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異質な空気に包まれたまま、独特な雰囲気の中私たち3人は話を進める。とはいえ大抵話しているのは臨也さんくらいで、彼への異様な忠実心がそうさせているのか、沙樹はほとんど口を開くことなく完全に聞き手に徹している。



「あぁ、今日は実にいい日だ。俺がどれだけこの日を待ち侘びたことか、君たちに理解できるかい?……なーんて、いきなり言われても分からないよねえ」

「臨也さん。まさかそれだけを言いに私をわざわざこの場所に呼んだ訳じゃないんでしょう?」

「あはは、別にここじゃなくても事務所以外ならどこでもよかったんだけどね。ただ、ここなら話の会話が外に漏れることはないし、色々と都合が良かったから」

「? それは事務所を訪れるであろう『彼』となにか関係があるんですか?」

「さぁて、どうだろう?……まぁ、君も知らない相手ではないけど。それはさておき、具合はどうだい?沙樹」

「お陰様で、今日も元気だよ。先生も特に異常はないって」

「そう、それはよかった。君は”それ”でいい。安静に、ね」



一聞、彼女の身を案じている台詞のようだが、「安静に」とやけにその部分を強調しているのが気に掛かる。まるで彼女にはただそこに横になっていればいいとでも言いたいのか、逆に「ここから決して動くな」とプレッシャーを与えているようにも聞こえる。その物言わぬ重圧のような何かが見えない操り糸のように、沙樹を縛り、異論を許さないのではないか。ただ沙樹だけを見る限りそういった気配は感じられず、それを指摘することに躊躇してしまうのだが。



「そうそう、シズちゃんは今日も仕事かな?」

「そうですけど……珍しいですね。わざわざ臨也さんの方からシズちゃんのことを話題に出してくるなんて。いつも毛嫌いして避けるくせに」

「ちょっと気になることがあってね。それに、束縛強そうなアイツのことだから、あんなことがあった手前みさきの外出を許すなんて、随分と手緩いなぁと思ってさ」

「あんなこと?みさき、臨也さんと何かあったの?」

「べ……ッ、別に!?何もないよ!」



即座に疑問を口にする沙樹に、私は思わず立ち上がって首をぶんぶんと振って否定する。まさか沙樹の前であんなことを暴露されては堪ったもんじゃあない。普通なら絶対にやらないようなことを、彼ならきっと平然とやってのけてしまうだろう。この人はそういう人だ。

強引に臨也さんの背をぐいぐいと押し、ひとまず沙樹の病室を出る。退室する直前には沙樹の方を一瞬だけ振り返り「また後でね」と口の動きだけで伝えたが、果たして上手く伝わっただろうか。沙樹は相変わらずにこにこと始終笑顔を絶やすことはなかったが、その純粋な笑顔を見る度に私の胸は罪悪感でギュッと締め付けられるのであった。異性に対しての好意でなくとも、彼女にはもっと強い宗教にも似た信仰心がある。その拝める対象である人物がたった1人相手と男女の関係を持つことを知ったら、沙樹含む大勢の信者たちは私をどう思うだろう。少なくとも快く思われないことだけは明白だ。



「そんなに焦らなくても、沙樹には言わないよ?俺たち2人の秘密の関係」



廊下に出るなり臨也さんは私の心配にも関わらず、口元をニヤつかせ、さも楽しそうにこう言った。



「やめてくださいその疚しい言い方!昨日のことだって、あれは臨也さんが強引に……!」

「臨也……”さん”?」

「!」

「人前で呼ぶ分には構わないけど、2人っきりの時は呼び捨てで呼んで欲しいなあ」

「そ、それってなんだか、余計に怪しい関係に思われそうじゃないですか……」

「まぁまぁ、ひとまず場所を移そうか。病室の前で騒ぐ訳にもいかないし、なにより他の患者に迷惑だろう?」

「うっ……」



そうだ、ここは病院だ。声を大にしてしまったことを恥じ、途端に口ごもる。今は言う通りにするしかない。警戒しつつも彼に連れられ、着いた場所は病院から然程離れていない一軒の古びた喫茶店だった。とはいえ閑古鳥が鳴いている訳でもなく、時間の割になかなか客の入りも多い。店員は店のマスターらしき中年男性と、恐らくアルバイトであろう若い女性店員1人。気前の良さそうなマスターに注文を訊かれ、臨也さんは私が口を開くよりも先に紅茶を2つと注文した。それからミルクも追加で、と。私の好きな飲み物だとか、こうも自分のことをさも当たり前であることのように熟知されているのがなんだか悔しい。先に会計を済ませてしまおうと財布を取り出すが、臨也さんがやんわりとそれを拒む。



