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来良学園 とある教室
咄嗟だった。頭の中で警報がけたたましく鳴り響く。今、目の前にいる彼は冗談など口にしていない。本気なのだ。目が、確かにそう告げている。目は嘘を吐けないのだ。
逃げねば!そう判断したと同時に、じりじりと追い詰められた私は教卓の上からーー落下した。後ずさろうとついた右手がずるりと机から落ちたのだ。バランスを崩した私は成す術なく言葉通りに"落ちる"。想定外であったが故、当然受け身など取れる訳もない。転げ落ちる私の身体を受け止めようと伸ばされた臨也さんの手は虚しくも空を斬り、次いで静まり返っていた教室内に派手な落下音が響き渡った。その時私は瞬時に願う。あぁ、どうか罪歌の耳にこの音が届いていませんように。そして願わくば私たちのことを諦めて帰ってくれますように……当然、そんな都合の良い話が通用するだなんて思っちゃいないけど。だけど、せめて今この状態からなんとか抜け出せないものだろうか。
「あーあ、見つかっちゃったねえ」
緊張感の欠片もない臨也さんの言葉に私はハッと我に帰った。間抜けにも仰向けの状態で寝転がる私と、覆い被さるように床へと両手をつく臨也さん。それを偶然(?)にも音を聞きつけてやって来た第三者の存在ーーそれが忘れ物を取りに来た来良学園の生徒であったなら、少しは誤魔化しようがあったのかもしれない。もしくは咄嗟に謝りながら扉を閉め、その場から慌てて走り去るという、他人の濡れ場をうっかり目撃してしまった時のありがちな反応も期待できた。ただし普通の感性の持ち主相手であれば。
「……罪歌」
思い切りぶつけ痛む頭を摩る余裕もなく、なんとか上半身を起こす。同時に臨也さんも視線だけを扉の方へ向け、スゥッと相手を見据えて言った。心底不機嫌そうに表情を歪ませ、一言。
「ほら、奴等のおでましだ」
もう、嫌な予感しかしない。的中して欲しくないと願いながら、それでも的中してしまう嫌な現実に失望する。彼の視線を辿った先ーーそこに彼女は"当たり前のように"いた。いや、見た目は若い男。恐らく二十代そこらの、多分シズちゃんや臨也さんくらい。だが、今相手の姿形は何の関係もないのだ。仮にヨボヨボのご老体や小さな子どもがそこにいたとして、一般的に腕力で勝ててしまうような相手にさえ今は恐怖を抱くだろう。どんな見た目であろうと中身が罪歌であることには変わりない。ぞわりと背中の毛が逆立つような感覚を覚え、思わず身震い。全身が彼女という存在を拒絶しているのだと理解した。
顔、青いよ?臨也さんがそう言って私の顔を覗き込む。その問い掛けに言葉を返す気力さえなかった。多分、私は怖いのだ。また、私のせいで自分以外の人間が斬られてしまうことが。正確には"私の目の前"で、再びあの惨劇が繰り広げられるのではないかという恐怖心ーー今でも拭い切れずにいる。
「見つけた……母の愛する人……」
「あ……ち、違……」
「いいえ、違いないわ。だって、私たちの本能がそう告げているのだから」
「斬らなきゃ」
「愛さなくては」
「母の為に」
「今度こそこの手に」
「貴女を」
「恐がらないで」
「そして、受け入れて」
「今こそ……!!」
呪いの声は次第に増えていった。音を聞きつけた罪歌たちがゾロゾロと扉の前へと集まってくる。その様子を私はただ指をくわえて見ていることしかできない。だって、仕方ないじゃないか。普通刃物を持った集団が目の前に現れれば、誰だって怖いし逃げたくもなる。反面、身体は思うように動かない。動けない、というのが更に正しい。自分が思っていた以上に、私は罪歌の及ぼす現象に「恐怖」という概念を植え付けられてしまっていたのだ。
罪歌と初めて出会った時の自分と、今の自分。あの時はこんなにも身体は震えなかったし、恐れという概念はなかった。ただ疑問だけが無知な頭の中をぐるぐると渦巻いていた。だけど今は状況が違う。守りたい人がいる。これ以上の犠牲を払いたくないと望む。
