>63
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



結果的に、危機から脱することには成功した。意外にも罪歌たちは私たちを襲うことなく、その場に立ち尽くす者ばかりだったのだ。臨也さんの言葉を頭で受理出来なかったのか、ただ何も言い返せず黙り込んでしまったのか、原因は私にも分からない。ただ罪歌の核である彼女の声が脳内に大きく響き渡る。



ーーああ、ようやく彼女を愛せると思ったのに!

ーーやっぱり貴方は私の邪魔をするのね!憎たらしい!




彼女の口から愛の言葉以外の言葉が吐き捨てられるとは、これっぽっちも想像だにしなかった訳で。
罪歌たちから逃れることに成功した私たちは、ネオンの光る都会の街並みを校舎の屋上から見下ろしていた。正直屋上なんて逃げ場のない場所に行くことに抵抗はあったが、罪歌が執拗に追い掛けて来ることはなかった。



「何もかも暴力で解決しようとするどっかの誰かさんと違って、利口だと思わないかい?頭を使わなくちゃ」

「あの……それじゃあ、さっきのって……罪歌を追い払うためのただの演技だったんですか……?」

「さっきの?」

「とぼけないでください」



臨也さんは相変わらずあっけらかんとした調子で私に接してくる。いつもと同じ、変わりない態度。それがほんの少し憎たらしくもあり、羨ましいとも思う。どうしてそんなに平然としていられるのだろう。当の私は物事の展開に着いて行けず、今だって頭の中は状況を整理しようと忙しなく働き続けているというのに。ただ、彼とキスをしてしまったのだという事実だけがぐるぐると回り続けていた。
ずるい。私だけが振り回されているようで、彼はこうも普通なのだから。良くも悪くも、私は嘘が吐けない人間のようだ。



「あぁ、勝手にキスしたこと?怒ったのなら謝るよ。ごめん。だけど結果的に良かったんだしさ、大目に見てよ」

「そ、それはそうかもしれませんけど……」

「シズちゃんに何か言われる、とでも?ご冗談。だって君たち、もう付き合ってないんだろう?しかもみさきちゃんの方からフッたようだし」

「!?ど、どうして臨也さんがそんなこと……!」

「情報屋にその質問は愚問だよ。いやぁ、なんだか面白いことになってるみたいじゃない。まさか君がシズちゃんをフるなんてさ、想像もしなかったよ。とはいえ、訳ありのようだけど……理由なんてどうだっていい。俺にとって重要なのは『過程』よりも『事実』だ。今のみさきちゃんは誰のものでもないんだし、今更シズちゃんがどうこう言われてもねぇ?」

「……」



駄目だ、もっとも過ぎて返す言葉が見つからない。もう何を隠そうとしても無駄なのだと悟る。



「とはいえ、ここぞとばかりに血眼になるのもみっともない。なにも今すぐ取って食おうなんて思っちゃいないからさ、少し肩の力抜きなよ。ひとまず一難去った訳だけど、これからみさきちゃんはどうするつもりなんだい」

「……決まってるじゃないですか。今からでも池袋公園に向かいます」

「へぇ、"元彼"を助けに?」



やけに"元彼"を強調する臨也さん。反射的に否定しようと開いた唇をギュッと噛む。だって、紛れもない事実なのだから。今やシズちゃんは私にとって過去の人間でしかない。それなのに身勝手な私が我が物顔で「それは違う」と否定できる訳がないではないか。



「止めないよ、俺は。そこまでの権限はないからね。ただ……思い留ませようとすることはできる」



そう言うなり臨也さんは私の腕を取り、そのまま包み込むようにして抱き締めてきた。まるで柔らかい羽毛に包まれているようなーーそんな感覚。抱き締められてこんなにも心地よいと感じたのは、これが初めてだ。



