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そんじゃ、行って来るわ。シズちゃんは玄関で屈み込みながら靴を履くと、背中を向けたままそう言った。その大きな背中に行ってらっしゃいを言うのが私の日課。まるで結婚したての新婚夫婦のようだと惚気たことを考えたことがあるが、口にするのが恥ずかしいのでそれを彼に言ったことはない。

靴を履き、サングラスを掛け、いつもの小さなバッグを片手に玄関の戸に手を掛けるシズちゃん。ここで最後に振り返り、今日は遅くなりそうだとか、今日の夕飯は何がいいだとか、そんな他愛のない会話を交わすのが私たちの日常茶飯事。しかし今日は何かが違った。シズちゃんは戸に手を掛けたまま何も口にせず俯き、かと言って玄関の扉を開こうともせず、ただ無言のままその場に立ち尽くしている。何やら様子のおかしい彼を不安に思い、私は思わず土足のまますぐ側まで歩み寄ると、その肩をとんとんと叩いてみた。彼が反応を示すまで、数回。



「大丈夫?仕事、行きたくないの?」

「……」

「ねぇ、ちゃんと言ってくれなきゃ分かんな……わわっ」



何の前触れもなく腕を掴まれ、引き寄せられ、突然唇にキスをされた。そう頭が判断するまでに数秒の時を経る。暫し時の後そっと唇が離れ、きょとんとする私に対しシズちゃんは悪戯っぽくにやりと笑う。



「今夜こそシような」

「……は」



一体突然何を思ったのか、しかしそんな突拍子のない彼の行動はいつものことで、もうとっくに慣れていたつもりだった。それでもたまに、本当にたまに、油断していた隙に突然のキス。恥ずかしくて、悔しくて、それなのに何も言えなくて。結局何も発せず口をぱくぱくとさせているうちに、彼は「うしっ、今度こそ行って来るわ」と言って仕事に行ってしまった。サングラス越しの彼の目は確かに笑っているようにも見えたが、正直なところ、それが本当にそうであったか断言することはできない。人の嘘や隠し事は大抵、相手の目を見れば分かる。特にシズちゃんは分かりやすい。それを彼は自覚しているが故に、何か私に隠し事をする時はいつだってサングラスを掛けていた。もしかしたら彼はーーいや、仕事にサングラスを掛けて行くのはいつものことではないか。



ーーまぁ、そこまで深く考えなくても大丈夫……だよね?



ようやく頬の熱が引き始めた頃、私はハッと土足のまま玄関に立っていたことを思い出し、慌ててスリッパに履き替えた。

そこで1つの疑問符。なんだかとんでもないような台詞をシズちゃんの口から聞いた気がする。ウウムと頭を捻り、思い返し、そしてようやく彼の言葉の意味を悟りーー



「しよう、って……ぇええええ!!?」



1人、絶叫だけが玄関に響き渡った。



♂♀



池袋 来良総合病院前


指定された時間よりもだいぶ早く病院に到着してしまい、どうしたものかとその周辺をウロウロする。シズちゃんからの唐突な夜の誘いに「いやいや、しないから!」だの何だのツッコミながら1人で悶々とした時間を過ごすより、臨也さんが来る前に沙樹と2人きりで少しでも話しておきたいと思った。しかし、いざ来たはいいものの会話の切り出し方に困る。頭の中でいくつかのシチュエーションを試しながら、とりあえず体調の方は如何なものか等無難な質問を考え抜き、改めて病棟の方へと向き直る。

人は疎ら。今頃学生は授業中だろうし、社会人は会社で仕事中だろうから、今の時間帯を考えれば頷ける。そんな中、場違いにも1人の男子学生が病院の出入口から出て来るのが見えた。制服を見ると、なんと来良の学生ではないか。着崩されたその格好は制服の堅苦しさを感じさせないラフな印象を見る者に与え、かといって学校をサボるような不良にも見えない。



ーー……あれ?

ーーあの子、どこかで見たような……



記憶の中を模索していると、それよりも先に私の存在に気が付いた彼は、途端に満面の笑みを浮かべると所構わず両手をぶんぶんと振った。



「あっ、お姉さん!そこのおねぇーさーーん!!」

「!!ッ!!?わ、私!?」

「あれれ、もしかして俺、忘れられちゃった!?そんなぁー次会った時にはデートするって約束だったじゃあないっすかぁー……」



そう言って大袈裟に肩を落とす少年の顔には確かに見覚えがあった。茶色く染め上げられた髪、派手目のピアス、歳上にも物怖じしないこの口調ーー



「……ぁ……ぁああ!!?もしかして、あの時の……!」

「思い出してくれました!?いやーまさかまた会えるなんて!きっとこれも運命ってヤツっしょ?またまた病院近くで出会っちゃった訳だけど、……もしかしてお姉さん……まさか彼氏の見舞い、じゃあないっすよね……?だとしたら俺、泣いちゃうんすけど」



病棟から出て来る際に物憂げな目をしていた少年は、まるでそれが嘘であったかのように陽気な口調でペラペラと話す。相変わらずの饒舌さに圧倒されつつも、先ほどまでの少年の影のある表情が妙に気に掛かっていた。あの目にとてもよく似た目を、私は以前見たことがある。怒りと悲しみが入り混じったようなーー混沌としたそんな目をしていたのは誰だったっけ?



