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声がする。
それは聞いたことのない少女の声だった。

助けを求め、懇願する悲痛な声。ふわふわと不安定な意識の中、その声に応えようと必死に声を捻り出そうとするも上手く言葉を紡げない。やはりこれは夢なのか。なら、いちいち気に掛けるようなこともない。何度もそう解釈しようとしたが、頭に直接語り掛けてくるようなこの感覚には身に覚えがあった。自分の中の罪歌が、あるいは、贄川春菜が罪歌を通じて私に語り掛けてきた時のあの感覚によく似ている。もし、私の勘が当たっているとするのならーー何処かにいる他の罪歌の持ち主が、私に助けを求めているのではないか。恐らく会ったこともない相手だろう。けど、同じ境遇の彼女を見捨てることも出来ない。



ーー貴女は誰?どこにいるの?



必死に絞り出したその声は、果たして声となり彼女の元へと届いただろうか。その答えを知る由もなく、私の意識は再び別の世界へと引き寄せられる。





「……!!」

「ぅおっ、!!!?」



勢い良くがばりと起き上がると、そこはいつもの部屋の中。暗い。が、時間は確実に時を刻んでおり、壁に掛かった時計の針は朝の7時半頃を指していた。寝起きだというのに恐いくらいに意識は冴えていて、閉め切った部屋の外からはシトシトと静かに雨の降る音がする。朝からどんよりと暗いのは雨の所為なのだと悟り、ひとまず、すぐ目の前で目を丸くした彼に今の状況を問うことにする。偶然なのか何なのか、彼は私の身体を覆うような姿勢でこちらを見ていたのだった。まるで、これから疚しいことでもしようかと言わんばかりに。



「……何してるの?」

「い、いや、別に……その、転びかけて……だな?」

「へえ?随分とタイミングが悪かったね。これじゃあ寝込みを襲っているようにしか見えないよ?」

「はは……まさか。ただ、昨日俺に構わず勝手に寝ちまった腹癒せに襲おうだなんて、そんな……なぁ?つい、みさきの寝顔が可愛かったから、なんて」

「……」



嘘が下手すぎるシズちゃんはさておき、寝起きの気分は最悪だった。あんな夢を見てしまったこともあり、睡眠時間の割に熟睡できた気がしない。



「ま、いいや。……可愛いなんて言われて、悪い気もしないし……」

「? なにか言ったか?」

「なんでもない!そんなことより、早くどいてよ。シズちゃんが邪魔で起き上がれないじゃない」

「なんだよ、起きるのかよ。どうせだし、このまま朝から……」

「する訳ないでしょう」



どさくさに紛れて迫り来るシズちゃんの頬をむにっと押し返し、布団から出ると外の空気は意外にもひんやりと冷たかった。今日はやけに冷える朝だ、と、肩から上着を羽織りながら言う。口を尖らせ、やや不機嫌そうなシズちゃんが「今日は1日中雨だってよ」と教えてくれた。雨だと仕事に行く気になれないとぼやきながら、正面のカーテンを捲ってみせる。分厚い灰色の雲に覆われた空では、太陽の光が射し込むことはない。確かに、今日は洗濯絶不調日和だ。溜まりかけた洗濯物の山の存在をふと思い出し、ため息。今日も引き続き片付けられそうにない。

今朝は温かい味噌汁をつくり、2人して納豆をかき混ぜる。いかにも日本人らしい朝食を摂りながら、シズちゃんと他愛のない会話を交わした。今日の仕事は少し長引くかもしれないだとか、風邪を引かないよう厚着のものを着た方がいいだとか。しかし、どうにも昨夜見た夢の出来事が忘れられない。シズちゃんに相談しようにも、一体何からどう説明したらいいかも分からない。



「私……このまま呑気に納豆かき混ぜてていいのかな……」

「? 納豆はよく混ぜた方が美味ぇだろ。このネバネバが嫌いだって言うやつもいるけどな」

「……そうだね。私も納豆はネバネバの方が好きだな。そんでもってチーズなんか混ぜても美味しいな」

「いや、そこはシンプルに付属の調味料だけで十分だろ」



納豆について熱く議論を交わしたり、天気が悪いことを除いては拍子抜けしてしまうくらい平和な朝の訪れ。昨日からの流れで、今にも波乱な日々を再び迎えてしまうのではないかと不安に駆られていたのがまるで嘘のようだ。もしかしたらシズちゃんも私と同じことを考えているのかもしれないが、互いにそれを話題に挙げることはなかった。口に出して言葉にしてしまったら、本当にそうなってしまいそうな気がして怖かったのかもしれない。

今日も仕事に向かわなければならないとなると、気分は憂鬱だった。シズちゃんのように天気に左右されている訳ではない。雇い主である臨也さんとの接し方にはいつも悩まされる。にも関わらず当の本人はいつだってあっけらかんとしており、どうせ今日だって顔を合わせたところで「やあ、昨日は悪かったね」なんて悪びれもない調子で言うのだろう。変に話を引き延ばしにされるのも困るが、こうもあっさり割り切られてしまうのも納得がいかない。いちいち人並みに悩んでいる自分が馬鹿馬鹿しく思えてしまうではないか。



「……?」



そんな矢先に届いた1通のメール。差出人は波江さん。そこには『今日は仕事に来なくてもいい』との節が、彼女らしくも淡々とした業務的形式で記されていた。行きたくない本心が強かった故にこの報せは歓喜物であったが、となると、もしかしたら臨也さんも今回の件に関しては多少意識しているのではーー?そんな思いが頭を過るも、文章の最後に『来良大学総合病院に来るように』と臨也さんからの言伝が付け加えられており、仕事場に向かわなくてはいいものの、結局は顔を合わせることになるのだということに思わずため息を吐いた。

携帯を片手に肩を落とす私を見て不審に思ったのか、シズちゃんがどうしたと訊く。



「ん……なんでもないよ」

「明らかに何かありそうな顔してるけどな。ちょっと携帯見せてみろ」

「! 駄目!!」

「そんなに拒否られると、逆に勘ぐっちまうよなあ?携帯を恋人に見せないのは浮気の兆候だって聞いたぞ」

「誰から」

「トムさん」

「……。シズちゃんってほんと、トムさんの言うことは疑わないよね……」

「人生の先輩みたいなもんだからな、トムさんは。……て、おい。話を逸らすな」

「わわわ!ちょっ、いきなり取るなんて反則!」

「反則も何もあるか!どれどれ……おい、これどうやってメール開くんだ?」

「……」



とにかく、このままでは頑なに携帯を返してくれようとはしないので、仕方なくメールを見せてあげることにした。差出人が臨也さん本人からではないし、これだけ何の面白みもないーーまるで回覧板の文面のようなメールを見せたところで特に支障はないはずだ。念のため再度文章にざっと目を通し、昨日の件に関して何も触れていないことを確認する。



「ほら!なーんにも疚しいことなんて書いてないでしょう?今日はお休みだって」

「……本当にそれだけか?」

「妙に疑ってくるなぁ。本当だって」

「この病院に行く用ってのはなんだ?確かみさきの知り合いが入院してるんだったよな。まさか見舞いに行けるようアイツが気を利かせた訳じゃあないだろうし」

「あ、でも、もしかしたらそうかも。入院してる例の女の子、臨也さんとも知り合いっていうか……」



私がそう口にした途端、シズちゃんがぴくりと反応する。



「知り合い?ちょっと待て、初耳だぞ」

「? 何か問題でも?」

「大アリだろーが!いいか?あのノミ蟲野郎には高校ん時からやけに取り巻きがわんさかいたが、そういう奴らは大抵信者みてぇな類いなんだよ!特に女ってのはああいうのに妙に入れ込むんだ。中には好意を抱くヤツもいただろうが、少なくとも俺は臨也の野郎が特定の誰かと付き合ってたところを見たことがねぇ」