「言っただろう、みさきちゃんの頑張りは俺が労ってあげるから。君はよく頑張った。だからもう、頑張らなくてもいいんだよ」

「……!!」



頑張らなくてもいいーーその言葉がやけに胸の奥で響いた。今まで私は、逃げることは決して許されないことだと思ってきた。罪歌の件は全て自分の責任なのだから、目を逸らすことなど許される訳がない。況してや逃げ出すなんて以ての外。そう考えては己を奮い立たせ、何とか地に足をつけてきた。本当の気持ちを圧し殺して。
臨也さんが限りなくただの人間だというのなら、私は尚更その通り。彼にとっては膨大な情報量こそが大きな戦力となり、糧となる。が、それに比べて私はどうだ。他の者と比べ勝るものなど何1つないじゃないか。



「私……本当は怖いんです。怖くて怖くて、堪らないくらい」

「うん」

「偽善者振る訳ではないけれど……ただ、誰も傷つけたくないし、誰かが傷つくところを見たくもない」

「うん」



臨也さんは肯定もせず否定もせず、私の話を聞いてくれた。彼の放つ特有の雰囲気が、ピリピリと緊迫した空気を和らげてくれる。だからだろうか、意識せずとも自然に言葉が出てくるのは。



「俺といなよ。怖いと思うもの全てから、君を守ってあげられるよ?」

「でも、臨也さん」

「言いたいことは分かってる。だからさ、こうしよう。俺と正式に付き合ってみない?期間限定で」

「期間……限定……?」

「そ、お試し期間ってやつ。俺が言うのもなんだけど、みさきちゃんは俺を嫌ってはいない。そして他人を好きになるということを見失いかけている。恐らく罪歌の影響で、ね。案外、分かってくるかもよ?特定の相手としか経験がないから、好きの意味を履き間違えているのかもしれない……おっと、さっきみたいに反論はナシだよ。俺の考えを述べているだけなんだからさ、あくまで参考程度に」

「……」

「ま、決めるのはみさきちゃんだからね。少し時間をあげるよ。よく考えるといい」



臨也さんとーー付き合う?私が?確かに彼とは色々あったが、正式に付き合ったことはない。というより、私はシズちゃん以外と付き合ったことがない。そのシズちゃんとさえ付き合っていたのかと問われれば、思わず首を傾げてしまう程だ。臨也さんの言うとおり、私は恋愛に関して無知過ぎた。それ故すぐ罪歌の言葉に惑わされたり、心が揺らいでしまうのかもしれない。強い意思を持つ為に基盤となる知識が必要だ。もっと知りたい。そんな純粋な好奇心が膨れ、ぐらつく。提示された「期間限定」という条件もまた、私にとっては都合がいいのではないか。



「期間……それって、どのくらいですか」

「みさきちゃんが答えを見つけるまで、何日だって構わない。俺も色々と興味深いしね。これはみさきちゃんだけではない、俺自身の為でもあるんだよ」

「興味?」

「そう、君に」

「私、なんて……知ったところで何の面白味もないと思いますけど」

「そうでもないと思うよ。シズちゃんと親しい間柄を持つってだけで、十分」



お互い笑みを含ませ、冗談めいたーーそれでいて確かな本音を口にし交わす。シズちゃんと親しいというだけでこうも重宝されるものかと疑問が過るが、きっと私の知らないシズちゃんを臨也さんは昔から見てきたからだ。私なんて高が知れている、ほんの数年程度の付き合い。私の知らないシズちゃんを知る為にも、臨也さんとはもっとたくさん話し合うべきなのかもしれない。なんせ、シズちゃんは過去の自分を語りたがらないのだ。私が知っていることといえば、彼が池袋で最強の男と恐れられていること。それでさえ初めて耳にしたのは本人の口からではない。まぁ、今更人の過去を穿り返したくらいで彼への印象が激変する訳ではないと思うのだがーーシズちゃんは異常に過剰過ぎるのだ、と、その都度思う。
さて、話を戻そう。私の選択肢は2つ。彼と付き合うか、否。改めて目の前に立つ臨也さんと目を合わせた。暗闇で光を放つその眼はとても神秘的で、今にも引き込まれてしまいそう。



「……向き合ってみようかな」

「誰と?」

「自分自身。私、今までずっと逃げてきましたから」



臨也さんがスッと右手を差し出す。「あ」この感じ、前にもあった気がする。差し出された手をじっと見つめながら、私は迷いなくその手を握り返した。悩む必要なんてない。だって、今まで十分悩んできた。



