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先日起こったあの事件は、のちにリッパーナイトと渾名されることとなる。

みさきのいない日常も久しく、それでも時間は否応無しに進む。上司であるトムさんに連れられ、今日も俺は出会い系サイトの借金取り立てへと向かう。しかし、その足取りは不思議と軽かった。気分も良好とは言い難いが、そう悪くもない。みさきがいないからとウジウジ待っているだけでは情けないと思ったのだ。彼女が帰って来るその日まで俺の成すべきことーーそれは、彼女に相応しく恥じない男になるべきではないだろうか、と。



「どうしたよ静雄。随分機嫌がいいじゃねえか」

「いえ。ちょっと昨日すっきりすることがあっただけですよ」



その言葉に偽りなどない。罪歌相手に思う存分力を発揮できたというのもあるが、何より、みさきとの関係に納得のいく結果を得られたような気がするのだ。あとは単純な話、迷わず進め、だ。これで余計なこと一切考えずに前へと踏み出せるーー

それからほんの数分後、消火器で脳天を強打された俺は、やはり取り立て相手を思う存分ぶん殴ってしまうのだった。



♂♀



仮眠を摂り始めて数時間後、気付いたら再び波江が出勤していた。どうやら長いこと眠ってしまっていたらしい。隣にはスヤスヤと寝息を立てるみさきの姿。俺は安堵のため息を吐くと、彼女の眠りを妨げぬよう静かに毛布から抜け出した。起きてからは覚悟してねと言ったはものの、こんなにも早々ーーしかも波江がいるこの状態でみさきに手出しする訳にもいかまい。少なくともそんなところを目撃されてしまっては、変態を見るような目で先々見られること間違いない。



「連絡がないものだから、普段通り出勤したわよ。案の定、仕事も終わっていないようだし」

「あはは……それは大いに助かる。俺としたことが寝過ごしたらしい」

「あんな状態じゃあ熟睡もするでしょうね。いいんじゃない、たまには」

「……見たんだ」

「あら、それとも何か疚しいことでも?」

「はぁ……ほんと、侮れなくなってきたよね。君」



みさきを抱き枕代わりに熟睡していたーーなんて、他にバラされでもしたらたまったもんじゃない。そんな俺の心中を察したのか、波江は「冗談よ」とだけ告げると、再びパソコンへと視線を戻した。しかし、その口元には心無しか薄ら笑みを浮かべている。確実に見られた。大失態だ。これからは寝室入室禁止を本気で視野に入れつつ、資料積みのデスクに向かって腰を下ろす。

幾分か頭痛は引いたようだが、どうにも仕事に打ち込めそうもない。俺はほんの仕返しのつもりで波江に新たな仕事を言い渡すと、三角形の奇妙な碁盤を取り出した。盤面に将棋の駒を並べ、1人遊びに勤しむ。それを見て波江は忌々しげに眉を潜めるが、敢えて気付かないフリをした。仕事をしろと言いたいのだろうが、雇われている身である以上強く言えないのがもどかしいのだろう。



「折原臨也って、やっぱりおかしな名前よね……」



挙げ句彼女は諦めたのか、ついには俺の名前にまでケチを付けてきた。そんな嫌味にあっけらかんとした調子で返し、パチリと音を立てて将棋の駒を立ててゆく。これが彼で、これが彼女。頭の中で駒に見立てた人物の顔を1人1人思い描きながら、パチリパチリ。そこで俺は初めて自分以外の人間にこれからのことを口外する。一通り罪歌の件をまとめ上げた後、話は次なる段階へと展開する。それは燻り出した火種の1つでもあり、これから起こるであろう戦争の発端でもあり。様々なことを想定しながら、駒を好き勝手に弄くり回す。



「まあ、こうやって盤面を上から見てるとさ、自分が神様だっていう錯覚に陥ってなかなか気持ちいいもんだよ」



そう言うなり懐からオイルライターを取り出すと、えいやの掛け声と共に盤面へと容赦無くぶち撒けた。(これを『神様アタック』とたった今命名する。)

次いで取り出したのはマッチ箱。それでも波江は慌てることなく、その経緯を静かに見つめている。今俺の話していることにも然程興味を抱いていない様子だ。



「蜜月が濃ければ濃いほど、それが崩れた時の絶望は高く高く燃え上がるもんだよ」



ーーそう、それは誰に関しても同じ。

ーー例えば……みさきとシズちゃんもね。



マッチの火は手こずることなく一発で点いた。放り投げた先の盤上は文字通り勢いよく燃え上がり、透き通るように青い炎はあっという間に駒たちを包み込んだ。燃え朽ちてゆくその様が酷く愉快で、思わず声をあげて笑う。更に手元のカードで残りの面子を割り当ててゆくが、遂にはそれすら面倒になってしまい、まとめて火の中に放り込んだ。