「奢るよ。お茶の1杯くらい大したことないし」

「そういう訳にはいきませんよ。私の持ち金だって、元はと言えば貴方からもらったお給料ですし」

「本当に君は遠慮深いよねぇ。でも、雇い主の言うことは素直に聞いた方が懸命だよ?とりあえずここは、場所指定した俺持ちってことで」

「……ご馳走様です」

「それでよし」



臨也さんはそう言って満足気に笑うと、片方の手で頬杖をついたまま私の頭を優しく撫でた。悔しいけれど、頭を撫でる彼のその手の感触があまりに心地良くて、思わず?が熱くなるのを感じる。この細くて華奢な指をした掌がどうしてこうも優しいのか。

この人は人を甘やかすのが得意だ。まるでぬるま湯に浸かるような感覚。だから皆、すぐに騙される。甘い餌に釣られ、利用されるとも知らず。そうして堕落してゆく人たちを私は嫌というほど見てきたというのに、どうしてこの手を払い除けることができないのか。「この世に完璧な悪など存在しない」ーーそんな甘ったれた考えを捨てきれずにいるが故に、臨也さんに限らず、私は他者を完全に拒むことができないのだろう。それは偽善者染みた考え方のようで、ただ単に敵を作りたくないだけの保身的な考えに基づくものである。



「あの、さっき言ってた彼って誰のことなんですか」

「さて、誰だと思う?」

「と言われましても……」

「あはは、ごめんごめん。選択肢くらいは提示すべきだったかな。なんせ俺は今、暇でね。その彼が来るであろうまでの時間を持て余してるのさ」

「……はい?」



ーー今、この人……暇、って言った?



決してそんなはずはないことを秘書である私は知っている。あの膨大な数の資料の存在を彼が知らないはずがない。見て見ぬフリをしているのか、知っていて自分は手を付けようとしないのか。今頃波江さんが淡々と1人でキーボードを叩いている姿を想像するのは容易く、何だか無性に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。波江さんが臨也さんに対してあんなに辛辣なのも頷ける。



「はぁ……」

「何?その物言いたそうな顔」

「いや……相変わらずよく分からない人だなぁって」

「俺だって結構単純だと思うよ」

「……」

「だから何も言わずにその物言いたげな顔はやめなってば」



どうやら臨也さんにとってのこの時間は『彼』が事務所に来るであろう時までの単なる暇潰しという訳だ。それに付き合わされているのもなんだか馬鹿馬鹿しく思えてしまい、私は始終その物言いたげな表情を包み隠すことなく溜め息を吐いた。

運ばれてきた紅茶が冷める前にカップの中を全て飲み干し、すぐに立ち上がる。喫茶店にいると不思議なまでに時間の経過が早い。少しだけ時間を潰す目的でふらりと立ち寄ったはずが、いつの間にか本を片手に数時間ーーなんて、よくあるパターン。1杯の紅茶で何時間でも居座れるから不思議なものだ。それはアンティークな雰囲気に包まれた喫茶店ならではの現象で、しかしその時間の経過というものは都会の喧騒で感じるような忙しないものではない。ゆるり、緩やかに過ぎてゆく静かなひとときーー私はこの時間が好きだった。が、今はこんなところで優雅に紅茶を啜っていられる程の心のゆとりがない。今も私の知らないところで着実に進行しているであろう事態を把握出来ないことに安心はできない。それを目の前の彼が容易く教えてくれるとは思えないし、考えるよりも先に行動すべきと私の中の何かが急かす。動かなくては。目的なんて、ないけれど。



「どこ行くの」

「分かりません。けど、ここでじっとしていられなくて」

「まだ来るべき時ではないんだけどなあ。……まぁ、今更君が何をしようと、事態は既に終了していると言っても過言ではないんだけどね」

「どういう意味ですか?」

「ねぇ、みさき。君はもう忘れちゃったかな?無駄なことはしない方がいいよって、俺が忠告したこと……覚えてる?」

「……覚えてますよ。けど、どうしてもうそんな前のこと……」

「火種というのは、時間を掛けて燻って燻って……人の記憶から忘れ去られる時に初めて燃え上がるものなんだよ。”風化”なんてない。過去だって同じさ。決して『なかったこと』にはできない。経緯も、過ちも」



そう言うと臨也さんはにたりと笑い、私の顔を真正面から指差した。まるで全てを見透かされているかのような、その鋭い眼光を放った瞳を直視出来ずに目を逸らす。同時に嫌な汗が額に滲み出るのを感じ、誤魔化しようにも身体はこんなにも正直なのだと実感した。今もなお残る、彼から与えられた感触、快感。なかったことになど出来ない。出来る訳がない。そんなこと言われなくたって分かってる。消え去りたい過去だけを忘れるなんて、そう都合良く生きられたら人はそれ程苦労しない。



「……ッ、そ、それじゃあ私、お先に失礼します!」



居心地を悪く感じた私は、その場から逃げるようにして立ち去った。下手に言い返すより何も言わず離れることが懸命だと思えた。口であの人に勝てっこない。きっと私の反論なんて全て包み込まれてしまうのがオチだ。

とはいえ、勢いで出てきてしまったはものの、これから何処へ行き何をしようだとか、そんな目先の計画は皆無。ただ唯一確かなことは、シズちゃんが私に言い残していったあの一言。もし本当にそれを鵜呑みにするとしたらーーなんて、色々と想像しているうちに、体感温度が一気にぐんと急上昇してゆくのを感じた。火照る頬を手袋もなしに冷たくなった両手で包み、高ぶった体温を少しでも下げようと試みる。冷え性であるが故か指先は冷たくなっているのに、顔がこんなにも集中的に熱くて熱くて堪らない。



ーー今夜こそって、することといったら”あれ”しかないよね?

