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結局雨は止まなかった。張り切り過ぎた結果、片手で持ち切れないほどの大量の食材を買い込んでしまい、仕方なく買い物袋は大きな2つに分けてもらった。両手にそれぞれ袋を1つずつ、開いた傘を肩と首の間に挟み、バランスを保ちながらなんとか帰宅。裾が濡れた服を脱ぎ捨てて、シャワー室に駆け込んだ。寒い冬の夜、全身びしょ濡れはさすがに堪える。風邪を引いてしまわないうちにシャワーを浴びたかったのだが、こういう時に限ってなかなかお湯が出てこない。ずず、と鼻をすすりながらバスタオルに身を包み、ヒーターの前に体育座り。一旦シャワーは諦め、ひとまず暖房をーーと思ったはものの、スイッチを入れると甲高い音と共に表示されたのは無情にも『給油』の2文字。あぁ、なんて今日はことごとく運が悪い。



「……〜〜ッ、寒い!!」



堪らず布団の中に潜り込み、布と肌の摩擦で身を温める。次第に布団の中がぬくもりで満たされ、ようやく寒さが和らいだ頃にはもはや布団から出る気力は失せていた。



ーーそういえばシズちゃん、帰り何時になるのかなぁ。

ーー……帰りに灯油買ってきてもらおう。



布団をずるずると引き摺りながら玄関に戻り、放り投げられたまま放置されたバッグの中から携帯だけを拾い上げる。しかし携帯の向こう側からは一定のテンポで呼び出し音が響き渡るだけで、彼が電話に出ることはなかった。きっと、まだ仕事中なのだろう。もうじき折り返し連絡が来るはず。そう思うのが普通なのに、今日は何処となく落ち着かない。こんなにも不安に駆られるのは何故?その原因も理解出来ぬまま、ただ時間だけが刻々と過ぎていく。前にもこんなことがあった。いくらこちらから連絡しても届かず、堪らなく不安な気持ちでいっぱいになったことを今でも鮮明に記憶している。あんな思いはもう2度としたくない。そんな私の気持ちとは裏腹に、事態は思わぬ方向へと展開を始める。

それから数十分後、響き渡る携帯の着信音に心の底から安堵する。仕事を終えたシズちゃんからだろうと、ただそれだけを信じて疑わなかった。相手の名前を確認もせず、耳に押し当てた携帯から聞こえてきた声はーー



「……え……?」



信じない。
信じられない。
信じたくなかった。



いつ、何が起きても不思議ではない。それが現実というものだ。ただ、それはあまりに唐突で、何の前触れもなく突き付けられた信じがたいものだった。

気付いたら私は夜道を走っていた。下着も着けず、適当な部屋着に身を包み、上から灰色パーカーを羽織った簡素な格好。右手に携帯を握り締めたまま、財布すら持たずに飛び出していた。こんなにも急いでいるつもりなのに、見慣れた道が今はとてつもなく長い距離のように思える。走っても走っても足は空を切るだけで、まるで永遠に同じ場所ばかりを走っているかのようだ。気持ちばかりが先行し、身体がついてこれないのだろう。



ーー早く……早く行かなくては……

ーーまさか、あのシズちゃんに限って……!



臨也さんの言葉が頭を過る。大切な人が死ぬだとか、そういった類の話。当時はあまりピンと来なくて、ただ『死』という概念があまりにも非現実的過ぎて。決してそんなことはない。『死』というものは生きている者全てに平等で、非日常どころか寧ろ常に隣り合わせで。ただ、想像するにはあまりにも残酷な現実(リアル)だった。



『みさきちゃん、落ち着いて聞いてね』

『静雄が……何者かに撃たれたらしい』



発信者である新羅さんから告げられたその言葉は私の脳髄へと響き渡り、そこで私はようやく残酷な現実を思い知らされることとなる。「撃たれた」という事実が『死』という概念へと結び付いてしまう思考回路を絶ち、安否を電話越しで聞くよりも先にいち早く彼の元へ行きたいと思った。思わず前のめりに転びそうになりながら走り、ひたすら走り続けーー足の疲労も分からなくなるくらい、頭の中ではシズちゃんのことばかりぐるぐると考えていた。



ーー嘘だよね、シズちゃん。帰って来ないなんて……嘘だよね!?

ーーだって、シズちゃんが言ったんだもん。「今夜こそは」って……!