「よろしくお願いします」

「こちらこそ」



握り返された彼の掌は思っていたよりも温かくて。36度の体温が指の先から神経を伝い、体温の低い私の肌へじんわりと浸透する。
ここに新たなカップル誕生。誰に祝われることもなく、ひっそりと、それでいて唐突に。あれだけ頑なに異性との関わりを避けてきた自分がこうも簡単に決断してしまうなんて、我ながらびっくり。相手が付き合いの長い臨也さんだからこそ、なのだろうけれど。





「それじゃあ、晴れて俺たちはカップルな訳で」

「はい」

「とりあえず敬語はやめようか」

「!?」

「あぁ、ちなみに。俺は歳相応の"大人な"付き合いをしていくつもりだから」

「はぁ……って、そんなことより!」

「?」

「私、行かなくちゃ!」

「何処へ」

「何処って、勿論シズちゃんの……」

「ストップ。君、付き合うって意味分かってる?自分以外の男の元へ行こうとする彼女を、彼氏が見逃すと?」

「うっ」

「あは、もしかしたら俺、案外束縛強かったりして」

「臨也さん……もしかしてこうなることを想定して……」

「行かせる訳ないじゃない。第一、大嫌いなシズちゃんにトドメを刺す良い機会だからね。あわよくば死んで欲しいと思ってる」



表情を変えず、ケロリと物騒なことを口にする臨也さん。声のトーンが若干下がった気がして、ただの冗談ではないのだと瞬時に理解する。



「おっと、逃がさないよ」

「!」

「駄目じゃない。逃げようなんて、そうはいかないよ」

「ま……待ってください!あと少しだけ……すぐに戻って来ますから……!」



その後私がどんなに懇願しようと、臨也さんが首を縦に振ることはなかった。彼の理屈は通る。自分勝手なのも重々承知。



「ごっ、ごめんなさい!必ず戻ります!」



一瞬の隙を、私は見逃さなかった。臨也さんをするりとかわし、屋上の扉を勢いよく開く。次いで、静寂に包まれた校舎内に己の忙しない足音だけが響き渡る。まさかこんな全力疾走できる程の体力が残されているとは思いもよらなかった。まるで足が空を蹴る感覚だ。懸命に走っている割りにはなかなか前へと進まない。それでも私は走り続けた。こんなところで立ち止まっていられる時間などないのだから。



♂♀



屋上を囲む錆びた柵に座り、眼下に広がる校庭を走る彼女の姿を目で追う。



「相変わらず無鉄砲だなぁ、みさきは。ま、そんなところも可愛いんだけどさ」


組んだ足をブラつかせ、僅かにぐらつく柵の上で上手い具合にバランスを取りながら、俺はこれから起こるであろう事態に心踊らされていた。こんなにワクワクするのはいつぶりだろう!正直、これ以上は予測できない。今まで培ってきた知識をもってしても、まさか自分のこととなるとこんなにも無知とは盲点だった。興味深いのはみさきに対してだけではない。これから俺自身どうなっていくのか、あいつはどんな反応をするのかーーもしかしたら取り巻く環境そのものが大きく変わってしまうのではないか。その変化を楽しみたいのだ。
平穏なのは嫌いではない。しかし、些か退屈である。そんな平和ボケした日常に刺激を贈ろう。そして新しい風を送り込むのだ。「楽しみだなぁ」無意識にそんなことを呟きながら、頬杖をついた頬が僅かに緩むのを意識せずにはいられない。さて、問題はこれからのことだがーー



「やっぱり罪歌も目障りだなぁ。シズちゃんが死んでくれてもいいんだけど、どっちが勝っても面倒なのは同じか」



柵から飛び降り、俺は小さく伸びをすると、とりあえず自分が成すべきことをやらねばと目的の場所へと足を向けた。まだ終わりではない。このまま終えるのも構わないが、どうせならより利益となる情報に値するものを手に入れようじゃないか。

第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -