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不穏な空気の立ち込めていた空間からようやく解放され、再び外のひんやりとした空気に身を晒される。『さて、これからどうしようか』とセルティが言うよりも早く、気付いたらもうそこに臨也さんの姿はなかった。入れ替わるように私の携帯には彼からのメールが入っており、日付や時間、場所などといった簡素な内容だけが記されていた。恐らく秘書としての業務内容であることはすぐに理解できたが、あれだけ散々諦めないだの言っていた彼が、こうもあっさり帰ってしまうとは。正直、私としてはこれからのことを悩まずに済んで有難いのだが。
とはいえシズちゃんとは色々あった手前、臨也さんがいなくなった今、改めて面と向かうと何から話せばいいのやら分からなくなってしまった。過剰に相手を意識してしまい、まともに顔さえ直視できない。そんな私たちを気遣ってくれたのか、セルティは1つの提案をする。
『とりあえず、ウチに来ないか?』
『その……ごたごたを聞きつけて白バイがやって来る前に』
♂♀
川越街道某所 新羅のマンション
「おかえりセルティ!君に頼まれてたミッション、ようやくクリアできたよ!ちなみに父さんは隣の部屋で寝……って、おや?静雄くんじゃあないか。それにみさきちゃんも」
「お久しぶりです。新羅さん」
「2人揃ってウチに来るなんて、只事ではないことは確かだろうね。はッ、もしかしてこれは重大報告だったりする!?まさか僕とセルティよりも先に静雄くんがゴールインだなんて!喫驚仰天!寝耳に水だよ!いや、意外なことっていうか、いつか来るとは思ってたんだけど、まさかそれが今日だなんて……!」
『ええい、黙れ!話を勝手に進めて勝手に盛り上がるな!』
「え、結婚式のお誘いじゃあないのかい?」
「けっ、結婚!!?」
「結婚……あぁ、俺的にはそうしたい気満々だけど。つーか、いっそ変な害虫が付く前にしちまうのもありか」
「!!!?」
あまりに突拍子もないことを言い出すものだから、つい大きな声を出してしまった。本気なのか冗談なのか定かでないまま、話は本題へと移る。新羅さんが煎れてくれた玄米茶を啜りながら、私はチラチラとシズちゃんの方を伺いつつ、落ち着きなく視線を泳がせていた。
『それにしても、臨也が関わってるってだけで本当にややこしいな。結局あいつは何がしたいんだ?ただ静雄の恋路を邪魔したいだけなんじゃあ……』
「もしそれだけの理由なら、多分静雄くんよりも先に相手の女の子を貶めているだろうね。けど、わざわざ自分から近付くことはないと思うよ?適当な手駒を使って、間接的に接触するのがあいつのやり方だから」
『尚更えげつないな……』
「おまけに臨也は権謀術数に長けてるからねえ。教唆煽動もお手の物さ」
「どうでもいいんだよあいつのことは。そんなことより、俺はみさきとこれからのことを話したい」
そう言ってシズちゃんは私を見る。互いの視線が交わり、不思議と目が逸らせなくなる。目は口ほどに物を言うというが、なるほど、確かにその通りだ。言わずとも彼の言いたいことがひしひしと伝わってくる。だから私は応えなければならない。今思っていること、感じていること、ありのままを全部。
「私……本当に短い間だったけど、臨也さんと一緒にいて、改めてシズちゃんが好きだと思えたよ。でも、臨也さんを意識していたのも事実で……やっぱり、違う人にドキドキするのって、変ですよね……」
沈黙。返答のない時間が苦しくて、罪悪感に押し潰されそうになる。やはり私はおかしかったのだ。だからきっと、返す言葉も見つからないのだろう。いたたまれない気持ちでいっぱいになり、思わず何かが込み上げてくるのを必死に堪えていたその時、セルティは首を傾げながら、たった一言こう告げた。
『……それで?』
「えっ?」
『いや、だから、臨也がちょっかい出してくるのはよーく分かった。あいつはいちいち人の恋愛沙汰に口を挟みたがるんだ。私も今までに何度からかわれ……』
「え、……そ、それだけ?」
意外な応えに拍子抜けするも、セルティはやはり動じることなく指先で画面を軽く叩き、文字の羅列を更にこちらへと向けた。
『私だって、新羅以外にドキドキはするぞ?』
「え、えええーーーーー!!!?」
セルティの言葉に絶叫したのは新羅さんだった。テーブルにバンッと両手を置き、一気に彼女へと詰め寄る。セルティに首から上こそはないものの、そこから漂う黒い霧のようなものの動きから、彼女の明らかな動揺を感じ取れた。
「セセセセセルティ!?私というものがありながら……ちょっと!今、目逸らしたでしょう!?」
『私のどこに逸らす目があるってitmda』
「ほらもう、すぐにそうやって分かりやすく動揺する!相手は!?君の返答によってはショックのどん底危険レベル8に今から旅立ち……」
『いやまて落ち着け!誰にだってそのくらいはあるだろうが!なぁ、静雄』
「俺はみさき以外の女に興味ねぇ」
『……』
「僕だって、物心ついた頃からセルティ一筋だよ」
『…………』
「「「……」」」
またもや沈黙。セルティは暫し『?』やら『ええと』やら、ひたすら言葉にならない単語ばかりを連発していたものの、ついにはガクッと肩を落とし、力無くPDAを差し出した。
『なるほどな。周りの人間が皆こうも極端だから、みさきちゃんも悩む訳だ』
「?」
『誤解されそうだから先に言っておく。安心しろ。私が愛しているのは新羅だけだ』
「セ、セルティ……!」
ソファにもたれ掛かって項垂れていた新羅さんが突然がばりと起き上がる。
『だけどな、私は新羅以外の異性にドキドキすることだってある。例えば俳優の羽島幽平なんかも格好良いと思うし、今だから言うが、罪歌と戦う静雄を心底格好良いとも思った。私は自分でそれなりに強い方だとは思うが、あの時の静雄には到底勝てっこないだろうな』
くどいようだが、変に勘違いするなよ。そう言って新羅さんに釘を刺すセルティがなんだかおかしくて、張り詰めていた気がいつの間にか自然と和らいでいることに気付いた。確かにセルティは人間ではない。が、今この場にいる者の中では間違いなく最も人間らしいと思う。
『私もよく悩んだよ。私の感じている『好き』って気持ちが、果たして人間の感じているそれと同じなのだろうかって。今思い返すと悩み損だったな。とはいえ、悩み続けた20年間を無駄だったとは思わないよ。新羅のお陰でね』
「? セルティ、どうして私には画面を見せてくれないんだい?ねぇ」
『お前に話すと調子に乗るからな』
「ちょっ、何それ酷くない?」
なんか、こういうのいいよな。ずっと黙り込んでいたシズちゃんが発した第一声がそれだった。私も同意見だった。言わずとも互いをよく分かり合っていて、そんな信頼関係が築けていることを心底羨ましいとも思う。私だってシズちゃんのことを信じているし、疑っている訳ではない。信じられないのは彼ではなく、他ならぬ”自分自身”だ。
結局その後、2人きりで話したいというシズちゃんの希望もあり、セルティ達に別れを告げた後、私たちは夜道を並んで歩いた。どうやら私のいない数日の間にシズちゃんは住居を移っていたらしく、帰路がいつもと違う風景であることにほんの少し違和感を覚えた。そのアパートは以前よりも部屋自体狭いものの、それなりに広い浴室付き。更に職場から近くなり、より長い睡眠時間を確保できるようになったのだとシズちゃんが笑いながら教えてくれた。
「ねぇ、シズちゃん。さっきセルティの話を聞いて思ったんだけど、『好き』ってほんと、面倒な感情だよね」
「そうか?簡単じゃねぇか。さっきも言ったが、今の俺はみさき以外を恋愛対象として見てねぇからな」
「今、の?ということは、昔は私以外にもいたってこと?」
「昔の話だろ。そりゃあ今までにいいな程度に思ったことは……ちょっとな」
「……ふーん」
「お、もしかしてヤキモチ妬いてね?」
「! べっ、別にそういうんじゃあ」
ない、と言い掛けて黙り込む。嘘。このモヤモヤとした感情はヤキモチ以外の何物でもない。彼の年齢を考えれば、今までに私以外の好きになった異性がいることに何の不思議もない。それでも、私は名前も顔も知らぬかつてのシズちゃんの想い人たちを妬ましく思ってしまった。こういった汚い感情を抱いてしまうことが、彼を好きである無二の証拠なのだと改めて実感する。今の彼だけでなく、私が出会う前までの昔の彼も皆まとめて独占してしまいたい。そう願ってしまうあたり、恋愛に誰より貪欲なのは他ならぬ私なのだと悟った。