「ちょっと、沙樹のこと悪く言うのはやめてよ」

「悪く言いたい訳じゃない。ただ、その沙樹って子が臨也に深く入れ込んでるとしたら、用心しとけって話だ。みさきだけじゃなくて、その子本人のためにも」

「……」



シズちゃんが言うことも分かるーー気がする。沙樹の臨也さんへの執着心が異常であることも一理ある。



「一応念押しとくけどな、アイツに世間一般的な常識は通用しないと思え」



そうシズちゃんがしつこく言ってくるものだから、私もつい「分かった分かった」と軽く受け流してしまった。そんなこと言われなくたって、十分熟知しているものだと思っていたからだ。後に私の認識がいかに甘いものであったか知ることとなるのだが、それはまだほんの少し先の話。



♂♀



とあるチャットルーム


セットンさんが入室されました。



【あ、セットンさん。こんにちは】

『こんにちはー』

『田中さんとあひるさんだなんて、この時間帯に珍しい組み合わせですね』

『太郎さんと甘楽さんの昨夜の過去ログもツッコミどころ満載なんだけど』

「あぁ、ザ?甘楽っていうのですか?」

「私も入室早々ツッコミましたよ」

【自称乙女は扱いがなかなか難しいですね】

【まぁ、あの人に関してはいちいち気にするのも疲れましたがw】

「そんな扱いでいいんですか!?」

『いいのいいの、あひるさん。気にしないで』

『実際、ここでの付き合いが長い私たちでさえ扱いに困ってますから……甘楽さんには』

『まぁ、一応管理人としての責任はあるようで。お陰で特に問題なくこうして会話できる訳ですけどね』

【一時期結構荒れましたよね】

【あの時はほんと、どうなることかと思いました】

「罪歌さんのことですか?」

『あぁ、その件はもう大丈夫。安心して』

『実際話してみて、罪歌さん良い人だったから』

【1度話せば分かりますよ】

【なんでも、ウイルスに感染されていたとか……】

「今時のウイルスって色々と厄介なんですねえ」

「私も気を付けよう」

「……と、話が逸れてしまいました」

「ええと、太郎さんが街中の近状を知りたいらしいんですけど……」

『実は私もそうなんですよね。そのためにチャットログインしたようなもので、申し訳ないことにすぐ落ちることになると思うんですけど』

【セットンさん、基本夜型ですもんね】

『あはは……まぁ』

『とりあえず情報収集を、と』

「街中ですか……最近物騒な話しか聞きませんねえ」

「そういうのは甘楽さんの得意分野じゃあないですか」

【えぇ、昨夜聞きましたよ】

【なんか……中途半端に終わったというか……上手くはぐらかされたというか……】

「相変わらずマイペースな」

「今はいないみたいですけど……普段は何してるんでしょうあの人」

「案外、探偵とかしちゃってたりして」

【うーん……合ってるような合っていないような……】

『昨夜のログ見てきましたけど、随分と中途半端な終わり方ですね』


【少し黄巾賊に興味がありまして、聞いてみたはものの思わせぶりな発言で終わりました】

『やめておいた方がいいと思いますよ。今少し荒れているようですし、昨夜も集会があったようで』

『あっ、実際に見た訳じゃなくて、人から聞いた話ですけどね!?』

「そんなに危険なんですか?黄巾賊」

『そりゃあ、チーム間の抗争とやらで苛立ってるようから。できることなら外出せず、家で大人しくゲームでもしていることをおすすめします』

【あひるさんがゲーマーとは限りませんよw】

『ものの例えです(笑)』

『あ、すみません。突然ですが落ちます』

『ではまた!』



セットンさんが退室されました。



「あらら、随分と忙しなく行ってしまいましたね」

「忙しいんでしょうか……」

「まぁ、そういうわけで、私も太郎さんの期待に添えるようなことはなにも」

「申し訳ないです」

【いえ、気にしないでください。久々に話せて楽しかったです】

【とりあえず私たちも落ちるとしますか】

「そうですね」

「今度はゆっくりとまたみんなで話したいものです」

【それまでに街のほとぼりが冷めるといいのですが……】

「同感です」

「では、一旦落ちますね」



あひるさんが退室されました。

田中太郎さんが退室されました。


現在、チャットルームには誰もいません。
現在、チャットルームには誰もいません。
現在、チャットルームには誰もいません。

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