早く会いたい。顔を見て安心したい。しかし、それとは反対に最悪な事態も想定しておかなければならない。ぼんやりと霞む視界の中、どんなに息が切れようと、それでも一度たりとも走る足を止めることはしなかった。どうか、彼が無事でありますようにと心で強く願いながら。



♂♀



池袋 川越街道沿い 某マンション



「し、失礼します!!」



乱れた呼吸を整えもせず、部屋に入るなり出迎えてくれたのはセルティだった。部屋の中ではヘルメットを外す彼女に首から上こそはないが、黒い靄のようなものからは明らかな動揺が感じ取れた。新羅さんは奥のソファに座り、なにやら深刻そうな顔つきで手元のメスを見つめている。銀色の光を放つそれは人間の血痕らしきもので赤黒く濡れており、それがシズちゃんのものではないかと思うと背筋が凍る思いがした。キョロキョロと部屋中を見回し、シズちゃんの姿を探すものの、彼の気配は感じられない。



「あ、あの……シズちゃんが撃たれたって……」

『みさきちゃん、とりあえず落ち着いて。こんなに濡れて……雨の中傘も差さずに』

「私のことはどうでもいいんです!そんなことより、私……シズちゃんが心配で心配で……!」



彼は今何処にいて、どんな具合なのか。聞きたいことは山ほどあるのに、全力で走って来たが故に息切れで上手く声が出せない。それでも無理に言葉を発しようと口を開き、思わず咳き込む私の背をセルティが優しく撫でてくれた。そこで新羅さんがようやく顔を上げ、私が来たことに気付く。



「あぁ、みさきちゃん、随分と早かったね。すぐに電話が切れるから、ちゃんと伝わったかどうか心配してたんだ」

「し、新羅さん……その、シズちゃんは……」

「静雄かい?治療は終わったけれど、かなり酷くてね……もう何本も折れて……」

「……ッ!!」



銃で撃たれたとは聞いたが、それだけだとは限らない。何本も折れたというのも、もしかしたら集団相手に骨折でもしてしまったのではないか。そんな不安感が全面に出ていたのか、私の表情から汲み取ったセルティが『説明するより、本人に直接会わせてやるのが1番ではないか』と提案してくれた。



「確かにそれもそうだね。今、静雄は隣の部屋で安静にしているよ。そうそう、そっちの部屋には別のお客さんが来てるけど気にしないで」

「わ、分かりました……」



案内された部屋の前、いざ扉を目前になかなか一歩が踏み出せない。残酷な現実を目の当たりにして、私は正気でいられるだろうか。もしシズちゃんが目も当てられないほどの重い傷を負っていたら……?もしかしたらそれだけでは済まないかもしれない。

深く息を吸い上げ、静かに吐く。意を決してドアを恐る恐る開くと、ベッドの上には見るも無残な姿のシズちゃんがーー



「……あれ?」



訂正。そこに横たわっていたのは、こちらを見てきょとんと目を丸くするいつものシズちゃん。素肌に包帯をぐるぐるに巻かれたその姿は確かに痛々しいものの、本人は特にこれといって痛む素振りすら見せない。余程私がいることに驚いているのか暫し言葉のないまま沈黙が続くが、シズちゃんはハッと我に返ると苦笑いを浮かべてこう言った。



「あー……えっと、悪ぃ。今夜、帰れそうにねぇわ」





話を聞くとこうだ。銃で撃たれたのは事実らしい、が、致命傷に至らなかったのが彼の凄いところ。(彼曰く「撃たれた瞬間は痛かった」)やり返そうとしたものの、雨が降っていた為うっかり足を滑らせてしまったらしい。追いかける間も無く、転倒中に犯人は逃走。残されたシズちゃんは成す術なく、その後何事もなかったかのように帰宅しようとしたところ、一緒にいたトムさんに鉛中毒の恐ろしさを改めて聞かされ、友人であり医者でもある新羅さんの元を訪ねたとか。

これまでの経緯を聞かされ、私はしばらく何も言えずにいた。というより、呆れた。同時に「あれほど心配させといて!」と憤慨したくもなったが、今更何を言っても後の祭りだろうし、ろくに話も聞かず早とちりして勝手に心配していたのは私の方。ちなみに新羅さんの言っていた「何本も折れた」のは治療に使われたメスのことで、銃で撃たれても何ともないシズちゃんの身体の強靭さを考えれば納得のいく話だった。



「……あは、なんか……馬鹿みたい私」



魂が抜けてしまいそうなほどの深い深い溜め息を吐き、安堵感と倦怠感が同時に心身へと襲い掛かる。重力に逆らえずへなへなとその場に座り込み、がくりと肩を落とした。大粒の涙がぼろりと零れ落ち、私の膝を濡らす。そんな私をシズちゃんはぎょっとした顔で見るが、咄嗟に立ち上がろうとするものだから慌ててそれを制止した。



「ご、ごめんね!私は大丈夫だから……!シズちゃんはこのままじっとしてて!」

「こんなん大した傷じゃねぇし、よくよく考えたらすぐに連絡しなかった俺の責任だよな……悪かった。心配掛けちまって」

「私も新羅さんの話、ちゃんと最後まで聞いていれば良かったんだよね。新羅さんが何本も折れたなんて言うものだから、てっきりシズちゃんが骨折したもんだと思っちゃった。……まさかメスのことだったなんてね」

