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「私、変われるのかな」



ポツリと呟いたその言葉は浴室に響き渡り、まるで自分ではない誰かからそう問い掛けられたような気がした。

私が臨也さんのところへ来た理由は、自身の気持ちを確かめるため。他に楽な方法はいくらでもあったはずなのに、敢えてこちら側を選んだのにはちゃんとした理由がある。多分、私は無意識の内に誰かに頼りっぱなしなのだ。もし楽な方を選んでしまったら、きっとそれにかまけて大切な選択を先送りにしてしまう。ならば敢えて甘えの通用しない道を選び、己に鞭を打つくらいの心構えでいた方がいいのかもしれない、と思った。情けない話、今でも自分の選択に絶対的な確信を持てずにいる。だから私は甘いのだ。自分を肯定してくれるものが欲しくて欲しくて堪らない。「貴女は間違っていない」と誰かに言って欲しい。



ーーあぁ、そうか。

ーー私は認められたいだけなんだ。



いつも他人の顔色を伺って生きてきた。嫌われるのが怖かったから。その結果、善かれ悪かれこれまでの経験が今の私を形成している。だからといって、過去に戻ってやり直したいのかと問われれば、そういう訳ではない。思い返せば辛かった出来事はたくさんあるけれど、その1つ1つがあるからこその『今』なのだと思いたい。前向きにそう考えられるようになったあたりは、多少なりとも成長できた証なのかもしれない。

手足を放り投げ、頭を後ろに預けたまま靄のかかった天井を仰ぐ。少し、逆上せてしまったかもしれない。逆上せやすい体質であるにも関わらず、湯船に浸かりながら考え事に耽ってしまうのは昔からの悪い癖。もう2度と逆上せて倒れるなんて失態は繰り返さぬよう、これといった結論に至れないまま風呂を上がろうとした矢先ーーそれを見計らったかのようにガチャリ、と浴室の扉が開いた。



ーー……は?



私は何ともはしたない格好のまま、暫し動けず硬直する。もし私の運動神経が優れていたら、頭で考えるよりも先に身体を隠すなり物を投げて侵入者を撃退するなり(?)出来ていたのかもしれないが、生憎私にそこまでの能力は備わっていなかったようだ。



「「……あ」」



珍しく動揺を隠せずにいる突然の侵入者ーー臨也さんと、身体を投げ出したまま未だに状況を飲み込めずにいる私。互いの間に流れる沈黙を破ったのは、蛇口から落ちた水滴が水面に何層もの円を描く水音だった。ようやく我に返った私は悲鳴を上げることも出来ず、とりあえず身体を隠すため、バシャッと大きな音と共に大量のお湯を飛び散らせながら、即座に湯船の中で体育座りをする。もう時既に遅し、ではあるが。



「えーと……その、ごめん」



それだけ言い残し、臨也さんはその場から逃げるようにそそくさと行ってしまった。取り残された私はただ呆然と、その場で体育座りをし続けた。今のは一体何だったのだろうという根本的な疑問と、あの素っ気ない態度で「ごめん」とだけ言い残し去ってしまった臨也さんへの困惑。考えれば考えるほど意味が解せず、このまま考え続けていたら本当に逆上せてしまうと思ったので、ひとまず風呂から上がったら改めて考え直してみようと思った。このどうしようもない身体の火照りも、きっと湯船に浸かり過ぎたせいだ。



♂♀



ーーいや、なに逃げてるんだよ俺。



我に返り、冷静に自分に突っ込みを入れる。別に疚しい気持ちがあった訳ではなかった。ただ、あまりにも彼女が遅いもんで心配にーーなんて言ったところで、じゃあ何故一声も掛けずに突然浴室に入ったのかと問い詰められたら何も言えまい。我ながら言い訳臭いと思うし、今回ばかりは自分があまりに非常識過ぎたと自覚してはいるが、それにしたって彼女はあまりに無防備過ぎやしないだろうか。鍵くらい掛けていても良かっただろうに、と責任転嫁し始める俺の思考。物事を正確に考えられなくなってしまうほど、正直、今の俺は混乱していた。ほんの一瞬の間目にした光景が今も目に焼き付いて離れない。その残像をかき消すかのように頭を強くがしがしと掻くと、彼女が上がって来たらまず何と弁解しようかと頭の中を模索し始めた。

それから数分後、みさきが遠慮がちにドアから顔を出す。俺は慌ててパソコン画面に向かい、仕事をする”フリ”をする。片付けなくてはならないことは山ほどあるが、今頭の中を仕事モードに切り替えることはできなかった。今まで彼女相手に培ってきた威厳のようなものがあった手前、せめて動揺していることだけは悟られまいと強がってみせる。