1度自分の気持ちに気付いてしまうと、歯止めが効かなくなるのが貪欲な人間というものだ。だけど、これでようやくはっきりとした目的を持てる。
ーーもっと強くなろう。
ーー好きな人と一緒にいられるように。
「ヤキモチ妬いちゃあ……悪い?」
「……ッ!」
いつになく素直な台詞に感極まったシズちゃんは、そのまま力強く私の身体を抱き締めると、悪くねぇなと言って笑った。
♂♀
「1つ、聞いてもいいか?」
「ん?」
「お前、あの時すげー怯えてたよな?触らないでって。一体何があったんだ?」
みさきは「あぁ……」と言葉を濁らせ、ほんの少し気まずそうな表情を見せる。あまり触れたくない話題なのだろう。やはり今聞くべきではないかと思い、無理に話さなくてもいいと言ったはものの、みさきはやがて決意を固めたのか「話を聞いて欲しい」と自ら口を開いた。
「私の中に罪歌の意思のようなものがあって、時々語り掛けてくるの。愛する者を斬れだのなんだの、……それに、シズちゃんのことも」
「罪歌……あぁ、あの時の目ぇ赤い奴らか。それで?俺について何か言ってたか?」
「愛してる、って。シズちゃんのこと、よほど好きなんだね」
「あまり嬉しくねぇな……」
「今まではただ、そう語り掛けてくるだけだった。でも、今日は違った。声でしかなかった彼女の意思が、日本刀に具現化して……突然、臨也さんを斬ろうとしたの」
「臨也を?どうしていきなり」
「えっと……その、突然臨也さんに迫られて……」
「はあ!?」
「だっ、大丈夫!罪歌が出てきたお陰?で、本当に何もなかったから!」
「つまり、罪歌はあいつが嫌いなのか?」
「多分。斬ろうとした訳じゃなくて、ただ私の身を守ってくれただけみたい」
「へぇ、人間なら見境なく斬るもんだと思っていたが……それなら好都合じゃねえか」
「でも、シズちゃんのことは斬りたがってるんだよ?もし、また勝手に出てくるようなことがあったら、私……シズちゃんを斬っちゃうかも……」
そう言ったっきり、みさきは俯き黙り込んでしまった。どうやらみさきは俺を傷付けてしまうのではないかと、ただそれだけを案じているらしい。深刻に悩む彼女には悪いが、俺のためにそこまで真剣になってくれていることを内心嬉しくも思う。みさきの喜怒哀楽を左右させる根源が、他ならぬ自分であることに一種の喜びを感じている。そんなこと口が裂けても言えまいが、もともと隠し事に向いていない己の本性が口元の笑みとなって表に滲み出てしまった。このままではそれに気付いたみさきに「笑い事じゃあないんだよ!」と叱られてしまう。
「俺が好きなのはみさきだけだからな。罪歌の愛ってやつを受け入れるつもりは毛頭ないが……みさきになら、斬られてもいい」
「シズちゃん!?何を……!」
「それがみさきの愛の形だって言うんなら、な。これほど嬉しいことはねぇだろ」
「わ、私は嫌だよ!なんだか罪歌に横取りされたみたいで!」
罪歌に斬られた人間はどうなっていた?確か意識を支配され、操られてしまうと聞いた。しかし、リッパーナイトと名付けられたあの夜、俺も少なからず擦り傷程度は負ったものの乗っ取られることはなかった。後に聞いた話だと、俺には斬られることへの恐怖心がなかったからだと新羅かセルティが言っていたっけ。その刀を振るう人間がみさきだというのなら、今では恐怖どころか喜びすら見出せる。それ程までに単純思考であるこの俺を他人は笑うだろうか?
ひとまず、みさきはここに留まることを選んだ。明日からも臨也の元に行くと言ったが、それは仕事の為だと割り切っていたし、彼女のことを心から信頼したいと思った。(もしもの時は罪歌の防衛反応がどうにかしてくれるだろう、という安易な考えもある)
「帰りには病院にも寄って来るから、帰りが少し遅くなるかもしれないけど、心配しないで」
「病院?どこか悪ぃのか?」
「私じゃなくて、友達が入院してるの。だから、お見舞い」
そう言って笑う彼女の笑顔は何処か寂しげで、理由を聞くに聞けなかった。みさきの支えになりたいと思う。しかし、それと同じくらい困らせたくないとも思った。