「どうしてそんなに震えているの?私たちが恐い?」
「……ッ!」
「ふふ……貴女、変わったわ。これも愛の力なのかしら?人間って脆いのね。愛を知る代償に、それを守りたいと願うが故に弱くなる」
口端を三日月のように歪ませた罪歌たちが教室に一歩、足を踏み入れた。
ギシリ、ギシリ。一歩、また一歩。
「まずは貴女の目の前でその男を愛してあげる」
こうして少しずつ互いの距離が狭まり、罪歌が刃物を振り上げたその時だった。
「ちょっとたんま」
「……」
臨也さんが右手を突き出し、制する。一瞬面食らったような表情をする罪歌だったが、すぐにあのにんまりとした特徴的な笑みを浮かべる。
「貴方はひどく冷静なのね。不自然なほどに」
「生憎、こういったことには慣れてるんでね。今更驚きもしないさ」
「ふふっ、その余裕……いつまで保てるかしら」
挑発的な両者のやり取りに聞いている此方がヒヤヒヤするが、臆病な私は何も出来ず、やはりだんまりのまま時だけが経過する。やけに長い沈黙だった。もしかしたら私だけがそう感じているのかもしれない。
「話なら聞いてるよ。刀如きが一丁前に人間愛を語ろうなんて、烏滸がましいにも程がある」
沈黙を破ったのは臨也さんだった。やけに強気な発言に、一見冷静と見て取れる罪歌の表情に変化が垣間見える。
「随分と知ったような口を利くわね。そういう貴方はどれだけ人間を理解しているというの?神でもない、普通の人間である貴方が」
「妖刀が神の存在を口にするのも可笑しな話だ。そもそも、俺は神なんてあやふやな存在信じちゃいないよ。この目で実際に見たもの以外、基本的にはないものとしてる」
「……」
「単刀直入に言おう。俺は君たちを快く思っていない。寧ろ、嫌いの部類に入るかな。確かに俺は神でもないし、シズちゃんみたいな馬鹿力も持ち合わせていない。……あぁ、認めるよ。俺は限りなく普通の人間でしかない、ちっぽけな存在さ。けど、それが何か問題でも?人間ってことが誰かに蔑まれる理由にはならないだろう?だって、この世のトップに君臨する者でさえ神ではなく人間なんだからさ。君みたいな異形が堂々と日の光を浴びることのできない理由が分かるかい?それは君たちが普通の人間に色々と劣っているからさ。偉そうに人間愛を語っちゃいるけど、それもたかだか人間の真似事。結局のところ、俺たち人間からしてみれば、君たちの言う愛は戯言って訳」
「い、臨也さん!」
これ以上今の罪歌を刺激してはいけない。そう瞬時に判断した私は、咄嗟に臨也さんの言葉を遮った。一体彼は罪歌をどうしようというのか。下手に機嫌を損なわせてしまえば、逆上した罪歌が突然斬りかかってくるかもしれないではないか。頭の良い臨也さんのことだから何か考えがあるのだろうけれど、その割にはあまりにも危険過ぎる。こんなやり方、臨也さんらしくないーーそんな私の不安を察したのか、臨也さんは大丈夫だからと言わんばかりに私を宥める。こうも優しい微笑みを向けられてしまうと、もう何も口出しすることはできない。ほんの少しもどかしくもあるが、ここは大人しく様子を伺っているのが1番賢明なのだろう。
ぐっと何かを堪えるかのように俯き、そして再び視線を上げる。すぐに視界に飛び込んできたものは、先ほどまで以上に急接近してきた臨也さんの赤い眼だった。一瞬、恐怖で身体が強張る。いつの間に彼も罪歌に斬られ、乗っ取られてしまったのだろう。しかし臨也さんの眼は他の者たちと比べ虚ろなものではなかったし、はっきりと自我を持った者の眼である。そこで私は、一瞬彼の眼に宿った赤い光の正体が反射された月光だったのだと察した。頭がそんな分析をしている一方で、事態は三度急変する。まずは視界が暗転し、一面真っ暗になる。次いで、耳元で囁かれる臨也さんの声。最後に温かくも柔らかい感触ーー身に覚える感触だ。その感触の正体を悟るまでに少々時間を費やしたのだけれど、気付いた時には既にもう臨也さんの"唇"は離れていた。
ーー……?