「あ、あの……お先に頂きました……」

「あぁ、ドライヤーなら洗面台の上の棚にしまってあるから、勝手に使っていいよ」

「……ありがとうございます」



そしてみさきが再びそそくさと部屋を出て行ったのを何度も確認すると、俺はまるで糸が切れた操り人形のようにどっと前のめりに突っ伏した。

顔を伏せ、頭を抱える。どうにも本調子とはいかないようだ。「格好悪いなぁ……俺」なんて呟いて、期間限定といえどみさきと正式に関係を結んでいるのだという現状を未だに掴み切れずにいる。事態は既に転がり始めた。早く、適応しなくては。



「みさき」



思い立って席を立ち、彼女の背に声を掛ける。ちゃん付けではなく、呼び捨てで。実際声に出してみると、思っていたより結構気恥ずかしいものだ。突然呼び捨てで呼ばれたものだから当然みさきは驚いて目を丸くする。



「ほら、俺ら付き合ってるんだからさ。呼び捨てで呼んだっていいだろう?俺のことも臨也でいいから」

「は、はいっ!えっと……い、いざ……いざ……」



やはりいきなりではハードルが高過ぎただろうか。みさきはまるで呪文のようにいざいざと繰り返し、なかなか『也』まで言い切ることができない。



「い……っ、ざや!」

「えっ」

「……」

「あ……うん、はい」

「……〜〜ッ!や、やっぱり!変な感じしますって!今までと違う呼び方だなんて!!」

「ま、まぁ、馴れるまで好きに呼んでくれていいんだけどね」



初めてみさきから『臨也』と呼ばれ、不覚にもドキッとしてしまった。ーーというより、ビビってしまった、と表現した方が正しいだろう。聞きなれない呼ばれ方のはずが、何故かストンと心に響く。そもそも俺のことを名前ーーしかも呼び捨てで呼ぶ人間なんて、限りなく少ないというのに。

時刻は再び一周を終え、『今日』は『明日』になろうとしていた。そうこうしているうちに月日は巡り、やがて期間限定の俺らの関係は白紙に戻ってしまうのだろう。人の気持ちを変えることを容易いことだとは思わない。だが、ほんの僅かな変化を彼女の中に残せたら、今はそれだけで十分。願わくは俺という存在が彼女にとっての過去となり、かけがえのない存在となってくれますように。そうなれば”彼”が沙樹を忘れられないように、みさきも俺のことをーー



「(なんて、ね)」



過去に縛られ、今も尚柵から抜け出せずにいる少年のことを思いながら、すぐ隣で資料の整理に追われているみさきの姿を横目で見た。みさきはすっかり仕事モードへと切り替わり、秘書としての為すべき仕事を全うしている。その真面目なところが彼女の長所であり、つけ込まれやすい弱い部分でもある。きっと本人は自覚していないのだろうけど。



♂♀



「さっそくだけどみさき。明日沙樹のところへ行こうと思うんだけど、君も来るよね?」

「も、勿論です!あっ、でも、病院行く前に何か買って行きたいんですけど……沙樹、何が好きですかね?」

「昔から好き嫌いをあまり口にしない子だったからなぁ、沙樹は。普段から薄味の病院食食べてるくらいだし、食べれないものはないと思うんだけど」

「……なんだか、沙樹とは随分付き合いが長いようですけど……」

「なに?嫉妬?」

「ち、違いますって!ちょっと気になっただけです!」

「ふーん?少しは俺にも興味が湧いてきた?とはいえ、沙樹とは全然そんなんじゃないし、前にも言ったと思うけど……まぁ、確かに、あれからもう3年になるのか……結構長続きした方かもね」



ーー”もう”?



3年という年月もニュアンスによっては長くも短くもある。どういう意図でそう口にしているのかが気になり、つい言葉を疑問形で返してしまった。しかし臨也さんは「なんでもないよ」と誤魔化すばかり。まるで遠回しに「これ以上踏み込むな」とでも言いたいのか。

どうして人はこうも隠し事ばかりするのだろう。シズちゃんだって、そうだった。別に嘘を吐いたり隠し事をすることを一概に悪いと言いたい訳じゃあない。嘘を吐く全ての人に悪意がある訳ではないし、時には優しい嘘にもなり得る。ただ、少なくとも『恋人』という立ち位置にいる人を相手にあからさまな隠し事をするのは如何なものか。どうせ隠し事をするのなら、もっとうまく隠せばいいのに。



ーーもしかして……この人は、わざとそう仄めかしている?



