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自分の名前を聞き間違えるはずがない。その声は確かに私の名を呼んでいた。私はその声を知っていた。
聞き間違えるはずもないその声の主は、どういう訳か私を捜している。私がここにいることを知る由もない彼が、何故?それ以前に、どうして彼ーーシズちゃんがこんな時間にこの場所へ?
ーー何にせよ、今は隠れなきゃ……!
頭が咄嗟にそう判断し、脳からあらゆる身体の部位へと命令を発信する。痛む足に無理矢理動けと命じ、仔猫を抱き抱えたまま路地の隅へと身を隠す。こういう時が160センチ満たない身長でよかったと思える数少ない瞬間である。しかし、姿は隠せても気配までを完全に消し去ることはできない。そこまで出来るのはそれこそ忍者並みの身体能力あってこそだと思うが、シズちゃんには人並み以上の嗅覚が備わっているが故、どっち道このままでは見つかってしまうのも時間の問題かもしれない。
息を殺して身を縮込ませる私に対し、仔猫は至って自由。緊張感の欠片もなく、くわぁ、と大きな欠伸をし、大きな瞳を細めながらがしがしと頭を掻いている。一見何事にも動じていないように見えるが、シズちゃんの掛け声が聞こえると同時にピクリと耳が動くのが分かる。どうやら「みさき」(つまり私の名前)という単語そのものに反応を示しているようだ。
「おーい、みさきー」
声はすぐそこ。仔猫は相変わらずのんきに振る舞っていたが、とうとうシズちゃんの掛け声に呼び寄せられるかのように彼の元へと行ってしまった。咄嗟に手を伸ばすも、軽い身のこなしでするりとかわされてしまう。仔猫が飛び出して行ったくらいで気付かれたりはしないだろうがーー
「おっ、いたいた。どこウロついてたんだよお前」
「(……ん?)」
「ほら、今日はお前の好きな鮭。今開けてやっから」
どうやらシズちゃんは始めからあの仔猫を探していたらしい。みさきと呼ぶものだからてっきり誤解してしまったけれど、状況から察するに、どうやらあの仔猫の名前も私と同様『みさき』というようだ。それにしても、猫の名前がみさきとは珍しい。
ーーまさか、シズちゃんが私の名前をわざと付けた訳じゃあない……よね……?
ーー……いや、考え過ぎか。
ーーでも、あの仔猫、多分野良なんじゃあ。
「……?お前、なんかにおうな」
足元で食事にありつく仔猫を目に、何やら不思議そうに首を傾げるシズちゃん。その行動1つ1つにいちいち過剰反応してしまう私。今すぐにでもこの場から立ち去るべきなのだろうけれど、妙に勘の鋭いシズちゃんに気付かれることなくこの場を去ることができるだろうか。自信は皆無。
「まさかお前、みさきと……?いや、んな訳ねぇよな。あいつがこの辺りにいる訳がない……よな…… はは、とうとう幻嗅か」
「……」
顔を見ずとも、声のトーンで分かる。彼が今どんな顔で、どんな気持ちでいるのか。そうさせているのが私自身だと分かっているからこそ、余計に心苦しい。
本当の自分の気持ちなんてとっくに理解している。ならば今の私がすべきことくらい、分かり切っているではないか。ただ、今すぐにでも駆け寄って彼を抱き締めたらいい。それだけの話。
「し、シズちゃ……、っ!」
出て行こうとした次の瞬間、言葉を言い終えぬうちに突然口と鼻を同時に塞がれる。その力の加減といい、相手は恐らく男。このままでは喋るどころか呼吸すらままならない。
そして、咄嗟の反抗。細長くて綺麗なその指に思い切り噛み付いてやった。男は小さく呻き声をあげ、私の身体から手を離す。まさか運動音痴な自分にここまで俊敏な動きができるとは思いも寄らなかったが、相手が怯んでいるこの一瞬が絶好の逃げ出す機会(チャンス)ーー!!しかし振り払った相手の顔が月の光に照らし出され、偶然にもその人物の正体を確認するなり、私は思わず「あっ」と声をあげそうになった。
「!! いっ、いざ……!」
「しーっ。ここでシズちゃんに気付かれたらヤバいんじゃない?」
「!」
確かにこのタイミングで見つかるのは非常に不味い。私だけならともかく、シズちゃんと臨也さんが顔を合わせたら最後、ご近所迷惑なんてなんのその。こんな時間に戦争勃発だなんて迷惑以外の何物でもない。
危うく大声を出しそうになるも、シズちゃんに気付かれることなく何とかその場をやり過ごすことに成功。声を潜め、立ち去ることもできないままじっとその場に立ち尽くす。狭い場所では否応無しに互いの身体が密着してしまう為、意識せずにはいられない。
「……何しに来たんですか」
「何って、君を連れ戻しに」
「わ、私……でも、」
「正直、俺も驚いたよ。まさか君にまで罪歌が……とまぁ、それはさておき、とりあえず今は帰ろう。聞きたいこともたくさんあるし」
「……答えられる自信がありません。私にだって、どうしてあの時日本刀が出てきたのか……そもそも、どうやって出したのかさえ……」
「それを確かめたいんじゃあないのかい?ますます興味が沸いてきたよ。例えば、君がどうピンチになれば罪歌が具現化するのか、だとか、みさきの場合は自分の意思を持ったまま罪歌を操ることが可能なのかな……?もしそれが可能なら、それってかなり面白いことになりそうだとは思わないかい?」
「なっ、何言ってるんですか!そんなこと、考えたこともないです!」
「だから、例えばの話だって。ちょっと落ち着きなよ」