そうさ、全部燃えて消えてしまえばいい。俺と彼女さえいればいい。そんな自己中心以外の何物でもない考えに至った俺は、傍らの生首を掴み取り、静かに彼女に呟き掛けた。勿論他人の同意なんて求めちゃいない。反応しないと分かっているからこそ、俺は波江ではなく彼女を選んだ。




「楽しくなってきたよねえ……君も、そう思うだろう?」



♂♀



「はっ」



突然、目が覚める。何の前触れもなしに。臨也さんと同じベッドで眠り、あれから何時間が経過したのだろう。このまま寝ていては生活リズムを狂わせると思い、慌ててベッドから降りようとするーーが、足が縺れ、そのままベッド下に落下してしまう。ドタン、とやけに音だけは派手だが、幸いなことに当たりどころは悪くない。あまり痛まずに済んだ後頭部を摩りながら、そういえば朝から何も口にしていないことに気が付いた。普段からあまり食べる方ではないが、どうりでお腹が空く訳だ。



「何か物凄い音が聞こえてきたんだけど……大丈夫かい?」

「あっ、臨也さんおはようございます。そう言えば私、お腹が空きました」

「そりゃあもう、あれから何時間も経ってるからねえ。そうだ、今夜は寿司でも食べに行こうか。幸い、残りの仕事は優秀な秘書が請け負ってくれるだろうし」

「そろそろ本気でストライキでも考えようかしら」

「やれやれ、今夜は仕方がないから出前を取ろう。店はサイモンのところでいいよね?」

「勿論雇い主負担よね?なら、お好きにどうぞ」



♂♀



同時刻ーー

仕事がひと段落し、まず思い立ったのが住む場所を変えることだった。このアパートは確かに格安ではあったが、1人で住むには部屋のパーソナルスペースが広過ぎる。これでは余計に虚しくなってしまうと思い、急遽明日には場所を移すことに決めた。



「しっかし久しぶりだなあ、静雄んちで宅飲みなんて」

「確かにそうっすね。まぁ、明日からは場所移るんで、そんなスペースないと思いますけど」

「そういやそろそろ来るかねぇ、出前。今日は奮発してサイモンとこの寿司頼んどいたからな」

「うお、まじっすか」

「ほらほら、噂をすれば……」



少々荒いノック音と共に、扉の向こう側からは俺たちを呼ぶ陽気な声。このおかしなイントネーションは間違いなくサイモンだ。



「オー、シズーオ。久しぶりネー」

「よぉサイモン」

「トム、最近女の人と来てたーヨ。……ン?モシカシテ、フラレタ?」

「おいおい、勘弁してくれよ……いや、実際そうなんだけど」

「ええっ、まじっすかトムさん。初耳っすよ」

「別に秘密にしてた訳じゃねえのよ?ただ、そのー……なんだ。結構真剣に付き合ってたからよ、静雄には色々と決まってから報告するつもりでいたんだが……ま、大人の事情ってもんよ」

「ンー、ソレハ、ザンネン無念、また来週ネ。トム、寿司喰ウ。それがイイヨー」

「おー、そうさせてもらうわ。……おしっ!今夜は飲むぞ静雄!飲んでやる!」

「あ、じゃあ俺、いちごみるくで……」

「馬鹿野郎!寿司をいちごみるくで食べる奴がどこにいる!」

「ソウネー静雄。スシ、ジャパニーズフードヨ。ソチャで飲む、合うヨー、ウマイヨー」

「粗茶って自分で言っちゃうのかよ」



たった今サラッとトムさんの驚くべき近状を聞いてしまった訳だが、まさかそんなことが起きていたとは思いも寄らなかった。俺は自分のことで手一杯であったが故に、上司の一大事に何1つ気付けなかったのだ。そんな浅はかな自分を恥じると共に、全くそんな気配を見せなかった大人なトムさんを尊敬する。自分の感情を隠すなんて器用な技、俺にはできない。きっとすぐにトムさんに見破られ、いつもの如く相談に乗ってもらうがオチだ。



