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その後どうやって別れたか覚えていない。気付いたらみさきはもうその場にいなくて、俺はただ呆然とそこに突っ立ってた。ぐるぐると頭の中を回り続けるみさきの言葉。自分がそれにどう答えたのかさえ、もはや記憶の彼方に消えていた。
――「別れよう」?
――ワカレヨウって何だ?
『おい、静雄!』
「……セルティ」
『何があったんだ!?みさきちゃんが1人で走って行くのが見えたから何事かと思えば、お前は呆然と突っ立ってるし……』
あぁ、そうか。みさきはもう行ってしまったのか。俺に別れを告げ、1人で。
「フラれた」
『……は!?』
「俺にも何があったかさっぱりなんだけどよ、みさきの口から『別れよう』って。多分、そーいう意味なんだろうな」
『いや……しかし、なんでこんな急に……』
確かに、他の者からしたらあまりにも唐突過ぎる話だろう。正直、自分自身が今の状況をよく理解できていないのだから。
『静雄はそれでもいいのか?』
「いい訳あるかよ。……けど、これがみさきの本心じゃねえって事くらいは分かる。あいつ、嘘吐く時は決まって顔を背けるんだ」
『なら、今からでも遅くはない。早くみさきちゃんを追いかけよう』
「いいや、その前に……やらなくちゃいけねえ事があるだろ?俺にはよぉ」
『お前……本気なのか?』
「それにな、セルティ。こんな時に言うのも何だが、俺……みさきのことすげー好きなんだ。好きな女を苦しめてる張本人が、わざわざ俺に会いたがってんだろ?なら、俺にとっても好都合じゃねーか」
口ではそう強がってみるものの、本当は心配で心配で仕方がなかった。今すぐみさきを追いかけて、もう1度2人で話し合いたい。ただあの時はいかなる状況も彼女の言う通りに受け入れるしかなかったのだ。きっとサイカとやらがいなくならない限りみさきが意見を変える事はないだろうし、いくらみさきの願いとはいえ俺だって意見を変えるつもりなどない。このままではお互い譲らず、問題は何1つ解決しないだろう。俺に残された選択肢は2つ。別れたくないが故にみさきの意思を優先し、これから先罪歌の存在に怯え隠れながら暮らすか。例え本望でなくともみさきと別れ、彼女の意思に逆らい罪歌の元へ行くか――俺が選んだのは後者の方。逃げたり隠れたりするのは俺の性に合わないし、何事も白黒はっきりさせたいという己の方針に従った。一時的な逃げなど通用しない相手だという事は分かりきっている。
これを機に分かったことがある。俺はみさきを守る為ならば何だってできるということ。そして仮にみさきがこれを機に俺を嫌ったとしても、俺はみさきの意思関係なく彼女のことを愛しているのだということ。彼女が俺以外の誰を好きになろうと、みさきは"俺の"だ。今更逃すつもりなど毛頭ない。邪魔な奴はどんな手を使ってでも排除して、今までの日常を取り戻す。それが今俺の最優先すべきことであり、己の理想だ。
「行こうぜ。そこに罪歌はいるんだろう?まずは奴に会う。話はそれからだ」
♂♀
やり方は違えど、2人の目的はただ1つ。罪歌さえいなくなれば、全て元通りになるはず――藁にもすがる思いでそれを信じ、今はそれを成す為だけにひたすら前へ突き進む。自分の身を犠牲にしてでも想い人を守りたいと願うが故に。一聞純粋な恋心がそうさせているかのようで、実は根本的に違う。執着、嫉妬に独占欲――そういうどろどろとした感情の織り成す歪んだ恋の物語。さて、彼女らはこれからどうすればバッドエンドを逃れる事ができるのだろう。最近はそれを想像するのが楽しみの1つ。
なぁ、折原臨也。あんたはもう気付いているか?自分だけは蚊帳の外だとお前は自嘲気味に笑うが、俺からしてみればあんた自身もゲームの駒であるということに。どうせあんたのことだから、それは違うと持論を並べて反論するんだろうがな。井の中の蛙は所詮、何も知らない。外の世界を知らないのだから。それぞれが抱く問題の打開策は星の数ほど存在するが、それを得るには俺のように井の中を客観視する必要がある。
――知りたいか?なら、まずはその狭い井の中から脱け出してみろ。
――俺は引き続き、諸君の織り成す歪んだ物語を楽しませてもらう事にするさ。
――……まぁ、これからの展開はおおよそ予想できるんだがな。
♂♀
今思い返すと、シズちゃんが口にした「分かった」というのはどういう意味だったんだろう――なんて、いくら考えたって行き着く答えは1つしかない。そんなの、分かりきっているじゃないか。自分で別れようと言ったくせに、今こうしてショックを受けている私はあまりにも滑稽に思えてならない。いざ口にして分かった。自分の嫉妬深い部分や意地汚いところ、その他云々。本当に嫌なところばかりが目につく。
――【あら、人間らしくて素敵じゃない】
――【私は貴女のそういうところも全部、まとめて愛してあげられるわよ?】
余計なお節介、と内心思うも口にはしない。しかし面倒なことに罪歌には私のそういった心の声も届いてしまうようで、彼女は「お節介なのは彼も一緒でしょ」と言って笑った。"彼"とはシズちゃんのことだろう。
「シズちゃんはお節介というより、心配性なの」
――【どっちだっていいわ。そんなことより……意外ね。貴女、平和島静雄が好きなんじゃなかったの?】
「嫌いになった。だから貴女がシズちゃんを狙う必要はなくなったでしょ」
