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シズちゃんの大きな掌が私の頭を掴み、彼の唇まであと数センチの距離まで強引に引き寄せられる。あ、そういえばスーパーで大量に買い込んできた食材、冷蔵庫にしまってなかったっけ。そんなどうでも良さげで割りと重要なことをぼんやりと考えながら「ま、いいか」と頭の隅へと追いやった。彼の透き通るような瞳を間近で見ているうちに、私の思考回路はチーズのようにとろりと蕩けてしまっていた。冬はこんなにも寒いのだから、腐ることはないだろうと適当に問題解決。他人の家で淫らなことなど、普段の私なら絶対にあり得ない行為。しかし過度な恐怖と不安から解放された直後の今、極度の安心感からか盛大に気が抜け、まともに物事を考えることが出来ずにいた。

彼の手つきがあまりにも優しく気持ちよくて、いっそのこと全てを投げ出してしまおうと身を委ねる。彼の唇まであと5センチ、3センチ、そしてあとーー瞳を閉じた次の瞬間、突然ドアのノック音が小さな部屋に響き渡った。その音にハッと我に帰ると、すぐ目と鼻の先にいるシズちゃんの顔を慌てて突き放す。



「みさきちゃん、ちょっといいかな?」

「!! もももも勿論!どうぞどうぞ!」

「それじゃあ失礼……おや?どうしてそんなに顔が赤いんだい?もしかして雨の中走って来たせいで熱でも……」

「だ、大丈夫です!ご心配には及びません!!」

「そう?……まぁ、見る限りだとお取込み中お邪魔してしまったようで申し訳ないんだけど、一応医者として薬を処方しておこうかと思ってね。はい、これ」

「? はぁ、どうも……」



新羅さんに手渡された薬というのは見るからに怪しげな液体のことで、どうやら注射器を使って直接注入するものらしい。私がそれをまじまじと見つめていると、新羅さんがにんまりと笑みを浮かべたまま、シズちゃんには聞こえないくらいの小さな声でこう耳打ちをするのだった。



「それは大型の猛獣にも使われるくらい強力な麻酔薬だよ。静雄の看病のために泊まっていくのは一向に構わないけど、もし、静雄が自分の身体を酷使するようなことがあって、君の手にも負えないような時はそれを使うといい」

「ええっ、そんな強力な薬……本当に大丈夫なんですか」

「大丈夫大丈夫!アイツの身体にはそれくらいしないと効かないから!それに……ほら、君の力じゃあ静雄には到底敵わないだろう?」



「そりゃあ、そうですけど」

「おい新羅、てめぇ何コソコソみさきと話してんだよ」

「おっと、これ以上2人っきりで話していたら静雄に嫉妬されちゃう。という訳で、僕もリビングに戻ってセルティと愛を語らうことにするよ」



そう言って新羅さんはウインクすると、シズちゃんに安静にするよう念押ししてから部屋を後にした。シズちゃんが不機嫌そうに「タイミング悪く来やがって」と悪態を吐いている横で、私は手渡された薬をそっとポケットにしまい込む。今のところ必要はないだろうし、医学に関しては浅はかな私の知識ではあるが、下手に薬ばかり頼っては身体に悪いと聞いたことがある。彼の帰り際に見たあの笑顔の裏にはまた別の意図があるように感じてならないがーー



「ったく、何しに来たんだあいつ」

「あ、はは……きっとシズちゃんが心配で様子を見に来たんだよ」

「はあ?今更俺の心配するようなヤツかよ」

「もう、シズちゃんはすぐそういうこと言う。友達は大切にしなくちゃだめだよ?」

「分かってる。けど、俺は……いや、こんなこと言っても仕方ねぇか」

「?」

「それよか、早く続きしよーぜ。こっちは完全にスイッチ入っちまったからな」



そんな強引なことばかり言うものの、無理強いしないところが彼の優しいところだ。私の手を引き、見上げてくるその瞳はまるで捨てられた子犬のようで。それがあまりに愛しくて、その愛くるしさについ首を縦に振ってしまうのだった。こんな表情をされ、誰がその誘いを断れようか。



「(……うーん、やっぱり私が甘いのだろうか)」

「余所見すんなっ」

「あいたっ」

「そんなんだから臨也のヤツにつけ込まれるんだって言ってんだろ」

「そんなこと言われても……ひゃあ」



今度は突然腰をがっちりと掴まれ、悠々と持ち上げられた私はそのまますとんとベッドに座らされる。改めて向き合うのが無性に恥ずかしく、無意識のうちに正座をしていることに気付くのは随分後のこと。



「……んな警戒すんなって。なんか、俺だけがシてぇみたいじゃんか」

「わ、私は別に嫌な訳じゃあ……」

「あーもう、分かってんだよ。これは俺の単なるワガママだってことは。けど、やっぱ俺はみさきじゃねえと駄目だ」

「……うん。ありがとう」



こうも自分を必要としてくれていることに、私は素直に感謝の言葉を口にした。だって、人に必要とされることはこんなにも嬉しい。自分の存在意義を再確認できる。ここに存在する意味なんて、自分1人で考えたってなかなか答えなど導き出せないものなのだから。だからこそ、こうして素直に思っていることを口にできるシズちゃんが羨ましくもある。きっと私は彼のそういったところが好きなのだ。人は自分にはないものに惹かれるというが、それはきっと欠落した何かを補うための人間の本能なのかもしれない。そうして互いに補い合えるような関係が本来あるべき理想的なカタチなのだろう。となると、果たして自分に相手の空白を埋めてあげられる何かはあるのだろうかと疑問ではあるが、私にとっての彼がそうであるように、彼にとっての私もそうであって欲しいと願う。



♂♀



みさきの動きが何処かぎこちないのは、馴染みのない空間にいるせいか。何がみさきを突き動かしたのか突然押し倒してきたかと思えば、着ているシャツのボタンをうまく外せず悪戦苦闘している。何はともあれその気になったのなら好都合だが、こうして顔を赤くしながら焦るみさきの姿を眺めているのも悪くない。(と言うと性格の悪いヤツだとみさきに悪態を吐かれそうなので口にはしないが)とはいえこのままというのも焦れったいもので、いっそのこと逆に押し倒してしまいたい衝動に駆られるもぐっと耐える。

正直、嬉しかった。今だって嬉しくて嬉しくて堪らない。時間も服装も何もかもお構い無しに、みさきが俺の身を案じここまで必死になってくれたこと。普通俺が怪我を負ったと聞いても容態を案ずるような輩はそうそういない。なんせ身体が丈夫であることは周りに知れ渡っているし、俺のことをよく知る人間であれば尚更のこと。みさきだって、今までどんな怪我も完治させてきた俺の治癒力を何度だって目にしてきたはずだ。それなのに、みさきは違った。なりふり構わず俺だけのために、雨の中びしょびしょになりながらーー



ーー……やべぇ、にやけちまう。



みさきにバレぬよう口元を手の甲で隠し、それでも奥底から込み上げてくる笑みを必死に噛み殺す。そんな最中みさきはようやく1つ目のボタンを外すことに成功していたが、このままのペースではいつまで経っても先には進めずもどかしい。が、俺がやるからと言っても「私がやる」の一点張り。変なところで頑固なのは知っていたが、何処か違和感を感じ、その原因をなんとなく察する。



「ほらっ、シズちゃんは一応怪我人なんだし、出来るだけ動かない方が……」

「……お前、もしかして時間稼いでねえ?」

「!」

「図星だな」

「ま、待って!そんなすぐに脱がさないでぇー!私には心の準備が必要なの!」

「あのなぁ、今更勿体振んなって。そんなにぎゃあぎゃあ喚いてっと、隣のセルティたちにも聞こえるだろーが」

「そ、それは……っ、困る。色々と」

「ま、俺はいいんだけどな。なんなら大声あげてもらっても構わねぇけど」

「そうやって意地悪なこと言うの、よくないと思う」

「みさきのすぐ焦らすところもな」



シャツの裾を掴み急かすようにくいくいと引っ張ると、みさきは何とも言えないような表情でこちらを見つめる。そして呆れにも似た溜め息を1つ吐くと、まるで降参を意味するかのような万歳の姿勢をとった。



「んっ」

「?」

「脱がせて」

「お、……おぉ、急にどうしたかと思えば……」

「なんで今更シズちゃんが赤くなるの」

「みさきがそうやって不意打ちみたいなこと言うのが悪いんだろ」



本当にその通りだ。改めて向き合い、今更緊張に胸を高鳴らせている自分があまりに滑稽だと思える。



「えーっと……お前、この下何も着けてなかったよな?」

「誰かさんが撃たれたと聞いて、慌てて走って来ましたから」

「なんで怒ってんだよ。……あー畜生、なんか俺の方が緊張してきた」

「えっ、シズちゃんも緊張するんだ」

「んな驚くことか?さっきから似たようなこと2度も言うな」



無意識のうちに頬をポリポリと掻くのは、自分なりの照れ隠しなのかもしれない。そんなことを考えながら、俺は「それじゃあ遠慮なく」と一応断りを入れてからシャツの裾をむんずと掴み、そのまま一気に下から上へと引き上げたーーが、上手い具合にすぽんと抜けず途中でつっかかってしまい、みさきの首から上が服によって覆われたままの中途半端な形となってしまった。シャツというものは普通、前ボタンを全て外してから脱ぐものだ。首回りが狭く、頭が通らないのも当然。残りのボタンを外すことすら面倒だと思った怠慢な俺が悪かった。これは全くの想定外だ。