ーーまさか夜中に男女揃って仲良くトランプする訳でもないだろうし……

ーーいやいや、ちょっと待ってってば。そんな強引に決め付けられても、私、心の準備が……!



1人心の中で葛藤を続け、それでも決して嫌だとは思っていない自分自身に気付く。同時に、寧ろ私の方こそが彼の体温を欲しているということにもーー

あの髪に、肌に、唇に触れたい。ただそれだけでいい。お互いが相手だけを考えられるような、そんな時間を共有することが出来たらならこれほど幸せなことはない。



ーー今夜はシズちゃんの好物、いっぱい作って待っていよう。



彼の喜ぶ顔が見たい。その一心で、私は急遽これからの予定を「スーパーで買い出し」に切り替えた。シズちゃんの好物はオムライス、ハンバーグ、ナポリタンに海老フライ。まだまだ挙げればキリがない料理の数々、まるでお子様セットのようなラインアップだ。味覚が子どものようなシズちゃんのことだから、デザートのプリンだって欠かせない。ほんの少し奮発して、今夜はデパ地下の高級プリンを買おう。シズちゃんの喜ぶ顔を想像しながら、自然と弛む口端を慌てて両手で包み隠した。



♂♀



数時間後 新宿


みさきが帰ってしまった後、特に用もない池袋に長く滞在する理由もなく、適当に時間を潰しながら街中をふらり1人歩く。彼が来るにはまだ早い。どうせ今このタイミングで事務所に戻ったところで、出迎えてくれるのは嫌味な秘書と大量の仕事。時間潰しにクロスワードの載った雑誌でも買って帰ろうかと思い立ち、偶然目に入った書店の扉を潜った。

まず入り口付近には新作の書籍が所狭しと並んでおり、恐らく女性店員が作ったであろう可愛らしいPRのポップが高々と掲げられている。『今、恋をしている全ての男女に捧げる純愛物語』ーーそんな胡散臭いキャッチフレーズの文庫本を横目に、迷わず向かった先は週刊誌や芸能系雑誌のコーナー。探さなくとも、自ずと目に入る『羽島幽平』という売れっ子人気俳優の名前ーーつまりこれはアイツの実の弟なのだけどーーそういう理由で、当然俺が好いている訳がなく、心の中でそっと舌打ちをした。もし本当にこんなことしたら殺されるだろうな。熱狂的な彼のファンーーそして主に、実の妹たちに。



ーーそういえばあいつら、この間みさきに会いたがってたな。1度顔を合わせたのはもう随分と前のことだけど。

ーー正直、会わせたくないんだよなあ。

ーーそもそもあの時だってみさきと引き合わせるつもりは毛頭なかったし、異常にみさきのこと気に入ってたようだし。

ーー俺のこともペラペラ喋りそうな気がして、気が引けるんだよなあ。



ある一種の悩みの種を頭の端へと追いやり、読者泣かせな難題クロスワードで有名な某雑誌を手に取る。数ページ捲り、成る程、確かにこれは読者プレゼントも意味を成さないなと納得。にも関わらず俺は敢えてそれを選び、レジへと持って行き会計を済ませた。その際もレジ横に”例の文庫本”が積まれていたが、結局中に目を通すことはしなかった。他人の恋愛論に興味はない。そんなもの人それぞれだし、他人の決め付けたような論破を聞くのはジャンル問わず好きではなかった。

なかったーーのだが、「……」気付いたら文庫本のタイトルを携帯で検索しているあたり、どうやら俺は多少なりと気にはなっているらしい。これから重要な大仕事が待ち構えているというのに、みさきと会ってからの胸の内は若干浮ついていた。そろそろ気を引き締めなくては。彼が来る、その前に。



ーーごめん、みさき。優しい君のことだから、きっと悲しませることになるだろうね。

ーーなんたって今宵、シズちゃんは……



既に構成されたシナリオを頭の中で夢想しつつ、本当にそうなってくれることを心底願う。彼女にとっては「最悪」でも、俺にとっては「最高」となるーーそんな筋書き。果たしてどんな結末を迎えることになるのだろう。そんなことを考えながら心躍らせ、寒い冬の空を仰いだ。

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