「昔はよく骨へし折ってたんだけどな。弟と喧嘩した時、咄嗟に冷蔵庫持ち上げたことがあったんだけどよ、そん時もボキッて」

「いやいや、兄弟喧嘩で冷蔵庫持ち上げるとか」

「まぁ、そんな訳で今日は絶対安静だってキツく言われちまった。早く帰りたいってのに」

「ダメだよ、医者の言う事は聞かなくちゃ!」

「つっても闇医者だけどな……そうだ。みさき、お前今日ここに泊まっていけよ。俺からセルティに頼んでみるわ」

「え、……ええ!?で、でも私、何も用意してきてないよ!?」

「どうせ今日はもう寝るだけだろ?ならいいじゃねぇか。このベッド、1人用にしてはデカすぎるくらいだし」

「い、一緒に寝るの!?」

「俺的には寝るだけじゃあ済ませたくないってのが本音だけど。今朝言っただろ?今夜こそは、って」



やはり彼のあの言葉は冗談などではなく、どうやら本気だったらしい。いくら本人が丈夫とはいえ大怪我を負った今も尚、その言葉を撤回する気はなさそうだ。



「無理は禁物!傷口開いちゃうよ?」

「もう塞がってる。なんなら見るか?」

「!! いいいいいらない見ない!お願いだから包帯解かないでー!」

「じゃあ、もっとこっち来いよ」

「な、なんで……」

「いーから」



若干警戒しつつ歩み寄ると、伸ばされた両手が腰に回され、引き寄せられ、そして包み込まれる。彼の胸は布団より何倍も温かくて、人肌の温もりに勝るものは何もないのだと実感した。目を閉じても感じることのできる彼の存在に心の底から安堵する。



「シズちゃんって、あったかいよね。それに、心臓の音……すごく速いよ?」

「そりゃあ緊張もするしドキドキもするっての」

「シズちゃんでもこういうの緊張するんだ?」

「当たり前だろ。それにお前、細ぇから。下手したら折れちまうんじゃないかって、いつも不安なんだよ」

「……じゃあ、さ。思いきり抱き締めて。折れちゃってもいいから」

「あのなぁ、お前はまたそういうことを突然……」

「私は本気だよ?大丈夫。ここにはお医者さんもいるし、もし折れちゃってもすぐに診てもらえるじゃない?」

「いやいや、そういう問題じゃあ」

「ね、お願い。ギュってして?」

「……ッ!!」



自分で言ったことくらい理解してるし、責任だって持てる。ただ、今は恐れなんて持たずに触れて欲しい、抱き締めて欲しいと心から願った。すると次第に身体への圧力が増し、徐々に力が加わってゆくのを感じる。それは本当に微々たる変化であったが、苦しいはずの圧迫感が愛おしくて仕方なかった。このまま圧し潰して欲しいとさえ思う。しかしある一定まで力が加わると、それ以上力が加わることはなかった。恐らくこの程度の力、彼からすれば子供騙し程度。シズちゃんが本気を出せば骨折どころか粉砕骨折か、あるいは骨よりも先に内臓が悲鳴を上げるか、そのどちらかだろう。

彼の背に手を回し、顔を埋める。「好き」という気持ちが止めどなく溢れ、それは涙となって落ちた。怖かった。本当に怖かった。シズちゃんのいない世界を少しでも想像してしまったこと、そしてこの世界で1人生きていかなければならないことに恐怖を感じる。あぁ、私はこんなにも彼に依存してしまっていたのか。改めて存在の大切さを痛感すると共に、当たり前を当たり前だと思ってはいけないのだと思った。その時、突然彼が何か気付いたような素振りを見せ、首を傾げる。



「……ん?」

「? どうかした?」

「いや、なんつーか……間違ってたらごめんな?こんな時に言うべきことか迷ったんだけどよ……もしかしてお前、ブラ付けてねぇよな……?」

「え……、……っ!!!!!!?」



途端に冷たいものがサァッと背筋を流れ、慌てて離れようにもがっちりとホールドされており、それも叶わず。そして私は思い出す。今の自分がどれ程無防備な状態であるかということに。そんな私の無言の動揺を感じ取ったのか、シズちゃんはにやりと怪しげに笑うと、それを確認するかのような手つきで身体の至る部位を撫で始めた。さわさわとした触れるか触れないかの感触に、ふるりと大きく身震いする。



「やっぱり、そうだと思ったんだよなあ?みさきも待てなかったってことか。今度こそ言い逃れ出来ねえよな?」

「ええと、私、慌てたから、つい……!」

「もう今更何を言っても無駄だってこと、分かってんだろ?俺の性格上。それに俺だってもう……待てねぇ」

「!! ひゃっ……!?」



服の中へと侵入してきた彼の手が素肌に触れ、同時に肌がぞわりと泡立つ。突き放そうにも重傷を負った怪我人相手に下手なことはできない。下着の件は確かに誤算であったが、彼の言葉全てを否定することはできなかった。会いたい、触れたいと願ったのは紛れもない事実なのだから。

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