神経を疑うような彼の発言に思わず声を荒げるが、シズちゃんに気付かれない程度に自重し、これ以上の反論は避けた。案の定臨也さんが動揺することなどなく、口端には薄ら笑みすら浮かべている。
悪寒。己の防衛本能が作動する。
危険。脳のシグナルが察知する。
刹那。私の中で何かが疼くーー
「……みさき?」
何かが起ころうとしていたその瞬間、それはシズちゃんの声によってピタリと止まった。これは明らかに私を呼ぶ声。猫を呼ぶものではない、とすぐに理解する。
「なぁ……やっぱ、そこにいるんだろ?お前のにおいに混じって嫌なにおいがぷんぷんするんだよ。臨也のヤツと一緒にいるんだな?」
「……」
「分かるんだよ、俺には。こんなところで隠れてねぇで、早く来いって。帰るぞ」
声音は次第に強味を増してゆく。
「俺だってみさきを信じたくて、今度ばかりは待とうとしたさ。けどよぉ……だったら、なんでこんな回りくどいことしてんだよ……もっと他に上手いやり方があるじゃねぇか。なのに、よりによって臨也の野郎なんかと俺の近くでコソコソと……!んなことされたら、奪ってでも連れて帰りたくなるに決まってんだろーが!」
「……ッ!」
「聞こえてんだろ!?なぁ、俺を信じろ!俺なりに色々考えて、離れてまだ3日も経ってねぇけど……けど!やっぱりみさきが好きなんだよ!こればっかしは仕方ねぇだろ!諦められるかよ!!」
声は確実に私たちのいる方向へと向けられており、シズちゃんは確かに私たちの存在を認識していた。それでも無理矢理私を連れ戻しに来ないのは、最後の選択を私に委ねているから。強行手段に走らないところが彼なりの優しさの表れなのだ。
それでも頭を過るのは、自分の中に宿る妖刀の存在。つい先程だって、私は臨也さんを斬ってしまいそうになったではないか。いくら本心ではないとはいえ、自分の意思とは裏腹な行動であったからこそ恐ろしいのだ。シズちゃんを斬ってしまう可能性が少しでもあるのなら、彼を傷付けなくないが故に、一緒になることはできない。それはシズちゃんだけに限らず、臨也さん相手にも通じることだった。やはり、私は誰とも一緒にいるべきではなかった。中途半端な心の持ち様では、何1つ解決には至らない。
「っ、ごめんなさい!」
隙を突いて臨也さんを振り払い、走る。今のでシズちゃんの視界に映ってしまったことは確実だが、逃げてしまえばそんなことはどうでもよかった。ただ、このまま捕まらずに逃げ切ることができるか否かが問題。意外なことに臨也さんはこれ以上私を追おうとはしなかったが、最後に意味深なことを口にしていたのが妙に引っ掛かる。
ーーううん、今考えるのはやめよう。
ーーとにかく今は逃げることだけに集中して……
次の瞬間、私の頬すれすれを何かが掠って飛んでゆく。その何かは真っ直ぐに遥か先の壁へと刺さり、衝撃音と同時にパラパラと音を立ててコンクリートの破片が地に落ちた。土埃をあげるそれは道路標識。こんなことができる人物はたった1人しか知らない。
「逃がさねぇぞ」
「やっ……!離して!お願いだから!」
「なら俺をちゃんと説得してみろ。話はそれからだ」
「私に触れちゃ駄目なの!そうじゃないと、また罪歌が……!」
「? どういう意味だ?」
感情の高ぶりが内なる彼女へと影響し、呼応するかのように身体が再び疼き始める。1度彼女を意識してしまうと、もうどうにも止めようがなかった。鋭い何かが身を割くような感覚に襲われるも、痛みは全くと言っていいほどない。ただ、身体の中を電流のようなものがスッと流れるような感覚によく似ている。その何かが身体を突き抜けた途端、私は先程の銀色の輝きが切れ長に鈍く光るのを見た。その刃先は獲物へと向けられており、ただ彼女は言葉無しに全てのものを拒絶する。ーーいや、もしくは受け入れたいが為に斬るのだろう。それなのに呪いのような愛の言葉が頭に響き渡ることはなかった。今までのように「愛してる」の言葉もない。これが罪歌の仕業でないはずがないが、これまでの事例と相反する部分が多過ぎるような気もする。
頭の中はぐちゃぐちゃ。何が何だか分からず、もういっそのこと全てを拒みたくもなる。私の右手を軸に、まるで枝のように長く伸びる日本刀の刃を前に、シズちゃんは静かに息を飲み、ただじっとその刃に映る己の姿を見つめていた。
ーー分からない分からない……!
ーーいっそ、誰も私に近付かないで!!
「みさき!!」
シズちゃんの声にハッとする。彼は私の右手を取り、引き寄せるなり私を抱き締めた。刃先が僅かだが彼の腕を滑り、薄くじんわりと血が滲む。その鮮明な赤い血が酷く恐ろしくて、思わず涙が溢れそうになる私に、シズちゃんは子どもをあやすような優しい声で言った。
「大丈夫だから、泣くな」
「し、ずちゃ……」
「とりあえず落ち着け、な?こんなん痛くもなんともねぇから」
その声は耳にとても心地良くて、私の大好きな声だった。自分でも制御しきれなかった感情の波がすぅっと静かに引いてゆく。落ち着きを取り戻し、ようやく冷静に物事を判断できるようになった頃、今にも零れ落ちそうに溢れていた目尻の涙はいつの間にか乾いていた。
ひとまずの終焉を迎え、3日足らず。離れていた時間はあまりにも短くて、しかし1つの結論に至るまでの時間としては十分過ぎるほどに長い時間であった。
「ほーんと、2人共単純過ぎるよねぇ」
そんな最中、第三者の心底呆れ返ったような一言。