ーーえっと、今の感触は……
ーー……もしかして……???
「!! なっ、なな……っ!!?」
何か言おうとするものの、上手く言葉が出てこない。臨也さんは取り繕う暇さえ与えてくれなかった。間髪無く再び唇を重ね合わせ、今度は触れるだけでなく激しい口づけを。
「ちょっ、臨也さ……!」
彼の舌がねっとりと私のそれを絡み取り呼吸さえままならず、酸素の回らない頭ではもはや何も考えられない。罪歌に心を乗っ取られてはいるが、周りには幾人もの人の目がある。たくさんの視線を浴びながら口づけを交わす淫らな自分の姿を客観的に見ると、とてもはしたなく感じてしまった。羞恥心が頭の中の大部分を占める一方で、罪悪感がざわざわとざわめく。
ーー罪悪感?
ーーそれは一体、誰へのもの?
「……ンむぅ……〜〜ッ!!」
苦しくて顔をしかめた途端、パッと束縛から解放される。息苦しさから生理的な涙が頬を伝い、しばらく何も考えることができなかった。言いたいことは山ほどあるのに。どうして突然こんなことを、だとか、一体何が目的で、だとか。少なくとも臨也さんは感情が赴くままに行動するような人ではない。頭のいい人間であるが故、その者の考えはとても読みにくい。
ただ1つ、どうしても解せぬことがある。激しいキスを交わしつつも、彼の視線は確かに罪歌たちを捉えて離さなかった。雲に隠れてしまった紅い月が再び顔を出し、臨也さんの挑発的に光る眼が明るみになる。ギラリと紅く光るその眼(まなこ)はまるで野生の肉食獣を連想させた。違う。彼は私の知ってる臨也さんじゃない……!
ーー本当に?
ーー本当に、心の底からそう思ってる?
内なるもう1人の自分が私に問い掛ける。本当はーー疑問に思ってた。ただ考えることを放棄していただけで、薄々と感じ取っていたではないか。時折見せる彼の顔が、ただの「善い人」ではないということに。あれは策士の顔だった。巧妙な筋書き(シナリオ)を見事に仕上げてみせる、完璧なプロ。
「これは宣戦布告だよ、罪歌」
「!?」
「あぁ、ちなみに。俺は正真正銘人間さ。あの化け物染みたシズちゃんを人間として分類するくせ、俺のことは愛したくないと?随分と勝手だよねえ。大いに結構、だけどこれだけは言っておく。いずれ今日俺を斬らなかったことを後悔する時が来るさ。君たちにもね」
みるみると歪んでゆく罪歌たちの表情。これは恐れか、それとも怒りか。どちらとも取れぬ表情に見ている側も戸惑いながら、それでもこの場にいる全ての者が彼の言動へと全神経を向けていた。それは無論、私も例外ではない。まるでとある国の独裁者の演説を聞いているような、そんな錯覚に陥ってしまうのだ。
臨也さんは言った。罪歌は自分を愛したがっていない、と。全人類を愛したいと公言する彼女がそれらしきことを口にしたとは到底思えないが、確かに彼女が斬ろうと本気になれば彼を斬る機会はいくらでもあったはずだ。それをしなかったのは何故?やはり罪歌は臨也さんを拒絶しているというのか。……いや、寧ろ憎悪の対象である可能性も否めない。私の中で彼女が喚く。"また"彼は私の邪魔をするのか、と。まるでざまあみろとでも言いたげな彼の口振りに、罪歌はとうとう何も言い返してはこなかった。
「見たか、化け物。これが人間の愛し方さ」
「とてもじゃないけど、君たち刀には真似できないよねぇ」