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少しずつ、自分の身の回りで起こっている変化を肌で感じ始める。身体を纏う空気がピリピリと痛い。『災難去って、また災難』ーーその言葉通り、私は再び災難を迎えようとしていた。





新宿 某マンション


「仕事は仕事さ。そこはきちんと割り切ってもらわないと」



事務所には何食わぬ顔した臨也さんと波江さんがいて、部屋の隅には膨大な資料の山が所狭しと並んでいる。一体全体何事だと思わず目を疑ってしまう程、その積もりに積もった資料の山々はあまりに酷い有り様だった。まず何から話そうかと頭を悶々とさせてここまで来たが、どうやら悩む必要は皆無であったらしい。



「う、わぁ……なんなんですか一体」

「見ての通り、仕事の山」

「何をどうしたらこんなに仕事が溜まるんですか!絶ッ対今日中なんかじゃあ終わりませんよ!」

「それが困るんだよ。俺にはやらなきゃいけないことがたくさんあるし、これから行かなきゃいけない用もあるし」

「ええっ、私と波江さんに仕事押し付けて行っちゃうんですか!?」

「ごめんごめん、残業手当て出すからさ!てな訳で、俺はもう行くね」

「ちょ……ッ、今日中だなんて、無理ですよーー!!?」



私の叫びも虚しく、彼はいつものフードを羽織ると、さっさと部屋を出て行ってしまった。昨日の話をするどころかまともに会話すらできず、資料の山々のせいで普段より狭く感じる事務所にたった2人残された私と波江さんは、文句を言う対象もいないので、仕方なく仕事に取り掛かることにした。初めは黙々とこなしていたものの、次第に集中力も切れ、もうどうにでもなれ精神で吹っ切れた私は、波江さんと世間話ができるほどの心の余裕ができていた。人間絶望を目の当たりにすると、もはや何も感ぜず、自分のことは棚に上げて他人事になれるものなのだと悟る。話を聞くと波江さんは初めから諦めていたようで、「もし終わらなくても責任は全部あいつに取ってもらうわ」とさらりと言ってみせた。



「ところで、朝からずっと気になっていたんだけど……なにかしら、その猫」

「あ……あはは……その、勝手に付いて来ちゃって……」



それに応えるかのように、足元で戯れていた猫が一声にゃあと鳴く。シズちゃんが「みさき」と呼んでいたその猫は、今朝も昨夜と同じ場所で私をじっと見上げていた。物言わぬその粒らな瞳に心奪われ、つい足が止まってしまう。もともと猫好きであったことも加え、昨夜のこともあった手前どうにも他人(猫?)事には思えず、そのまま見て見ぬ振りなどできなかった。結局、猫は私に1度も抱き抱えられることなく、自らの足で歩いてここまでついて来てしまった。人とのすれ違い際にやけにじろじろと足元を見られていると思ってはいたが、猫を引き連れて歩くその様が人々の目に物珍しく映ったのだろう。

首輪も何も付けていないあたり、やはり飼い猫ではないようだ。それにしても人懐っこい。猫は私の何に引き寄せられているのか、すぐ傍を離れようとはしなかった。それ故、両手いっぱいの資料を運び出す際足元にまで注意が行き届かず、何度踏んでしまいそうになったことか。幸いなことに、今のところまだ1度も踏んではいない。何故か頭の中で『ねこ踏んじゃった』のメロディが流れた。ーーいやいや、笑えない。



♂♀



5時間後


「とりあえずひと段落ついたわね……」

「少し休憩しましょう。あっ、紅茶淹れましょうか?来客用のやつですけど」

「お願いするわ」



仕事の取引先から貰った、いかにも高級そうなパッケージに包まれたティーパックを2つ取り出す。食器棚からマグカップを2つと、ほんの少し悩んだ後、底の浅い白い皿を手に取った。猫用のミルクにと、冷蔵庫の中から牛乳を少しばかり拝借する。念のため電子レンジで軽く温めてから、ミルクを注いだ皿を床に置くと、猫のみさきは小走りで駆け寄り、ぴちゃぴちゃと赤い舌先でそれを舐め始めた。

微笑ましい気持ちで猫を眺めているうちにやかんがシュウシュウと音を立て、沸騰した湯の注がれたマグカップをおぼんに載せて持って行く。テレビではここ最近騒がれている拳銃強盗の話題が挙げられ、お偉い評論家たちが口々に何か言い合っている。