「あは、違う違う。ここには友達が入院してるの。もう、随分と長い間」

「へぇ……奇遇っすね。俺が今日見舞ってきた子も、もう何年になるか……」

「その子、もしかして君の彼女?」

「!!」

「あ、間違ってたらごめんね。ただ、なんとなくそんな気がしただけ」

「……なんだ、お姉さんもエスパーだったんすね。参ったなあ……あいつと同じだ」

「あいつ?」

「彼女、ですよ。まぁ、正確には元カノ、なんすけど。俺のせいで大怪我して……それからもう、何年も」



ーーあぁ、やはりそうだったのか。



そんな気はしていた。あれは、大切な人を自分のせいで傷付けてしまった者の目だ。悔やんでも悔やみきれず、かといって許してくれとも言えず。どうしたら償うことができるのか、ただそればかりを考えてしまう。例え相手が許してくれたとしても、自分自身がそれを許せないのだ。そうして人は過去に囚われてしまう。それは私にも言えることだった。

思わず考えていたことが顔に出てしまっていたのか、少年は落ち込む私を元気付けようと陽気に振舞うフリをする。しかし彼の事情を知ってしまった後では、その好意も何だか痛々しく思えてしまった。多分、彼だって泣きたいほど辛い思いをしてきただろうに、歳上である自分が歳下にこうも気を遣わせてしまっているのが恥ずかしい。



「あーもう!お姉さんがそんな悲しそうな顔してたら、見舞いしてもらう側も浮かばれないっしょ!?ほら、スマイル!スマーイル!!」

「そ、そうだよね……ごめんね!こんな顔してちゃあ、逆に心配されちゃうよね……!」

「そうっすよ!早く元気なお顔をお友達にも見せてやって来てください。俺はもうあいつの前でそんな顔、出来ませんから……」

「……」

「つー訳で!今日はこれから見舞いだろうから諦めますけど、今度こそデートしてくれますよね?ね!?」

「あ、今更だけど私、彼氏いるんだけど……」

「大丈夫!問題ない!」

「問題ないの!?」

「とりあえずアドレス教えてくれます?また後日、俺から連絡しますわ!」



ぐいぐいと彼のペースに押し切られ、結局互いの連絡先を交換し合った私の携帯には新たなアドレスが1つ追加された。それを確認するよりも先に、少年はまたもぶんぶんと両手を振りながら早々とその場を後にする。もしかしたら彼にもこれからの予定があるのかもしれない。心無しかペースの速い彼の足取りがそれを物語っている。



ーーデート、という訳にはいかないけど、また会って話すくらいならいいかな。



そんなことを考えながら、私は新たに追加された連絡先に目を通す。そういえば私、まだあの子の名前知らないんだっけ……

そして私は驚愕する。なんて世界は狭いのだろうと改めて思わされてしまうほどの偶然に。今日初めて知るはずの少年の名は、以前から聞き覚えのある名前だった。その彼の名はーー『紀田正臣』。沙樹の彼氏と同じ名前だった。



♂♀



某病室


「あはは。だってみさきは綺麗なんだから、油断してるとすぐ正臣みたいな男の子にナンパされちゃうよ?」

「……へっ!?」



その後、沙樹の元を訪れた私はすぐに先ほどまでの出来事を彼女に話した。知らなかったとはいえ、友人の彼氏とデートの約束をしてしまうなんて言語道断。いてもたってもいられず、勢いに任せて話してしまったはものの、彼女からの反応はやけにあっさりとしたものだった。無論、正臣くんとそういった関係になろうとなど思ってはいない。それでも彼女の立場からしてみれば、あまり気持ちの良い話ではないような気もするのだがーー

戸惑う私に、沙樹は寧ろ「いいんじゃない?」と言う始末。ますますどうしたらいいのか分からなくなってしまった。



「それにしても、いいなぁ。羨ましい。私なんて、もう何年も正臣に誘われてないなあ」

「それは……きっと、沙樹がまだ完治していないからだよ」

「ううん、違うと思う。だって私、もうとっくに治ってるもん」

「えっ、」

「入院が必要だったのは本当だよ?でも、もう怪我自体は治ってるの。あとはリハビリ次第で歩けるって、担当医の先生が言ってた」

「じ、じゃあ、どうして……沙樹は退院したくないの?」

「うーん、どうなんだろう。でも、今はこのままでいなさいって、あの人に言われたから」

「……あの人、って……」



嫌な予感がした。彼女がその名を口にせずとも、私は即座に理解してしまったのだ。彼女がまさに今、口にしようとしている人物の名ーーそれは多分、彼1人しかいない。

その時、タイミングを見計らったかのように病室の扉がガラリと開く。私の姿を見通して、沙樹はたった今入室してきた人物を確認するなり、ほんのりとその?を赤く染めた。嬉しそうに、そして親しげに、私のすぐ背後に立っているであろう人物を呼ぶ。振り向くタイミングを逃してしまった私は、何処か居心地を悪く感じる。



「やぁ、待たせたね。それじゃあ仲良く3人で話そうじゃあないか」

「多分……彼が新宿に来るだろうから、手短にね」



彼ーー臨也さんはそう言うと、ピシャリ、病室の扉を閉めた。

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