「……!抜けねぇ……!!」

「ちょっ、前見えないんだけど!?」

「あ ……いや、逆にこのままってのもアリかもしれねえ。目隠しプレイみたいなもんだろ、これ」

「!?」



表情を見ることが出来ないにも関わらず、みさきが今どんな顔をしているのかを予想するのは容易い。それを面白おかしく想像するのもいいが、この状況が俺にとって都合が良いことは確かだ。大きく捲れ上がったシャツはみさきの視界を奪うだけにとどまらず、万歳の姿勢のまま両腕を拘束し、自由をも奪う。目の前に曝け出された彼女の身体に思わず息を飲み、俺は誘われるようにそのきめ細やかな白い肌へと手を伸ばした。

触れた途端、びくりと震えるその反応があまりに可愛くて。見えないが故にいつもに増して感度が研ぎ澄まされたその身体は、俺をその気にさせるには十分過ぎるくらい刺激的であった。決して大きくはないものの、程良く形の良い2つの膨らみをやんわりと包み込み、揉み下す。荒くなる息遣いがシャツの中から聞こえてくると同時に、次第に赤みを増してゆく白い肌。唇でそっと触れるだけで敏感な肌は反応を示し、時折俺の名を呼ぶその声はほんの少し掠れていた。



「やっ……シズちゃん……!」

「(……可愛い)」



もっともっと、乱れたみさきを見てみたい。焦らされた分だけ自分の中で渦巻いていたどす黒い欲求が限りなく沸き上がってくる。その全てを満たすにはあまりに時間も余裕もない。何より彼女と心身共に1つになりたいという思いが強く、これ以上時間を掛けたくないというのが正直なところであった。彼女の身を考えれば突然の挿入は避けるべきだ。無理はさせたくない。



「な、なんかシズちゃん……今日、急いでない……?」

「悪ぃ。余裕、なくて」

「……そんなに我慢してたんだ」

「何度も持ち越されて、ようやく今夜こそって思ってたんだ。それなのに今日に限って撃たれちまうなんて……クソッ、絶対に許さねぇアイツら」

「犯人は分かってるの?」

「あぁ、俺を撃つよう命令した親玉の名前は分かってんだ。確か『キダマサオミ』つったけな」

「! それ、本当に…… ひゃんっ」

「ひとまずムカつく話は置いといて、今はこっちのが優先だろ?」

「ま、待って待って!それ、何かの間違えじゃあ……!」



みさきが何を言いたかったのかは知らないが、少なくともカラーギャングとやらの抗争に首を突っ込むことになるであろうことは明白だ。このタイミングでの面倒な話は極力避け、今はただ目の前のみさきだけを感じていたい。

くびれにかけての滑らかな曲線をすっとなぞり上げ、敏感な部位を時折舌先だけで触れる。びくんびくんと痙攣する度に感じているのだと実感出来るのだが、やはり相手の顔が見れないとなると何処か味気ない。みさきの表情を伺いながらその都度様々なことをしてみたいと思うし、その快感に潤んだ瞳で俺のことを見て欲しい。度重なる欲は増す一方で、そんな自分の貪欲さを心の中で嗤った。勝手だと思われたっていい。俺は俺のやりたいようにやるだけ。



「なぁ。やっぱり、顔見てぇ」

「へっ!?」

「俺の手で感じまくってるみさきの顔が見たい」

「!! やだっ、恥ずかしい……!」



ついさっきまで何も見えないのは嫌だと言っていたくせに、今度は顔を見られたくないと言う。「みさきはわがままだな」なんて口では言いながら、本当は分かっていた。わがままなのは俺の方。そのわがままにみさきはみさきなりに必死に応えてくれようとしている。その優しさにつけ込んで好き勝手な言動をしているのは俺だ。それを分かっていても尚、俺はみさきのことよりも己の欲求を何よりも優先させた。自分勝手なのも重々承知。このままシャツだけ引き抜くのは難しいと判断した俺は、無理矢理シャツを裂いてしまおうという強行手段に出た。

布の繊維に逆らってピリッと亀裂の入ったそれを両端同時に勢いよく引っ張り、俺とみさきの間に隔たれた壁は何1つとしてなくなった。信じられないと言わんばかりに目を大きく見開いた彼女の頬は更に赤く染まっており、自由になった両手で即座にその口元を隠す。何度も想像した潤んだ瞳は想像以上に可愛らしい。まるで小動物を連想させるその黒目がちな水晶体は目の前にいる者の姿を反射し、ありのままの姿を映す。そこに映し出されていたのは、まさに性悪そうな笑みを浮かべた己の姿だった。そのあまりに救いようのない表情に思わず失笑する。



ーー俺、いつもこんな顔してたのか?