「拳銃が盗まれるなんて物騒ですよねぇ。犯人、早く捕まってくれればいいんですけど」

「そうね。黒幕である彼が捕まるなんてそんなヘマ、絶対しないでしょうけど」



物凄く意味ありげな言葉をサラッと口にした波江さん。いまいちその言葉の意味を理解できず、今1度頭の中で言葉を反復させてみる。



ーー”黒幕の彼”……

ーー思い当たる人物なんて、1人しかいないけど。



臨也さんが裏で何やら動いていることには気付いていた。気付いておきながら、何も口出ししなかった。彼の方も私が気付いていることに気付いていて、それでも敢えて話題に出すことはなかった。きっとこれかも互いが口にすることはないであろう話。それは相手を信用していないからではなく、言う必要がないと判断した結果である。



「物騒と言えば……最近黄色い奴らが増えてるだろうから、貴女も気を付けた方がいいわ。多分、これからもっと増えるんでしょうけど」



黄色い奴らと聞いて、瞬時に思い浮かんだのは『黄巾賊』という名の不良グループ。ブルースクウェアとの抗争を機に小規模になりつつ、息を潜め、これまで細々と活動してきたらしい。詳しいことは知らないが、確かに、罪歌の件がひと段落ついたかと思えば、今まで以上に黄巾賊メンバーを街中で目にするようになった。一部では例の拳銃強盗も黄巾賊の仕業ではないかと噂されている程だ。今のところ何か大きな騒ぎを起こしたという情報は入ってきていないものの、いつ何が起きても不思議ではない。何せ相手は不良グループ。こちらが願ってもいないのに、彼らはご丁寧にもシズちゃんのような強い人間に絡みたがる。どうせ勝てっこないだろうに。

ふと、部屋の端に追いやられた口の縛られたごみ袋を発見する。燃やされたのであろう焦げたゲーム盤や将棋の駒、マッチの箱に大量のトランプ。中には黒々とした炭と化し、元が何であったか分からないものも無造作に放り込まれていた。火元に置いてあるようなものならともかく、燃やされるにはあまりに不自然なものばかり。意図的に燃やされたのではないかと思うと、臨也さんの狂気的な一面が垣間見えたような気がした。



「あぁ、それ。結局最後まで片付けなかったのね、あいつ」

「あいつって……臨也さんのことですよね。どうしたんですか、これ。まさか火事があった訳じゃあ、」

「まさか。いきなりあいつがガソリンぶち撒けて火点けるものだから、そりゃあ火事と間違えられてもおかしくないくらい盛大に燃えるわよね。心配しなくていいわ。あいつの気まぐれなんて、いつものことだから」

「いいんですか?片付けなくて。いらなくなった資料捨てるついでに持っていきましょうか」

「……仕方ないわね。これからは自分で出したゴミくらい片付けて欲しいものだわ」



それから3時間掛けて山積みにされた資料を8割ほど片付け、夕方には両手でごみ袋を担ぎながら事務所を後にした。ちなみに猫はというと、ごみ袋が邪魔で抱き抱えてあげることができず、どうしようかと悩んでいた矢先、それを察したのか(?)猫は自ら私の頭によじ登ってきた。両手にごみ袋、頭に猫という己の不審者振りに思わず苦笑。誰にも見られないうちにさっさとごみ捨て場へ行き、早急にごみ出しという名のミッションをクリアしなくては。普段滅多に笑うことのない波江さんが、私を見て必死に何かを堪えていたのが若干気に掛かるが。



「ええと、確かゴミ捨て場はこのあたりに……」

「ぶっ」

「……」



背後から誰かが盛大に吹き出す音。もはや嫌な予感しかしない。立ち止まり、ゆっくり振り返ると、そこには案の定臨也さんの姿があった。波江さんのように一切気を使うことなく、余程可笑しいのか、己の感情を少しも隠そうともせず全面に表している。



「……なに笑ってるんですか」

「いや、だって、いくら両手が塞がってるからって、頭に猫とか……ぶはっ」

「誰の所為だと思ってるんですか!」



思わずごみ袋を投げつけてやりたい衝動に駆られ、理性で抑え込む。お腹を抱えて笑う臨也さんを無視し、ゴミ捨て場のある反対方向へと歩く。



「ねぇ、もしかして怒ってる?ごめんってば。1つ持とうか?」

「そんなニヤついた顔で謝られても、ちっとも誠意が伝わってきませんよ」



私が歩くペースを上げると、彼の歩くペースも上がる。仕事から疲れて帰って来たのだろうから、さっさと事務所で休めばいいのに。

結局ゴミ捨て場までついてきた臨也さん。私は構うことなくごみ袋を放り投げると、くるりとその場で回れ右をし、今度は帰路に向けて足を向けた。頭上からにゃあと猫に呼び止められ、危うく忘れ掛けていた猫の存在に気付き、慌てて両手を伸ばし、頭からそっと降ろしてやる。