「おら、静雄も吐け!シケた面してるっつーことは、アレだろアレ。みさきちゃんのことだべ!?」

「……トムさん、もしかして酔ってます?」

「みさき?みさき……オー、ナツカシーネ。昔、イザヤと食べにキターヨ。モシカシテ、シズーオ、恋敵?三角関係、大変ネー」

「「……」」

「? シズーオ?トムもドウシタ?」



当然、当の本人は地雷を踏んでしまったことに気付いてすらいない。事情を知らないのだから仕方が無いし、悪気がないことも百も承知。しかし、彼のわざとらしい日本語が更に俺の怒りボルテージをぐんと上げる。



「……サイモンさんよぉー……いくらなんでも客のプライベートに、しかも仕事中に立ち入ってくるってのは感心出来ねぇよなあ……?」

「イキナリ怒る、よくナイヨー。血糖値、アガッチャウヨー。ソンナコトより、スシ、クイネー。サカナ食ベテ、血液サラサーラヨ」

「いいから早く、か え り や が れ ……!!」


引っ越す前日に部屋半壊では洒落にならない。わなわなと震える拳を抑え、仁王立ちになってその場に立つ。トムさんが止めてくれなかったら、俺は間違いなく何かしらぶん投げていたかもしれない。サイモンは相変わらずいつもの調子のままその場を離れようとするが、部屋を出る直前に意味深なことを口にする。



「次は臨也のトコ、出前3人前ネ」



ーー3人前?

ーー確かにあいつは大トロが好きだと聞いたことはあるが、まさか3人分を1人で食べる訳が……

ーー……。

ーーあぁ、そうか。みさきもいるんだっけか。



「はぁ……」

「お前、怒ったり落ち込んだり大変そうだなあ」

「そりゃあもう、色々とありましたから……」

「嫌なことなんて忘れちまえ!酒で!こうなったら俺は徹底的に飲むからな!」



その晩、俺らは互いの鬱憤を暴露しつつ飲み明かした。いい歳した男が互いの傷を慰め合うなんて構図、客観的に見ればあまりにも虚し過ぎる。初めこそはいちごみるくを飲み貫いていた俺も、気持ちが昂るにつれ遂には苦手な酒にまで手を出し、挙げ句トムさんと次の日2日酔いという最悪な結果に終わった。何より、2人揃って仕事を休めないというのが非常に辛かった。

ズキズキと痛む頭を抑えながら思う。世の中人は何かしら事情を抱えていて、悩み、それでも平然と生きているのだと。昔、そんなことを言った偉人がいたと高校時代に習った気もするが、俺の弱い頭がそんなことまで覚えているはずもない。しかし、妙にストンと心に落ちるいい言葉だと思った。他人には言えない、話せない事情を抱え、その事情は本人以外には到底想像もつかない苦しみだったり悩みだったりする。いつも笑っているあの人も、街ですれ違った赤の他人も、一見穏やかに見えるこの人も、その時々の悩みや苦しみをぐっと心の中に押し込み、平然と淡々と日々をこなしている。“平然と生きる”というは人間が生き抜いていく為のある種の知恵のようなものであり、その行いが何とか生きていける根本たるものなのだろう。



ーー……くそっ、早速会いたくなってきたじゃねえか。

ーーどーすんだよ、これから先。



今、みさきは何を思い、何を考えているのだろう。願わくば、少しでも俺と同じことを想ってくれていたら嬉しい。

なぁ、みさき。俺は今すぐにでもお前に会いたい。



♂♀

つい先ほどサイモンがやって来て、頼んだお寿司を見てみると明らかに大半が大トロを占めていた。領収書には驚愕の金額。回転寿司に行くと1皿200円以上のネタには手出しできない私にとって、それはあまりにも目を疑うほどの高額だった。



「みさきちゃん、さっきからサーモンばかり食べてない?波江なんか容赦無く大トロばかり食べて帰ったよ」

「サーモン好きなんです。安いし美味しいし」

「遠慮していないならいいんだけど……浮かない顔してたから、さ。もしかしてホームシックかい?」

「……」

「君は本当に素直だね。だから好きさ」

「ただ単に隠し事が下手なだけですよ。私も、シズちゃんも」



私は色々と不器用なのだ。だけど、それが私なりの生き方だ。きっとこれから先変わることもないのだろう。



「そうそう、これは強制ではないんだけれど……みさきちゃんに会いたがっている子がいるんだった」

「私に、ですか?」

「そう。君に」



ひょいと大トロを摘み上げ、口の中に放り込むまでの一連の動作を終えると、臨也さんはぺろりと親指を舐め取る。大好物をたらふく食べることができ、随分とご満悦のご様子だ。しかし彼女の名前を口にした途端、彼の笑みはその質を変える。