推理小説の世界では、探偵に遠回しで助言を与える役回りがいたりいなかったり。シズちゃんは純粋に隠し事が下手だっただけだが、臨也さんの場合はどちらかというと私に気付かせたいようにも捉えられる。考え過ぎかと我ながら思うも、この人の考えはいつまで経っても分からないからこそ深読みしてしまう。ならば、こちらも推理小説の探偵になりきってやろうではないか。



「それってつまり、沙樹と長い付き合いをするつもりは始めからなかったってことですか?」

「はは、鋭いねぇ。……正直、俺もそこまでは考えてもみなかったさ。ただ、沙樹のような子”全て”が今も俺の元にいるってこと自体珍しいことなんだよ」

「……え……?」



彼を異常なほどまでに慕う存在が沙樹の他にいることは知っていたが、今の言葉をそのまま鵜呑みにするとなると、もしかしたら私はとんでもないことに足を踏み込もうとしているのかもしれない。今彼の元にいないのなら、身寄りのない彼女たちが行き着く先は何処だというのだろう。考えて、背筋がぞっとする。自然と行き着いた己の見解があまりにも恐ろしすぎて。



「まさか……沙樹以外の子は、もう……」

「あっははは!」

「!!?」

「いやいや、ごめんごめん!誤解させちゃうようなこと言ったけど、実のところ、俺も把握しきれてないんだよねぇ。沙樹の場合、入院してるから常に目の届く場所にいるってだけで、俺はなにも彼女たちを養う保護者って立ち位置ではないからさ。今何処で何をしているかなんて、いちいち見てたらキリがないだろう?確かにみんな身寄りのないような子たちばかりだったけど……ほら、例えば新しい居場所を見つけたとか、ね?いつまでも俺の元にいるとは限らないって話」

「そ、そうですよね……あはは……」



ーーさすがにそれはない、か。

ーー……なんだか馬鹿みたい私。いくらなんでも人を犯罪人扱いするなんて……



軽く自己嫌悪に浸ったところで、自然と口を吐くのは謝罪の言葉。



「ごめんなさい。私、臨也さんを疑うようなこと……」

「そんなことよりさぁ、今、俺のこと、さん付けで呼んだ?」

「え ……。あぁっ!!?」

「駄目だなぁみさき、ちゃんと学習しなきゃ。今度さん付けしたら、罰ゲームなんてどう?」

「臨也さ……じゃなくて、臨也が適応早すぎるんですよ……第一、歳だってそれなりに離れているんですし」

「そんな歳下の君が歳上相手にちゃん付けで呼ぶのは例外なのかい」

「それ、シズちゃんのことですか。これはその……ほら、お兄ちゃんのこともちゃん付けじゃないですか。そんな感じですよ」



見知らぬバーテンダーを「シズちゃん」と呼び始めた当時、まさかこんなことになるなんて思ってもみなかったのだけれど。極力面倒事は避けたいと常々感じていた昔の自分からは想像もつかない展開であった。

シズちゃんと出会って全てが変わった。身の回りの環境、ものの捉え方、価値観、その他もろもろ。血だらけのバーテンダーを拾ったあの日こそが、良くも悪くも私にとっての大きなターニングポイントだったのだ。もしもあの時シズちゃんを助けていなかったら、なんてことを想像してみるけど、その度に『シズちゃん』という存在の大きさを改めて実感するのだった。



「ふふっ」

「どうしたの。急に笑い出すなんて」

「思い出し笑いです。シズちゃんと出会った時のこと、ふと思い出しちゃって。彼、頑なに教えてくれなかったんですよ、自分の名前。名前が分からないと困るじゃないですか。その時、彼の着ていた服のポケットから手紙のようなものを見つけて……書いてあったんです。そこに。雨で滲んでいたけれど、確かに『シズちゃん』って」



不思議なことに当時の記憶は褪せることなく鮮明で、脳裏に焼き付いた記憶を思い起こしていくうちに、おや?と首を傾げる点がいくつかあることに気が付いた。まず疑問に思ったのは、あの手紙の差出人の正体。その人物は彼のことを「シズちゃん」
と呼んでいて、やけに親しげな語り口であったことを思い出す。それなりに長い付き合いなのだろう。しかし、いくら記憶の模索をしても、その手紙の差出人に該当するような人物には思い当たらない。



ーー……いや、いるではないか。

ーー私以外に彼のことを「シズちゃん」と呼ぶ唯一の人物が、今、すぐ目の前に。



疑惑は、ひとつの確信へと変わる。目の前の男が放つ、ひとことによって。

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