいに分かりやすい。彼女がよほど敏感なのか、それとも俺のことを過剰に意識しているせいか。



「っ!」

「あは、もしかして感じてる?」

「ち、違……っ、ちょっとくすぐったいだけ……」



素直に言えばいいのに。ぽつりとそう呟いた言葉はみさきの耳に届くことなく、シャワーの水音によって掻き消された。蛇口を捻り、噴射口から吐き出された水はまだ冷たい。水が徐々に温かくなってゆくタイミングを手の平で計らい、やがて人肌ほどの温かさが感じられるようになると、噴射口をみさきの方へと向けた。「わわっ」と素頓狂な声が上がったかと思えば、次いでケホケホと咳き込むみさき。どうやら噴射されたお湯が見事に顔面へと直撃してしまったようだ。見えなかったとはいえ、さすがに悪いことをしてしまったと謝罪する。内心、込み上げてくる笑いを噛み殺しながら。



「ぷっ、……あはは、ごめん」

「……今、笑いましたよね」

「いや、別に?」

「絶〜ッ対!笑いました!」

「おかしいなぁ、この暗闇では何も見えないはずなんだけど?」

「分かりますよ、声で。臨也がどんな顔しているかなんて」



そう彼女は何でもないように言うけれど、それを出来る人間がどんなに稀であるかを彼女は知らない。



ーー俺の心情を声だけで察するなんて……とんだ観察力だ。いや、洞察力と言うべきか。

ーー職業柄、本心をあまり表に出さないよう努めてきたつもりだったけど。



習慣とは1度身に付いてしまうと実に厄介で、己の意思とは裏腹に自ずと常に行動に伴う。それ故、いかなる状況下でも造りものの仮面を顔に張り付かせ、大抵のことは笑ってやり過ごしていた。その笑顔の意味が本心のものではなくて、例え相手を嘲笑う類いのものであったとしても、それを見破ることのできる輩はほんの一握りに過ぎない。その上、そのような輩は大抵、よほど付き合いが長いか、裏社会での関係を持つその筋の者か、そのいずれかだ。みさきは前者の方に当て嵌まるが、かといって新羅や運び屋などと比べればそこまで長い付き合いでもない。それでも事実、血の繋がりのある妹たちでさえ分からないような感情の変化をみさきはすぐに見抜いてしまう。それは情報屋としては何より致命傷である反面、唯一本当の自分を晒け出せるのではないかと期待せずにはいられないのであった。

もしかしたら俺は探していたのかもしれない。同じ秘密を共有し、且つ、本当の自分を晒け出せる相手(場所)を。なにより、みさきの側は居心地がいい。本心からこんなにも笑うことのできる相手が他に何処にいよう。



ーーあぁ、それなのにどうして君は、もうアイツのものなんだろう。

ーーアイツにあって、俺にはないものとは一体何だというのか。

ーー地位も名誉も、それから金も、圧倒的に俺の方が超越しているではないか。

ーーそれじゃあ、俺はどうすればみさきを手に入れられる?



「あ、あの……臨也?」



みさきの声にハッとする。水が絶え間なく流れ出る噴射口を下に向けたまま、俺は暫し動きを停止させていたらしい。冷たい水はすっかり温かくなり、排水口に向かって流れる湯から立ち昇る蒸気が部屋の湿度をぐんと上げる。



「あ、あぁ……ごめん。ちょっと考え事してて」

「えっと、そうじゃなくて……その、もしかして……怒ってる?」

「!」



沈黙。それから、今のみさきの言葉でようやく理解した。そう、俺は怒っていたのだ。自分では道化師のような飄々とした態度を取っていたつもりが、やはり感情には逆らえず、声とか雰囲気とか、そういった目には見えないものとなって表面に滲み出てしまっていたのかもしれない。敢えて言わせてもらうなら、これは怒りという名の感情に限りなく近い「嫉妬」であるということ。



「……どうしてそう思ったんだい?」

「間違っていたならごめんなさい。ただ……ちょっと、変だなって」

「君は本当に鋭いね。そうだなぁ、強ちそれを間違いではないのかもしれない」

「えっ」

「ただ、こればかりは俺の力じゃあどうしようもない。それが苛立ちの原因さ。投資すればどうにでもなるような望みなら、それこそいくらでも金を払えばいい。悩んだり考えたりする時間を無駄に費やすよりは遥かにマシさ。時は金なり、ってね」

「臨也にもそんなに思い悩むこと、あったんだ」

「そりゃあ、1つや2つは誰にでもあるさ」



勘付く割に、その原因が自分であることを微塵も考え付かないあたり、鋭いのか天然なのかーーそんなことを考えているうちに視界が暗闇に慣れ始め、彼女の表情が僅かながら伺えるようになってきた。身長差故に、必然的にこちらを見上げてくるその黒い瞳が愛らしい。すっかり後回しとなってしまったが、俺は本来の目的を遂行すべくシャワーの水を一旦止めると、手探りでボディ用のスポンジを手に取り、しゃかしゃかと泡を泡立て始めた。