――【……へぇ。貴女、わざとね?だけど残念。それじゃあ私の姉妹たちが平和島静雄を諦める理由にはならないわよ】
「だろうね。そんなことだろうと思った。だから……今、私はここにいるんじゃない」
頭に直接話しかけてくる罪歌にでなく、今度は目の前に立つ"彼女"に向けて声を大にして言う。彼女――贄川春奈本人に。
「もうやめよう?贄川さん。やっぱり間違ってるよ」
「うふふ……その台詞、なんだか懐かしいですね。それにしても私の居場所なんて、よく分かりましたね。苗字先輩」
「これも罪歌のお陰なのかも」
「皮肉な話ですね。貴女は罪歌を嫌っているのに、その罪歌のお陰で私を見つけることができたんですもの」
「嫌ってるんじゃない。理解できないだけ」
「あら、どうして?私は素敵だと思いますけど。愛する者を永遠に自分のものにしてしまいたいと思うのは自然の摂理ですよ?少なくとも、貴女の愛する平和島静雄もそう思ってる。平和島静雄に限らないわ。決して全てとはいえないけれど、多くの人間が共感してくれると私は自信を持って公言できる」
「貴女のはただ、相手を傷付けているだけ。現に……右手に持っているその刃物で、これから先生を斬るつもりでしょう?」
「さすが苗字先輩ね。その通り。今、隆志を追いかけている最中なの。隆志ったら私の顔を見た途端、逃げてしまうんですもの……きっと驚かせてしまったのね。私だって想像だにしていなかったわ。まさか憎くき恋敵……園原さんのアパートに、突然隆志がやって来るだなんて」
「! 今、園原って……もしかして杏里ちゃんのこと!?」
切り裂き魔事件をきっかけに顔馴染みとなった少女の顔が頭を過るが、その問いに贄川春奈は応じない。きっと彼女にとってその問いは答えるに値しないのだろう。
「先輩、そこをどいて下さい。そんなに今すぐ私に愛されたいですか?」
「その前に他の罪歌たちを止めて」
「だから言ったじゃないですか。私は先輩さえ愛せれば平和島静雄なんてどうでもいいけれど、罪歌がこんなにも愛したがっているんですもの。私に止める義務なんてないわ」
「……止めるつもりはないってことだね」
「さぁ、早く私を彼に会わせて?私がどんなにこの日を心待ちにしていたことか……苗字先輩なら分かってくれますよね?会いたくて会いたくて、だけど会えなくて。いつの日か愛し合える日が来ることを信じ1人で過ごす灰色の日々……似たような経験のある苗字先輩になら、この気持ち……分かりますよね?」
「……分かるよ、貴女の気持ちは痛いほど分かる。だから私は貴女を止めるつもりはないし、正直……貴女たちがどう愛し合おうと私はどうだっていいの。先生のこと、個人的にはあまり好きではなかったしね。だけど贄川さんは好きなんだよね……?」
「先輩のそこで善人ぶらないところ、好きです。……えぇ、これでも自覚はしているんですよ。私の愛し方はどこか世間ずれしているんだって。理解して欲しいとは思わないけれど、善人ぶるあの子みたいな人はきっと私のやり方を全否定するんでしょうね……」
あの子、とは杏里ちゃんのことだろうか。しかしそれを確認する術もなく、彼女は愛する者の元へ行ってしまった。私はそれを止める気にもなれず、彼女の背を静かに見送る。善人ぶるつもりは毛頭ない。私はシズちゃんさえ無事であればいいのであって、好きでもない寧ろ苦手であった教師の身の安全の為に時間を割けるほどの余裕は無い。そのあたりがやはり私の嫌なところであり、もはや変えようもない人間臭い部分だ。
さて、これからどうする?贄川春奈すら今の罪歌たちを止めることはできないと言う。ならば今の私にできることは何……?ここまで走って来るまでの間、もう随分と体力を削いでしまった。元々人並み程度の体力しか持ち合わせていない私の身体は既に限界を迎えており、今から南池袋公園へ向かうにはそれなりの時間を要するだろう。いかにして迅速に行動すべきか考えを模索していると、背後からみさきちゃん、と私を呼ぶあの声が聞こえてきた。
「随分と忙しないねえ」
「……臨也さん」
「部屋にいないから驚いたよ。ま、どうせこんな事になるだろうとは思っていたけど」
「あはは……臨也さんって、たまに預言者みたいなこと言いますよね」
「それじゃあ、今から1つ預言してあげようか」
突き出された人差し指は絶対的確信の証。一体どこからそんな自信が、と考えるのも億劫だ。彼の名があまりに珍しくて、いつだったかその由来を聞いてみたことがある。遥か昔に実在した預言者に『イザヤ』という者がいたと聞くが――『臨也』という名を持つ彼もまた、人に預言をもたらすことのできる力が秘められているのかもしれない。預言とは不思議だ。預言者とは神の言葉を預かり、民に知らせ新しい世界観を示す者を指すが、それを真っ向から鵜呑みにしてしまったら本当に実現してしまいそうで。それこそ気持ちの持ちようではあるものの、この「最悪」ともいえる状況下で一体どうやって良い方向へと考えを向ければいいというのだ。
刹那――ヒュンッと風を斬る音が耳元を過る。反射的に振り返ったその瞬間、視界には銀色の刃、その刃渡りには大きく目を見開いた私自身が映っていた。危ないと脳が判断するよりも早く、光る刃物が振り下ろされる。しかしほぼ同時に強い力で腕を引かれ、後ろへと傾いた身体は間一髪で攻撃を逃れた。あと一歩遅かったら、間違いなく斬られていただろう。そして私は確信する。罪歌はもはや母である贄川春奈から離別し、全く別物の意思を働かせているということに――