ーーなんつーか……まるでいたいけな少女を犯す悪男だな。我ながら。



表情を引き締めるつもりで口端をきゅっと閉め、口元を隠していた彼女の両手をそっと退かし、優しくくちづける。これは決して強姦などではなく、愛のある行為なのだと照明付けるように。

その時だった。静かだった部屋に突如響き渡る着信音。発信源はどうやらみさきの携帯電話らしい。テーブルの上でバイブレーションを響かせ、ランプを点滅させる携帯へと2人同時に視線を向ける。みさきが「あ」と声をあげるよりも先に俺は断りなくそれを手に取り、表示された相手の名前を確認するなり目を見張った。途端にふつふつと沸き上がるこの感情は憤怒以外の何物でもない。その表情だけで只事ではないことを察したみさきが恐る恐る俺の手元を覗く。



「い……臨也、さん……」

「……」



何故、今なのか。ただこのタイミングで電話を掛けてきた臨也の運が悪かったとだけ言っておこう。あの他人を見下すかのように嘲笑う表情を少しでも歪ませてやりたくて。それをこの目で拝めないのは心底残念であるが、この際あやふやだった物事をはっきりさせておくべきだと、俺は俺なりの”最低な仕返し”を決行した。



「出るのか?電話」

「な、何言ってんの……こんな時に出るなんて、普通じゃない」

「ははっ、その『普通じゃない』っての、わざと言ってんのか?……生憎、俺は普通じゃないんで」

「!? 嘘っ、待っ……!」



それは自分への精一杯の皮肉を込めた言葉。慌てたみさきが手を伸ばすも、俺は携帯を高く掲げてそれを回避し、無情にも通話ボタンを押す。ピッ、と機械音が鳴ると同時にこちら側は見えない電子回線によって受話器の向こうのあちら側へと繋がる。聞こえてきたのは大嫌いなアイツが、大好きなみさきの名前を呼ぶ声。



ーーなんだ、この声は。

ーーこんな優しい声、俺は知らない。聞いたことがない。

ーー……気持ち悪ぃ。



『あぁ、みさき。ようやく繋がった。聞きたいことがあるんだけど……』

「臨也!ご、ごめんなさい!本当に申し訳ないんですけど、今は……そのっ、取り込み中で……ひっ!?」

『え……ちょっと、大丈夫……じゃないよね?もしかして君、誰かに襲われて……』

「……大丈夫、ですから……お願いだから、電話、切って……」

『それなら君がそうすればいい。また後で都合の良い時に掛け直せばいいさ。それが出来ないということは……』



『みさき。君は今、誰といる?』



注意深いヤツのことだから、すぐに異変に気付くであろうことは分かっていた。分かっていて、こうした。



「ふあっ……嫌っ、お願……、だから……!」

『ッ、みさき!』

「駄目ぇ……聞かないで……!」



それは無理な話だ。なんたって携帯をみさきの方に手向けているのは俺で、臨也が通話を切らない限り、こちらの会話は筒抜けなのだから。とはいえ、無言に徹している俺の声は当然届かない訳で、みさきの一人芝居のように聞こえているのが現状だが。

俺はなんて酷い人間だろう。ーーいや、人間ですらなかったかと自虐的に笑う。こうすることで臨也への仕返し、当てつけとし、その行為に清々しさすら覚えている。一種の快感のようなものだ。これが意外にも病み付きになってしまいそうで、そんな自分が恐ろしくも愉快。嫌がるみさきに携帯を押し付けつつ、暴力にも似た愛撫をやめようともしない。



『……あぁ、分かったよ。そこにいるのは……シズちゃん、君だね?』



慌てず、かと言って動揺の色も見せず、携帯の向こう側で紡がれる淡々とした声。その声には何の感情も込められていない。



『君も考えるようになったね。俺への嫌がらせのつもりかい?……あぁ、心底ムカつくねぇ。ほんと、なーんで死なないかなあ』



今ので俺は確信する。仮定が事実へと俺の中で変化し、それは命にも関わるあまりに酷い話ではあったが、不思議とすんなり受け入れられてしまった。なんなく分かっていたことだったし、いつだって俺とアイツには隣り合わせの『死』がそこにあった。どちらかがその息を引き取るまで、この関係は終わらない。まるで呪いのようだと思う。



「……もう、いい加減分かったよなあ?本当は誰にも聞かせたくない”俺だけの”みさきの声を、こんなにも聞かせてやったんだからなあ……?」

『いらないお世話だよ。ほんと、それ』

「つー訳だから、覚えとけ。もう2度と、みさきに近付くんじゃねーぞ」



「今、こっちは大事なお取込み中だからな」

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