そこでふと、ある違和感に気付く。



「……あれ」

「どうかしましたか?」

「あのさ、もしかしてみさき……下着つけてない?まさか、いつの間に自分で取った訳じゃあないよね?」

「あ!……ええと、これはつまり……!」

「まさか、そんな羞恥プレイまでするようになったのかな君たちは。公衆の場でノーブラとか、興奮する訳?」

「ご、誤解です!シズちゃんが撃たれたって聞いて……慌てて飛び出して来たものだから……」

「あぁ、そうそう。あの時俺が電話したのも、それを確認するためだったんだ。おかげでアイツからは嫌な仕返し食らった訳だけど」

「……確認?それって、どういうことですか?まさか……始めからこうなることを分かっていて……」



事の核心へと迫るより先に、泡を纏ったスポンジ越しにみさきの身体へと触れる。今更言い逃れする気は毛頭ないが、これ以上の詮索を受けるのも面倒だ。

2つの膨らみに触れた途端、みさきのくぐもった声が漏れる。その声があまりに可愛らしいものだから、欲情してしまうのも致し方ない。ぐっと込み上げてくる感情を抑え、自身のズボンの裾が濡れるのも御構い無しに、再び蛇口を捻りシャワーの水を出す。みさきが注がれる水に気を取られている隙に、彼女の履いていたズボンの金具を外し、重力に従って落ちたそれはパシャンと小さな水音を立てた。それにすぐさま気付いたみさきが慌てて拾い上げたはものの、瞬間的に大量の水を吸ってしまい、すっかり濡れてしまったようだ。質量を増したズボンからはポタポタと雫が滴れ、それを呆然と見つめるみさき。



「ど……っ、どうしてくれるんですか!着替え、ないんですけど!?」

「大丈夫。乾燥機あるから」

「その間どうしてろと!」

「ゆっくり湯船に浸かってるといい」

「あの……話、聞いてました?私、時間がないんですって」

「それじゃあ、また俺のコートでも貸そうか?またいつぞやのようにアイツがにおいを嗅ぎ付けて、君を見つけ出すだろうけれど。自販機が飛んでくることくらいは覚悟しておいた方がいいよ?」

「そ、それは……困る。というより、シズちゃんには来て欲しくないので」



どうせまた「巻き込みたくない」とでも言うのだろう。正直、アイツに関わる話は心底どうでもいい。



「それじゃあ、今から流すから……あ、さすがに下は下着付けてるよね?濡れてもいいの?」

「当たり前じゃないですか……あ。でも、下着まで濡れるのは……、……あの、一応確認しますけど、本当に見えてないんですよね?」

「まさか」

「その割にはよくズボンの金具の位置とか分かりましたよね。馴れてるんですか?」

「それ、俺が脱がせ上手だって言いたいのかな。褒めてるの?それとも貶してる?」

「いえ……ただ、モテるでしょうに」

「うーん、正直俺はそういったことに興味はなかったし、例え好意を寄せられようと、例外に1人の人間を特別扱いはできないさ。なんたって俺は、人間そのものを深く愛しているんだから」

「出た。臨也の人間愛論」

「なにそれ」

「でも……それなら尚更、やっぱり私には理解できないなあ」



理解なんてしなくていい。ただ、受け入れてくれればいいのに。しかし、それを言ってしまったら、今し方語った自論を全て覆すことになってしまう。そんな支離滅裂としたことを口にするのは己の美学に反するし、正直なところ、自分でもよく理解できていなかったから。結局のところ、俺も人間なのだ。それこそ人間というカテゴリーから脱却し、神にでもならない限りは。

恥じらいながらも自ら下着を脱いだことを本人の口から確認するなり、泡に包まれたその身体にゆっくりとお湯をかけてやる。肩、胸元へと順に焦点を変え、泡を完全に流すべく直に手のひらを這わせる。泡の効果も相まって触り心地は滑らかで、きめ細やかなその肌は柔らかい。



「みさきの肌って、気持ちいいよね」

「ッ、……な、なんか、触り方がやらしいんですけど……」

「みさきが感じやすいだけじゃない?」

「そ、そんなこと……んんっ」



身を縮こませ、硬く握った拳をぎゅう、と握り締める。視線を落とし、顔を赤らめるみさきの顔を俺は真っ直ぐに見つめていた。すっかり暗闇に慣れてしまった視界の中、今では移り変わる表情の微々たる変化も目に見える。ただ、それを悟られまいと敢えて口にすることはない。全て見られていると知った途端、みさきが恥ずかしがって「これ以上はもう嫌だ」と拒否するだろうと思ったから。きっとこんな機会2度と訪れないだろうし、みすみす無駄にはできない。みさきから返ってくる素直な反応に口端が緩むのを分かっていながら、それでもどうすることもできなかった。ただ純粋に、嬉しかった。俺の手で、彼女は確かに感じているのだと。

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