「資料の整理は終わったのかい?物凄い量だっただろう」

「残りあと2割ほど」

「うんうん。さすがは俺の見込んだ優秀な秘書たちだ。これでようやく横になって寝る場所は確保できたかな。お陰でスペースができた訳だし、よかったらお茶でも飲んでいかない?勤務時間外だから俺が煎れるし、今日はお土産に丁度いい茶菓子もある」

「……」



内なる2人の自分が葛藤する。茶菓子に心揺れる弱い自分と、頑なに拒否する意地っ張りな自分。今日は帰りに沙樹のお見舞いに行かなくてはならないのだから、と。



「君が好きそうだと思ったんだけどなあ。サックサクのミルフィーユに、最高級のチョコがけパイ!この間テレビで紹介されてたんだけど、開店前から並ばないと買えない話題の新作らしいよ?」

「(ぐ……ッ!)」

「本ッ当〜にいいの?後悔しない?俺1人で食べちゃってもいいのかなぁ……?」



どうやら私はお菓子如きで簡単に釣れる安い女だと見くびられているようだ。「そんなに安い女だと思うなよ!」と捨て台詞と共にその場から逃げ出してしまいたくなった。しかし甘いものに目がない私にとって、その甘い誘惑はあまりに魅力的。



「……少しだけ、ですよ」

「みさきならそう言うと思った」



にんまりと笑う臨也さんに何も言い返せず、私はすぐにそっぽを向いた。誘惑に負けた心の声を読まれてしまうその前に。



♂♀



池袋 露四亜寿司前


「シズゥオ、トム、ゴキゲンーヨ」



トムさんと今日はどこで食べようかと歩いていた矢先、サイモンに声を掛けられたのがつい先程。寿司を安くしてやると言われ気持ちが揺らいでいたというのに、今最も聞きたくなかった人物の名を聞かされ、おまけにボッタクリだとか抜かすものだから、今こうしてサイモンと拳を交えている。おまけに勢い余ってポストを壊してしまう始末。



「落ち着いたか?」

「……はい。今、ポストっていくらすんのか考えてたとこです」

「それ、俺も思ったんだよなあ。んで、ググってみた訳よ。どうも家庭用しか出てこねえな」

「そりゃそうっすよね……」



携帯片手に頭を掻くトムさんの横で自己嫌悪に苛まれる。会社の社長に肩代わりしてもらっている上、給料まで貰っているのだから頭が上がらない。



「なぁ静雄、気付いてるか?いつもなら黄巾賊のガキンチョ共が絡んできたっておかしくねえよな」

「あぁ、あの黄色いやつらっすよね。別に俺はいなきゃいないで、何とも思わねぇっすけど」

「いや、別に俺もいたらどうとか、そういう訳じゃねえんだけどな。ただ、なんだか嫌な予感がすんのよ。これ、俺の直感。嫌な雲も出てるしな」

「そういやひと雨来そうっすね。とっとと適当な店入りましょう」

「お、おう。てか、お前今日は時間いいのか?夜の回収終わり次第すぐに帰りたいんなら、先に回収先回っちまってもいいんだべ?」

「いや、今夜は出先で済ませようと思ってましたから。みさきも帰りが遅いって言ってましたし」

「ふうん。いつの間に復縁してたんだな、みさきちゃんと。なんやかんやありつつ、仲良いねえ」

「はは……まぁ、ほんと色々と厄介なんすけどね……」



幾度も別れを繰り返し、その度に俺たちの繋がりはより深まってきた。失う度に、相手の存在がいかに自分にとってかけがえのないものであるかを実感できる。今回もそうだ。結局、行き着く場所はいつだって同じなのだ。



ーー俺にはもう、みさきしかいねぇんだ。

ーー……みさきじゃなきゃ、駄目なんだ。



単に依存と呼ぶには生温く、自分でさえ理解し難い感情を胸に、雲行きの怪しい灰色の空を仰ぐ。トムさんの言う通り、今にも泣き出しそうな曇り空。この纏わりつくような嫌な感じは天候故か、それともーー

俺の予感は結構当たる。嫌な予感であればあるほど当たる。当たって欲しくない時に限って当たるもんだから、今も憂鬱で仕方がない。一見何食わぬ顔したこの街で、今も何処か異なる場所で何かが起きているに違いない。



♂♀



この時、街では確かに様々なことが起きていた。首無しライダーと切り裂き魔が同時に黄巾賊の集会へと姿を現し、その場にいた少年は困惑の渦へと巻き込まれる。

人はそれぞれ誰かを想い、それ故に何かを犠牲にしようとする。守りたいという思いが強ければ強いほど、願えば願うほど、様々な思いが交差した時ーー”誰か”が願う戦争は起こる。

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