「沙樹を覚えているかい?」

「……忘れる訳ないじゃないですか」



三ヶ島沙樹。臨也さんとの繋がりで昔からの友人であったが、ある時を境に行方を眩ましてしまった。臨也さんなら何か知っているのではと問い詰めたことも何度かあった。しかし彼女に関する情報は何1つ得られず、もう長いこと顔を合わせていない。歳が近いこともあり、会ってすぐ意気投合した私たちは、互いの恋愛事情を相談し合うような関係にまで発展していた。それ故、話したいことは山ほどある。そして何よりーー”あんなこと”があった後の彼女が今、どんな気持ちで過ごしているのかが私には気掛かりであった。

しかし、まさかこのタイミングで臨也さんの口から沙樹の名前が飛び出すとは思ってもみなかった。忘れていた訳ではないし、忘れる訳がない。ただ、臨也さんが敢えて彼女の話題を避け続けていたような気がしたので、聞くに聞けなかったというのが事実だ。相手が話したがらない話題というのはあまりいい予感がしない。臆病な私はそれを聞くのが怖くて、随分長いこと目を背けてしまっていたものだ。だけど、もし沙樹に会えるというのなら、これもいい機会なのかもしれない。罪歌の件がひと段落した今、過去と向き合おうという強い意思が自分の中に芽生えつつある。



「場所は変わらないよ。沙樹は今も、あの病院にいる」

「!!? 嘘、だって沙樹、私が最後に行った時にはもう……!」

「病室を移ったのさ。集中治療室……というか、まぁ、ちょっと特別な個室にね」

「臨也さんはそれを知っていたんですか?知っていて、私に隠してたんですか?」

「隠していた訳じゃあない。ただ、まだ話すべき時ではないと思ってね。そもそも自分のことで手一杯だった君に話せると思うかい?……沙樹はね、君が考えている以上に深刻なんだ。中途半端に同情されて、可哀想なのは沙樹の方だと思わない?」

「っ!」





臨也さんの突き放すような言葉にはっとする。確かに彼の言う通りだ。仮に沙樹の容態を聞いていたところで、あの時の私に何ができた?中途半端に同情して、それでも非力な私には何も出来なくて、それがもどかしくて更に自分を追い込んでしまうーーそんな負の連鎖を想像する。あまりにも現実的で恐ろしくて、思わず背筋がゾッとした。





「ごめんね。君を責めている訳じゃあない」

「……いえ、正論だと思います。あの時沙樹のことを聞いていても、私は何もしてあげられなかったと思います」

「……」

「でも、今なら、過去と向き合えるような気がするんです。私も……沙樹と会いたい。会って、話がしたい」

「ありがとう。きっと沙樹も喜ぶよ」



そう言ってにこりと笑う彼を見る限り、何処からどう見ても到底裏があるようには思えない。きっと身寄りのない沙樹にとって、私の知らない間も良い保護者代わりになってくれていたはずだ。しかし、以前1度臨也さんと沙樹の関係を疑ってしまった時の何とも言えない不信感ーーあまりにも狂信的であった沙樹の姿が脳裏にふフラッシュバックする。今改めて思い返しても、あれは確かに異常であった。まるで臨也さんの言うこと全てが正しいと思っているような口振りに、 ほんの少し恐怖すら抱いたこともある。洗脳とまではいかないが、それに限りなく近いものを感じたのだった。



「過去は寂しがりやだからさ」



そう言うと臨也さんは席を立ち、割り箸や空の発泡スチロール容器が散乱した机の上を片付け始めた。私も慌てて立ち上がり手伝おうとするが、臨也さんはそれをやんわりと断りシャワーを浴びることを勧める。「ゆっくりしておいで」と背中をぽんと押され、私は流されるがままに浴室へと向かった。

1人になって、改めて考える。臨也さんの何気無い気遣いや優しさは紳士的であり、どうすることが相手を喜ばせることに繋がるかどうかを重々心得ているのだと思う。ただ、逆に悪い言い方をするとしたらーーその優しさには裏があるのではないかと疑心を抱いてしまうのが正直なところだ。それは今まで見てきた彼の素性があまりにも異常であるからだろう。異常、と私が言ってしまうのも何だかおかしな話だが。

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